東京にて、初めての世界
タンのフライトは午前八時ごろの到着だった。飛行機が着陸してから、イミグレーションの混雑具合もそこそこ。やはり整った国の空港環境となると、働いている職員や環境もスムーズに進んだ。ただスムーズなラインも、やはり出稼ぎ労働に来ている外国人(特にダロン人)ともなると、なかなかに難関であった。
「就労ビザを見せなさい。何年で取得しているの?」
「五年です」
「どんな仕事をする予定なの?雇用先は?」
「飛鳥様という方のお屋敷に雇って頂きました。オールワークスメイドです」
「なるほど。出生登録証は?また、外国で働く理由は?」
タンは手元にあるすべての重要な書類を提出する。そして淡々と質問に回答していった。
「祖国の家族を養うためです」
「…そう。あなたはまだ15歳なのね」
イミグレーション職員の中年の女性は、日本人。恰幅が良く綺麗な身なりをしていた。タンから見れば彼女は富裕層だ。いや、日本に住むすべての日本人は富裕層だ。
「まだ若いのに大変ね。頑張りなさいね」
そう言って彼女は、タンの書類などすべてに必要な判子を押していった。この時タンは分からなかった。なぜこの日本人が同情的な眼差しで自分自身を見ていたのか。なぜ大変だと、うわべだけでも労りの言葉をかけられたのか。そしてなぜ、頑張りなさいと声をかけられたのか…。
もちろんダロンでは未成年の若者が日本に出稼ぎに来ることはよくあることだ。だが大抵、就労ビザを持っていたとしても、まともな仕事につかなかったり、最低賃金での雇用であったり、他の外国人労働者と共同生活を強いられたりと苦労が絶えない。また富裕層の家でメイドとして働くとなると、雇用主の慰安になるケースも少なくはないのだ。
タンは軽々とカバンを持ち空港を出た。雇用主の飛鳥という人物からは、飛行機の手配などすべて手続きされており、東京に到着後は迎えに来る、という通達がきていた。待っているゲートナンバーと車のナンバー、特徴なども伝えられていたが、タンは戸惑っていた。空港のあまりの広さに─、あまりの人の多さに─、そしてあまりに進み過ぎた、まるで少し未来にタイムスリップしてきてしまったかのような時代に─…
タンはついていけなかった。
戸惑い、迷い、そして怖かった。
どうしよう。何番ゲートってどこだろう?車、見つかるかな…飛鳥様怒っていたらどうしよう。どんな人だろう、どうしようどうしよう─…。
「タン・ジュンちゃん?」
タンが心細い気持ちで、数分ほど空港を彷徨っていたところ、黒いスーツに青いネクタイを結んだ、30代ぐらいの男が声をかけてきた。優しい声だった。
「……飛鳥様ですか?」
「ああ、やっぱり。すまない、いきなり東京空港で何番ゲートとか言ってもわからないんじゃないかと思って。心配していたんだ」
「…遅れて、申し訳ありません」
「大丈夫。入国大変だったろう」
目の横に皺が少し入っている。冷ややかな眼差しだった。背はそこまで高くない、体もどちらかというと細身なほうだ。
飛鳥はタンの鞄をスマートに取り代わりに持つ。あまりの軽さに少し驚いていたが、そのままタンを駐車場の車を停めているところまで連れて行った。黒く大きく綺麗に磨かれた車だった。
タンは助手席に乗り込み、飛鳥は車を運転し始めた。
車から見る外の景色は素晴らしく近代的で進んでいた。見たこともない大きなビルがたくさん並んであり、たくさん密集してある。時々道を歩いている日本人を見かけると、みんな綺麗な服を着たり、高そうなかばんを持っていたり、女性はヒールを履いて歩いていたり。タンがいた場所では考えられないような、日本という国は整った場所だった。
「僕は飛鳥時郎だ。よろしく」
「はい、旦那様。タン・ジュンです。宜しくお願い致します」
「…君は年の割に、落ち着いているね。聡明だ」
飛鳥の声は低く、聞き心地がよかった。なんとなくであるが、ゆっくりと話す感じが、聞きやすかった。
「今、うちには一人もメイドがいないんだ。以前勤めてくれていた人は、先週契約満了で国に帰ったのでね。なので頼りにしているよ」
「はい…宜しくお願い致します」
「特技は?」
「…水泳と料理です」
「趣味は?」
「バスケットボールです」
「家族は…父親がいないんだったか?」
「母と、妹と弟がいます」
「そうか、分かった」
そう言って飛鳥は屋敷に着くまでの約2時間ほど、何も話さなくなった。タンは初めて見る東京の景色を堪能しつつも、寡黙で厳格そうな屋敷の主人飛鳥に緊張をしていた。恐れすら感じたものだ。冷たげな瞳のさらに奥になにかが蠢いているような…そんな感じがした。
辿り着いた屋敷は想像以上に大きかった。大きな車庫にもう一台の車、そして大きな庭。ただ庭はまったく手入れがされていないようで、雑草が生え放題のようだった。