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壁の上  作者: 氷月涼
6/18

壁の上**

 ここはどこまでも霧。見えているのは自分のまわりだけ。ポケットからまたタバコを取り出して火をつける。タバコの煙は霧に混じっていく。

 今日はどこが光るのだろう。壁の上を歩いていく。どこまで歩いても果てはない。すこし先でほのかに光っていた。ゆっくり歩く。急ぐ必要は何もない。私がほしい記憶でもなんでもない。でもきっと刻み続けなくてはいけないのだろう。

 光を踏んで、記憶の中に落ちていく。


 その日の朝は雨が降っていた。雪になってくれたらよかったのに、冷たく激しい雨だった。玄関を出て開いた傘の骨はゆがんで折れかかっていた。

 いつものように朝美の家へ迎えに行く。玄関のインターフォンを押すと、朝美のお父さんが出迎えて玄関に招き入れてくれた。朝美のお父さんを見たのは初めてだった。スーツ姿がキマっている。優しく笑っておはようと声を掛けてくれる。

「きみが政恵さんだね。朝美から聞いているよ」

 私は会釈して朝美のお父さんを目で追った。出迎えてくれた時に履いていたサンダルから大きな革靴に履き替えて、下駄箱の上に置いてある鍵に手を伸ばす。ごつごつした大きな手。りん、と鍵につけてあるキーホルダーの鈴が鳴る。

 その時、朝美が階段からあわてて降りてきた。

「お父さん、今日、学校まで送ってくれるんでしょ」

「すごい雨だからな。特別だ。傘、忘れないようにな」

 朝美はスニーカーのかかとを踏んだまま、玄関の端にある傘立てまで足を進め、ピンク色の傘を引き抜き、続いてもう一本、柄の長い紺色の傘を引き抜いて、父親に渡した。

「お父さんも、忘れないようにね!」

 朝美のお父さんは笑って受け取った。あたたかい笑顔。それがふいに私へ向けられて、戸惑ってしまう。

「きみも一緒に乗って行きなさい」

 友だちが迎えに来ているのなら、一緒に乗せていくのは当然の流れだけれども、そんなことがはじめてだったので、何も言えなくて、頭を下げるので精一杯だった。

 タクシーのように朝美と私は後部座席に乗った。私はタクシー以外の車に乗ること自体が初めてだったから、嬉しくてしかたなかった。平然とした顔をして、朝美のおしゃべりに耳を傾けるものの、うわの空だった。車の窓から雨粒ごしに見える流れる風景。斜め前の運転席に目を向ける。運転する朝美のお父さんのハンドルさばきがカッコよく、見とれた。

 ねぇ、聞いてる?と朝美に声をかけられて、我に帰り、何?もう一回言ってとお願いした。

「今日は一日中雨なんだって。公園には遊びに行けないから、あたしの家で遊ぼうよ」

 いいよ、と私は答える。すると、運転していた朝美のお父さんが朝美に声をかけた。

「よかったな、近所にいい友だちができて」

「うん!」

 満面の笑みを浮かべる朝美の横顔を見ながら、自分の中から湧き上がってくるモヤモヤした黒いものの存在を感じていた。



 下校する頃には雨は幾分か小降りになっていた。朝の約束通り、私は朝美の家で遊ぶことになった。朝美の部屋はきちんと整理されていて、ものがあちこちに出しっぱなしになっている私の部屋とは大違いだった。

 朝美の部屋に唯一あったクマのぬいぐるみ。黄土色したそれはとても可愛いとは言えない代物だったが、それを買った時のことを聞いて、私はぬいぐるみを交換しない?と提案した。

 朝美の家は厳しくて、欲しいものをすぐに買ってくれるわけではないという。月に決まった額のお小遣いをくれるから、お小遣いを貯めて自分が欲しかったぬいぐるみを買ったのと朝美は誇らしげにほほえんだ。本当はすこしお金が足りなかったけれど、買うのに一緖についてきてくれた友だちが安くしてと頼んでくれたらしく、なんとか買えた宝物なの!といとおしくぬいぐるみを抱きしめた。名前もつけていて、ABA と三つのアルファベットのボタンがぬいぐるみの胸元に縫い付けられていた。アバって言うの! そんなに上等なぬいぐるみじゃないから、毛もゴワゴワしているけど。にこにこと朝美は幸せそうな笑顔をふりまく。

「私、ふわふわの毛をした真っ白の犬のぬいぐるみ持ってるから、それと交換しない?」 

 そう提案した時、朝美は一瞬、顔を曇らせた。それが本心だろう。でもすぐに取り繕われる。

「いいの?」

「朝美がいいなら、交換しようよ!」

「ふわふわの毛のぬいぐるみって抱っこしてみたかったんだ」取り繕われ続ける笑顔。

「今から持ってくるから待ってて」

 朝美の気が変わらないうちにすぐに交換してしまおうと私は自宅にぬいぐるみを取りに戻った。ママの彼氏からいつだったかもらったぬいぐるみ。ビニール袋に突っ込んだままになっていたはず。探し出して走って朝美の家まで戻る。

「はい、ぬいぐるみ! ふわふわでしょ?」朝美の前に差し出す。

 朝美の目が赤い。泣いていたに決まっている。どうして嫌だと言わないのだろう。

「ほんと、ふわふわでかわいいね~」

 朝美はぬいぐるみを受け取って抱きしめた。貼り付けたような笑顔。私はタンスの上に置いてあるぬいぐるみのABAを取り上げ、「じゃあ、とりかえっこね」とほほえんでみせた。

 帰り際、「大事にしてね、ABA」と朝美が言うので、「もうABAじゃないよ、違う名前にするから」と答えてあげた。寂しそうな顔をする朝美を見て、成功したと私は満足していた。


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