出会い
風は冷たく、猫の毛を撫でる。
ーはっー
体を起こし周りを見渡す。が、景色が違う。
ー姫は…女子衆は…ー
誰の気配もない。
ー…ここは、どこだー
山の頂か、根雪…低木もない。
ー我一人ー
ー我一人なのか!? 姫!ー
怪我はないが、動きが鈍い。
尾と四肢が伸びている。
乾燥しているうえに空気が薄い。
ー寒いな
姫の気配はない。が、喪失感もない。
失われていないのならば、探すー
辺りに生命の気配はない。
〈ふんふん〉
ー鼻は大丈夫。
尾は長くなった分、気をつけないとな。歩くのに支障はない、飛んでも跳ねても大丈夫、と言うことは肉体的能力には異常がない。
探索はできる。飛行の術は、使えないのか。
能力は感じる…一時的に使えないだけなのかもしれないー
〈ぐうぅぅ〉
ーとりあえずは、喰を探さねばならぬな。
しかし、随分下ったはずだが、どこまで行っても雪山だ。もう十回は月様の顔を見たか。岩と土ばかりだ、草すら無い。
雪だけではもたぬ、腹がヘったー
大きなため息をつく。
水が動く音がする。駆け足になる猫は気がはやり足がもつれる。下り坂の岩に足を取られ、転がる。勢い、飛び出した先には地面がない。
〈とぷんっ〉
水の流れと共に滝壺へ。
ーくっ、息が…できない。こんなところで…姫…ー
意識が朦朧とし、再び闇の中へと誘われる。
風が我の毛を撫でる…
ーはっ、息ができる!ー
猫は、目を開けると同時に地面を蹴る。
バシャッ! 足を着いたところは、半身水の中である。猫の身に悪寒が走る。
「あっはっはっ、何やってんだ。おっさん」
ーおっさん、だと?ー
夕暮れの柔らかな光に照らし出される木々、水辺にたつ一際大きな気の傍で焚き火がたかれている。その脇に、金色…いや、銀色の毛の猿族が腹を抱えて笑っている姿があった。
体裁悪く、猫は銀猿を睨みつけ、水から上がる。
体をふるわせ水気を飛ばす。
〈ぐうっ〉猫の腹が鳴る。
「くっくっくっ、こっちへ来いよ、食い物有るぞ」
銀猿は、息も絶え絶えにずっと笑っている。
焚き火では小魚と小動物が炙られていた。
傍には、木の実が盛られ、銀猿が口の中に放り込んでいる。猫は、先ほどまで自分が居たであろう寝跡を見つけた。
「ビョウゥ」
「うん、おっさんは言葉を覚えた方がいいな。何を言っているか判らん」
銀猿は自分の頭に巻いていた布をとり、猫の体を拭きはじめる。体が伸びたと入っても、銀猿の両手にすっぽりと収まる大きさである。猫は無意識のうちに懐に潜り込もうとして、着物に袷がないことに気づく。
銀猿は猫の行為を気にすることなく、ガシガシ体を拭いていく。
「こんなもんか、取り敢えず腹を満たそう。ほら」
目の前に焼けた小動物の肉が差し出され、猫は思わずかぶりつく。
「ビョッ(あつい!)」
「あっはっはっ、ゆっくり食べなよ」
地面に置かれた肉が冷めるのを待つ間、熟れた甘酸っぱい木の実をかじる。
「おっさんは、月が五回昇る間寝てた。ちょっと慌てたかな。イシシシッ」
ーまた、おっさん! おまえの方が随分老けてるだろうにー
猫は銀猿を睨みつける。
「食ったら、もうちょっと寝てな」
「ビョウ」
空腹が満たされ、焚き火の暖かさに銀猿の匂いの染みついた布に包まれ、眠りに落ちる。
ーこの銀猿は、何故ここにいるのだろう?…ー
〈ピッ! ピピピッ…〉
小鳥が猫の耳元で騒いでいる。
「ビョウゥゥゥ(ぐっ、体が動かん)」
「無理すんな。あの滝壺に落ちたんだ。生きてるだけでめっけもんだよ! ってな?」
朝日を浴びて毛が銀色に光っている銀猿の視線の先に、遙か彼方霧に煙っている巨大な滝が聳えている。
「でもなぁ見た感じ怪我がないって、どんだけ丈夫なんだよ」
ー…ー
「もう少し、此奴に甘えてもいいかもしれん…とか。ちょっと思ってる?」
「ビョッ」
「あっはっはっ、図星だな。甘いねおっさんは」
喋りながらも、手際良く獲物を捌いている。
猫は、改めて丸くなり、うとうとし始める。
体力が回復するまでの数日は、もっぱら言の葉を紡ぐべく時を掛ける。
「腹ヘった!」
「びょらべっば」
「うん、もうちょい」
「びゃる!」
「ん? 」
「びょら。びょり。びょう」
「…うーん、そら、とり、くう? 」
「ビョウ! 」
「んっふっふっ、木の実はうまかろう」
「ビュッ、う、うばい」
ーくそっ、目の前で兎の肉なぞ食いおって…ー
ゴクリと猫の咽が鳴る。
川の浅瀬で猫は小魚を追いかけるが、ことごとく逃げられる。小魚にバカにされているようだ。
思い切って滝壺に潜ったは良いが、頻繁に水面に顔を出す。
滝壺の水が濁ってきた頃、やっと尻尾に食らいつく。
「びょはっ」
滝壺から上がって、体から水をふるい落とし、改めて獲物を見る。
小さな猫の一口で終わってしまった。
ここ数日、銀猿の姿が見えない。
猫は雑食なので、木の実や小魚だけでも困ることはない。
ー改めてみると、この滝壺の周りは生命が多いな。
雪と岩だけの、滝の上とは大違いだ。草木、果樹、小動物や小魚。大型の動物や、力を持つものも居ない。
閨にも食にも困ることがないのなら、ここで暮らすのも悪くない。
…姫が居ればー
〈ガサッ〉
背の高い草むらの中から現れたのは、見上げるほどの大きな山犬。
山犬の口からは炎が迸り、辺りが殺気で満たされる。
身構えるまもなく、山犬の顎が襲いかかる。間一髪で、距離をとり牙を避ける。山犬の吐く炎に毛が焦がされる。右に左に攻撃を避けるも、山犬の動きも早く、避けるので精一杯だ。
ー今の我には…ならば、退くー
身を翻し山犬から逃れようと、脱兎のごとく走り出す。
這々の体で、岩陰を見つけ潜り込み、やり過ごす。
〈ほっ〉としたのも束の間、背後から迫り来る影。
ー終わりかー
観念した瞬間、むんずと首根っこを掴まれ、体を軽々と持ち上げられる。
「おっさん、こんなとこで何やってんだ? 」
「ヤ、ヤマイヌ…キタ…」
「うんうん、そりゃあ犬くらい出るさ。…そろそろ潮時かな」
ー何だ?ー
銀猿は猫を岩に叩きつける。
「ビャウン」
ーなんだ。なにをするー
猫慌てて身構える。
殺気を孕んだ形相で、銀猿が迫ってくる。
「マテ、ナニヲ…」
爪を出し、毛を逆立てた頭の上を、炎が轟音をたてて通り過ぎる。
目の前の猿族が炎に包まれ、山犬の群が銀猿を囲む。
「ちっ、仕方ねぇなぁ」
身を震わせ、水滴を飛ばすように、体に纏わりついた炎を飛ばす。
四方から襲いかかる山犬を睨みつけ、一匹づつ確実に蹴り殴り倒していく。山犬も間合いをとり、隙を狙っている。
そのうちに山犬が銀猿に食らいつくようになってきた。
目の前に血塗れの山犬が落ちてくる。
猫の足がふるえる。戦うことも逃げることも叶わず。
ー我は…ー
「くそっ、流石にこの数はこたえるな」
山のように襲いかかる山犬。
流石の銀猿も、無傷ではいられない。
体のあちらこちらから滴る血は、山犬だけのモノではないだろう。
奥歯に力が入る。毛が逆立ち爪が煌めく。
ズウゥゥン
大きな地響きが響きわたり、辺りが影に覆われる。
『ワレノドウホウニアダナスモノハタレゾ』
声と共に姿を現したのは、小山も有ろうかと言うほどに大きな山犬であった。
「よっ! 久しぶり」
『フンッ、キヤスクアイサツナドスルデナイ。ワザワイヲモタラスモノヨ』
「つれないなあ… 昔はよく遊んだじゃないか」
『ヤカマシイ!』
銀猿の言葉が終わらぬうちに大山犬の口から火炎が放出される。炎に包まれた銀猿を遠巻きにする山犬たち。
炎に飲まれた銀猿の体が崩れ落ちる。
岩陰に隠れ縮こまっていた猫の体にふるえが走る。
「ビョウゥゥゥ」
声と共に雷が辺りを包む。
『ナント! ビョ…』
微かに銀猿の口角が上がるように見えた。
そして、猫は暗闇の中へと飲まれていく。