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壁の上  作者: 氷月涼
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深咲:若い男

 ガチャガチャと鍵を開ける音がする。母はさっき買い物に出かけたばかりなのに、忘れ物をしたのだろうか。鍵を開けて部屋に入ってきたのは母ではなかった。あの若い男だった。

 わたしはすっかり病人気取りで、パジャマのまま布団の中で参考書を眺めていたところだった。こんな時間にやってくるとは思わず、迂闊だった。布団の中で私は身構える。

 いつも男は無言で家に入ってくる。入ってから部屋を見回して、母がいる時だけ、とってつけたようにお邪魔しますとつぶやく。母が仕事へ出かける前にやって来て、母と一緒に出て行く日もあれば、母が帰ってくる前に来て、母の帰りを待っている日もあった。日を追うごとに少しずつ男がやってくる時間が早くなってきていた。

 わたしは参考書に集中しようとしたが、全く頭に入らなかった。

 男がライターで煙草に火をつける音がする。煙草の煙の臭いは、頭から布団をかぶっていても感じられた。

「今日も学校行ってないとは、悪い子だ」

 近くで男の声がして、布団の足元がめくりあげられる。履いていた靴下を片方脱がされて、熱いものが脛に触れる。苦痛で声が漏れるのをかろうじて堪える。

 わたしの足は火傷の跡だらけになってしまっているから母に知られないように靴下を欠かさず履いていた。腕や顔など一目でわかる場所には跡を残さないように男は選んでいるようだった。

「おまえは昔の俺のように、痛めつけられる運命なんだ。俺がやられたことをおまえにするだけだ。恋人の子供ってのはそんな存在なんだ」

 男は布団を全て取り去って、丸くなって体を縮めているわたしの髪をつかんで顔を上げさせた。男の顔など見たくないわたしは視線を外す。だからわたしは男がどんな顔をしているのかはっきりとわからなかった。わかりたくもなかった。

「無駄に長い髪だな、いるのか、これ」

 言いながら男は口に咥えた煙草を髪に近づけた。髪の焦げる臭い。

「くせぇ」

 男はつかんでいた髪を離し、わたしから離れた。

 縮れて焦げくさい髪がわたしの目の前に落ちかかった。

 サラサラで綺麗と律子が言ってくれたから背中まで伸ばした髪。焦げた部分はわずかだったけれど、好きだったもののひとつが、また無くなった気がした。

 男はもう気が済んだのか飽きてしまったのか、テレビを観ることにしたようだ。ドラマの男女の陽気な会話が聞こえてきた。くさい、くさいと男は繰り返し、換気扇をつけた。

 わたしは布団から起きだして冷蔵庫まで歩き、冷凍庫から保冷剤を出して布団に持ち帰った。そして保冷剤を火傷した場所に当て、体を丸めて頭から布団をかぶって、苦痛の時間をやり過ごした。

 母が買い物から帰宅して男と出ていくと、心底ほっとした。母はいつものように布団で丸まっているわたしを構うことなく、買い物した荷物を冷蔵庫にしまうと、普段通り、「行ってきます」と男と一緒に出て行った。

 何も気づいていない母のことが憎らしく、母を置いて家出しようかと何度も考えた。あるいは母が気づくように火傷の跡を見せびらかしてやろうかとも考えたが、どちらもできなかった。男と一緒にいるときの母の幸せそうな顔を見てしまうと、それを奪ってはいけないと思えた。でも、わたしを傷つける以上、そういった要素を持った男なのだから、それがいつ母に向かうかわからず、そうするとさっさと別れてくれるように仕向けるほうがいいのかもしれないとも思うのだった。


 その夜、わたしはハサミで自分の髪を切った。思い出だけをひきぬいて、縮れて焦げた髪と一緒に全部新聞紙にくるんでゴミ箱に捨てた。焦げた部分だけ切ってしまえばよかったが、切ってすべて捨ててしまいたかった。私の髪は不格好に短くなった。


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