壁の上***
*
放課後、一緒にデパートへ行かないかと朝美を誘った。隣の家に赤ちゃんが生まれて、帽子をプレゼントしたいから見に行きたいのだと言うと、朝美はちょっと困った顔をした。真面目な朝美は学校の約束事を破りたくないのだろう。子ども同士で校区外に行ってはいけないという決まりを破らないと、デパートには行けない。
「政恵ちゃんのお母さんも一緖に行くの?」と朝美が訊く。
「そんなわけない。ママは仕事」嘘をつく。どうせ男のところか、家で男とイチャついてる。
「じゃあ、朝美のお母さんも一緖に行っていい?」
「だったら一人で行ってくる」
朝美のお母さんは立派なお母さん。ちゃんとした大人。悪い事はしっかり注意する。そんな人と一緖だなんてありえない。
たっぷり三分くらい考えて朝美は一緖に行くと言った。
「政恵ちゃんといると毎日冒険してるみたい」そう言ってにこにこ笑った。
私と朝美は四時間授業の日の放課後、デパートへ行くことにした。学校のそばにあるバス停から乗車すると、誰かに見つかった時にやっかいだからと、街の境界にあるバス停まで四十分かけて歩いた。
「政恵ちゃんは今までにもこんなふうに校区外に行ったりしたことあるの?」
「べつに校区外とか校区内とか関係ないし。行きたいところへ行くだけ。前の学校は繁華街に近いところにあったから校区内で寄り道してたし」
「あたしは放課後にデパートなんて初めてだなあ。家族でたまに行くくらい。子ども同士で行くなんてドキドキする!」
道中、朝美はずっと頬を赤くして目を輝かせていた。私はそんな朝美を冷めた目で見ていた。もうずっとそんなふうにワクワクしたことなんてなかった。
デパートに着くと、朝美はキョロキョロしてあちこちの店に入りたがったが、私はすぐにベビー服売り場に向かった。フロアの半分以上が子ども服売り場の中、ベビー服を多く扱うブランド服のコーナーで立ち止まる。ベビー服を見回して朝美は大きな声でかわいいかわいいと連発していた。私は朝美を呼び寄せて、くまの耳がついたような帽子があるか訊いてきてと頼んだ。いいよと朝美は店員の元へ駆け寄って行った。私はそのタイミングで近くにあった赤ちゃんの靴下をポケットに入れた。最初からそのつもりでここへ来た。
「今はそんな商品はないって」朝美が私の元へ帰ってきた。
「仕方ないね。じゃあ、もう帰ろう」
「他の店を探さなくていいの?」
もう用事は済んだから。でも嘘をつく。
「ここの帽子がよかったから、いいの」ちらっと店員の方を見る。気づいていない様子だ。たいへん申し訳ございませんと頭を下げていた。子ども相手なのに。思わず笑いが漏れてしまう。笑った私を朝美が不思議そうに見ている。残念がる場面なのに、おかしいと思っているに違いない。
「もう、行こう」朝美の手をとって、その場から離れた。長居は無用。
エスカレーターを使わずに階段を降りる。無言で急ぐ。デパートの南口のバス乗り場には、もうバスが到着していた。
「あれに乗ろう」朝美の手を掴んで私は走った。待って、まってと言いながら走るのが苦手な朝美も懸命に走った。
二人が乗ったところでバスのドアが閉まった。
息を切らせながら、私と朝美はいちばん後ろの席へ移動して座った。私はポケットにある靴下をさわって確かめて、笑みがこぼれた。隣に座る朝美はまだ息を切らしながら、楽しかったねと無邪気に笑った。朝美には何が楽しかったのだろう。
行きと同じバス停で降りる頃には日が傾き、夕焼けで辺りが赤く染まっていた。早く帰らないと暗くなってしまうと朝美は急ぎ足になっていた。しばらく歩いたところで、私はおもむろにポケットから赤ちゃんの靴下を出した。
「見て、かわいいよね。これ」
値札がついたままの靴下を見て、朝美の顔が凍りつき、立ち止まる。
「どうしたの、それ?」
「これ? 盗ってきたの」
「なんで? だめじゃない! うっかり入れちゃったの?」
「まさか。最初からそのつもりだよ」
「なんで? 悪いことだよ。返しに行かないと!」
「そんなことしたら警察に言われたりして、困ることになるよ。あんたもね」
「でも、悪いことだよ」
ひたすらこの押し問答が続くかと思うと、うっとおしくて堪らなくなった。
「あたしも一緖に謝ってあげるから。一緖に返しに行こうよ。間違って持ってきちゃったんですって」
「しつこいな!」
そう言って私は両手で朝美を押した。尻餅をついた朝美はびっくりした顔をしている。
「しつこいって言ってんの! こっちは悪いことなんてわかってんの。そうしなきゃ、手に入れられないんだから」
「でも、おこづかい貯めたら……」朝美が言い切る前に言葉を遮った。
「小遣いなんてない。もらったことなんて一度もない」
二の句を継げないでいる朝美に私は挑発してみる。
「じゃあ、あんたが私にお金くれんの?」
朝美は黙っている。
「友達とはお金のやりとりをしちゃいけないって規則だよね、学校の。できるわけないよね、あんたには」
「じゃあ、だまっときな」
私は朝美のみぞおちめがけて拳を入れた。
朝美はうずくまってごぼごぼと咳込みながら呟いた。なんで……と。涙がぽろぽろこぼれ落ちていた。
*
壁の上にあるものは、霧。そして私の吸うタバコと吐き出す煙。私しかいないはずの空間だったのに、霧の隙間から、何か漂うものが見えた気がした。白い布がゆれている。次第に近づいてきて、鮮明になったそれは、人が水に浮かんでいるように、あおむけに霧の中に浮かんでいた。白い服を着た髪の長い若い女性。生きているのか死んでいるのか。しばしその姿を見つめた。次第にそれは私の方へ流されてきて、手が届くほどの距離まで近づいてきた。若い女性の閉じられた目がゆっくりと開き、私の方を見た。目が合った途端、水の中へ潜るように下方へ消えていった。その女性は野本深咲にそっくりだった。