政恵:再会と決意
この町の教員採用試験を受けたのは、ママの元彼に会えるかもしれないと淡い期待を抱いてのことだった。私は以前この街に住んでいたけれど、ママのトラブルで別の町に住むことになってしまった。それ以来、この街を訪れていない。街のあちこちが変わって別の場所のように思えたが、そもそも二年くらいしか住んでいなかったから、よく覚えていないだけだろう。
ここで朝美に会うとは思ってもみなかった。この街は一時期私が住んだことのあるあの町からはずいぶん離れているが、通勤できない距離ではない。そのことに全く考えが及ばなかった。霧の中の変な夢を見るようになったのは彼女に会ったせいかもしれない。
きっかけは、放課後、職場体験の申し込みのために、協力してくれる施設や企業の連絡先一覧を見ながら電話をしていたときのこと。市立図書館の担当者へ電話をかけたが、担当の吉田さんは不在だった。改めて明日連絡することにして、対応してくれた女性職員の名前を尋ねた。「シンメイです」と名乗った。「神明」という苗字には覚えがあった。まさか、とは思った。電話を切ってから、その女性職員の電話での対応を思い返した。フルネームで私が名乗ったとき、少し間があったように思う。戸惑ったかのような。確かめなくては。
私は仕事を早く終わらせて市立図書館へ向かった。平日は午後七時まで開館しているはずだった。閉館の十五分前に図書館に到着して、それらしき職員の姿を探した。その時間、女性職員は二名しかおらず、一人はベテラン風の中年女性で、カウンターで利用者に質問を受けていた。もう一人の若い女性職員はひたすら返本処理をしており、うつむいていてよく姿が見えなかった。
貸し出しカードを作り、私の名前を見てもらえば気づくかもしれない。すばやく申込書に記入して、貸し出しカウンターへ向かう。まだベテラン風の職員は利用者と話をしている。返本処理をしていた若い女性職員が私の存在に気づいてカウンターにやってきた。
「お待たせしました」と明るく言った後でその女性職員の表情が曇った。小学生の頃の彼女の面影がある。思った通り、職員の名札には「神明」とあった。
「貸出カードですね、少しお待ち下さい」と彼女は机の引き出しからカードを取り出し、ペンで私の名前を書き込み、バーコードを読み取ってパソコンに登録した。事務的な対応。作られたほほえみは固定され、揺るがない。私だと気づいているはずなのに、気づいていない振りをしているように見えた。
「メモ、もらえませんか?」
処理をしている彼女に声をかける。さっと手を伸ばし、紙を一枚取り、どうぞと私の前に差し出した。
「私を覚えてる?」受け取った紙に自分の携帯電話番号を書きながら、彼女に話しかける。うつむいて処理を続ける彼女の手が少し止まる。
「朝美だよね?」
私の投げかけた言葉を無視して、彼女はカウンターにカードを置き、図書館のパンフレットと一緒に簡単な説明を始めた。私はその説明を最後まで聞き終えてから、自分のそばに置いていた電話番号を書いたメモを指で滑らせ、彼女の前に置いた。
「よければ電話してきて」
彼女は視線を一瞬メモに落としたものの、すぐにそこから視線を外して「ありがとうございました」とお辞儀をして私を帰らせにかかった。あくまで知らんふりを通すようだった。
彼女のそんな態度に私はムキになってしまった。
カウンターに置かれたままのメモ用紙をつまみ上げ、反対の手でカウンター越しに朝美の手を掴み、手のひらの中にメモ用紙をねじ込んだ。
「待ってるから」私は彼女の顔をじっと見つめた。青ざめた顔の彼女。取り繕った笑顔は消えていた。異変を感じたのかベテラン風の中年職員があわててカウンターにやってくる。
「なんでもないんです、紙が落ちていたので渡しただけで」私はにっこり笑ってカウンターを後にした。
図書館を出ると寒さが身に沁みた。街灯のともる道を歩き、駅へと向かった。帰宅を急ぐ会社員や自転車に乗った部活帰りの学生が道を行き交う。
団地の前を通った時、見知った顔を見かけた。同学年を担当している先輩教師の大江だった。厳しい表情をして団地の敷地内へ入ろうとしていたのを呼び止めた。
「大江先生!」
彼の厳しい表情が崩されてやわらかな笑顔に変わる。
「相沢先生、どうしてこちらへ?」
そう言われてみれば、私の自宅がある方向ではない。不思議に思うのも当然だった。
「図書館の帰りです。大江先生は?」
「不登校の生徒の家庭訪問です」
「先生のクラスというと、野本さん?」
大江先生は頷き、もう二週間ですと答えた。では、と頭を下げて団地の入口へ向かおうとする後を私は走って追いかけた。
「私も同行させて下さい!」
その生徒の存在は以前から気になっていた。クラスの中で一人だけ群れに加わらず、外見上はおとなしいが何を考えているかわからないところがあった。彼女は授業中、一切ノートを取らなかった。机には教科書とシャープペンシルだけがあり、授業中は虚ろな目で黒板を見ていた。自宅学習をしているのかテストの点は良かった。板書をノートにただ写しているだけで身になっていない他の生徒よりも出来はよかった。
三学期に入ってすぐ、班に分かれて百人一首をする授業をした。冬休み前に勉強した百人一首の復習とレクリエーションも兼ねてのことだった。生徒らはこの時とばかりに盛り上がって机や椅子の向きを素早く変えはじめた。野本さんは席に座ったままだった。それでいて周囲を見回してうろたえたりもしていなかった。動こうとしない彼女を放っておくわけにもいかず、すぐに班のところへ集まるよう促した。班のメンバーは冷ややかな目で野本さんを見ていた。彼女は嫌われているわけではなくても、歓迎はされていないのだろう。野本さんはゆっくり立ち上がり、黙ったまま教室を出て行った。私はあわてて彼女を追いかけ、廊下で腕をつかんだ。
「どうしたの? 勝手に出て行っては困ります」
野本さんは私の手を振り払い、長い前髪の間から虚ろに私を見た。彼女がこんなふうに行動したことは初めてだった。いつも静かに存在を殺すかのように教室にいるように思えていたのに、その心の内は違ったのだろうか。
「授業が嫌だったから出てきたの?」
「気分が悪いだけです。保健室に行ってきます」
野本さんは私の顔も見ないでそう言うと、すぐに廊下を歩き出した。
「お大事にね。気分が良くなったら授業に戻ってきたらいいから。担任には伝えておきます」
遠ざかっていく野本さんには私の声は聞こえなかったかもしれない。
以前、秋の終わり頃、私が見た野本さんの静かなほほえみは、今は遥か遠くにあるように思えた。
昼休み、四時間目の授業を終えた私はめずらしく生徒から質問を受け、それに答えた後で職員室へ向かっていた。通りがかった理科室があいていた。四時間目が理科で後片付けもあってのことだろう。誰かいるのかと半分開いた窓から見ると、野本さんとその幼馴染だという西村さんの二人が部屋の片隅でお弁当を広げていた。他には誰もいない。西村さんが野本さんにひたすら話していた。その声は消え入りそうで、涙声まじりだった。西村さんはいじめられているという噂を私も耳にはしていた。野本さんはやさしい表情で、西村さんの話にじっと耳を傾けているように見えた。野本さんが西村さんの背中を優しくたたく。ぽんぽんと二回だけ。すぐに手を離して見守る。それ以上はしない。その横顔は静かにほほえんでいた。
盗み見るつもりはなかったのに、私は立ち止まって窓から彼女たちを見ていた。
理科準備室の扉が思いの外大きな音を立てて開き、理科教師の大江が姿を見せると、私はあわててその場を立ち去った。彼女たちもあわてて理科室から飛び出してきたのだろう、お弁当箱を手にして笑いながら私を追い越して駆けて行った。
百人一首の授業の後で、職員室に戻った私は野本さんの担任である大江先生に報告がてら聞いてみた。込みいった話になるので放課後に理科準備室でと言われ、私は了承した。大江先生の深刻な表情が気になった。
夕陽が射し込んでいる理科準備室。グラウンド側の窓からは部活動をする生徒たちの声。
「寒いですよね」
大江先生はグラウンドを眺めながら窓を閉め、「エアコンもストーブもないですから、まあ、これでも」とカイロを渡してくれた。「そこのひざ掛けも使ってください」と椅子にかけられたあたたかそうなブランケットを手で示した。「お言葉に甘えて」と私は椅子に座り、ブランケットを膝に掛け、カイロを手で揉んだ。夕陽を背に受け、大江先生の影が室内に細長く伸びていた。
大江先生は窓際に立ったまま、静かに話しはじめた。
「野本の友達の西村がいじめを受けていて、家庭の事情もあって転校したのが秋の終わり頃で、そのあとは何をするにもひとりだったけれど、学校には休まず来ていたんです。でも、三学期に入ってすぐ、野本が二日ほど休んだんです。その後からも学校には来ていたんですが、様子がおかしくて。決定的だと思ったのは、体育でソフトボールの授業をした後でした」
大江先生の話によると、ソフトボールの授業中、キャッチャーをしていた彼女は、腹部にボールが当たって保健室に運ばれた。気を失っている彼女の腹部に異常はないかと養護教諭が調べたところ、ボールによる打撲ではない青あざが見つかった。もしやと思い、全身を調べると太腿に煙草を押し当てたような小さな円形状のやけど痕がいくつもあった。
大江先生は養護教諭から連絡を受けて、放課後、野本さんを理科準備室に呼び出し、話をしようとしたと言う。けれども彼女は何も言わず、窓から射し込む夕日を顔に受け、うつむいているだけだった。大江先生は翌日もその次の日も放課後に野本さんを呼び出し、話を聞こうとした。野本さんの態度は変わることはなかった。苦しくはないのか、話すだけでいいから、何か力になれるかもしれないから。心を開いてくれることを祈ってたくさんの言葉をかけ、待った。でも彼女の口は固く閉ざされたままだった。それでもここに居る時間の分だけ、彼女を脅かす相手との接触時間は減るのではないか。
「野本へのなぐさみのつもりでした」大江先生は苦く表情を崩す。
「本当にそうだったか、わかりませんけど。むしろ僕の顔を立てるために、そうしていたのかもしれません。野本はそういう子だと思うんです」
その後も大江先生は、放課後になると野本さんを理科準備室に呼び出していた。彼女を助けたい一心で児童相談所に相談していいかと口にしたところ、野本さんは激しく首を振り、それだけはやめてほしいと必死に頼んだという。
その後、ぱたっと野本さんは学校へ来なくなった。
団地の中に設置された街灯のうちのひとつが点滅を繰り返し、寿命を迎えようとしていた。団地の部屋のあちこちに灯りがともり、夕食の、醤油味の煮物のような美味しそうな匂いがどこからともなく漂っていた。
大江先生は腕時計を見て、並んで歩く私に言う。
「本当はもう少し早く来たかったのですが、仕事が終わらなくて。野本の母親がまだ家にいてくれたらいいんですが。母親が一人で野本を育てているんですけど、母親の仕事は水商売なので、夕方になってから出勤するようなんです」
「訪問するとお電話はされたんですか?」
「そんなことをしたら母親に逃げられますよ。これまでにも居留守ってのもあったかもしれない」
「母親は協力的ではないんですね」と私が言うと、大江先生は苦笑いし、そういう親なんでしょうね、不憫だと言った。
似ているな、と私は思った。あの頃、自分が置かれていた状況に。
野本さんが暮らす部屋は二階で、敷地内の道に面した窓のある部屋はカーテンが閉められていて、灯りは点いていないようだった。部屋の前まで来て玄関のインターフォンを押すが、音は鳴らなかった。
「壊れたのか、電源を切られたのか」大江先生はそう言いながら、ドアをノックする。
何度ノックしても反応はなかった。
「まあ、予想通りです。今日で訪問は二回目ですが。母親の携帯に電話しても居留守使われますし。電話に出て対応してくれたのは最初の二回だけですよ」
「あの……」と大江先生に呼びかける。
「朝、私が彼女の家に迎えに行ってはいけませんか?」
「はあ?」大江先生の素っ頓狂な声。
「少し遠回りにはなるんですけど。彼女の家に迎えに行ってから学校に来ようかと思って。大江先生よりは私の方がここには近いですし。駅二つですから。私、気が長いのと根気があるのには自信があるんですよ」
「そういう問題ではなくて……担任でもない相沢先生が行くのはどうかな……」
あきらかに困った顔をしている大江先生など私にはおかまいなしだった。
「そう決めました。さっそく明日から行ってみますね!」
原動力を見つけて動き出す。そう決めた。私だったらできる、かもしれない。似たような家庭状況だったから。楽観的すぎるなんて自分でもわかっている。でもやってみなくちゃわからない。そもそも、そのために教師になったのだから。単なるこだわり。こだわりに過ぎなくても。