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壁の上  作者: 氷月涼
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深咲:母のいない朝

 朝、起きたら母がいなかった。いつもは台所で朝刊に目を通しているのに。化粧を落としてコンタクトも眼鏡に変えて、寝る準備万端にしてわたしが起きてくるのを待っていて、一緒に朝ごはんを食べるはずなのに。

 台所はひっそりしていて、母が仕事から帰ってきた形跡はなかった。そんなことは初めてだった。

 パジャマのままコートを羽織って、団地内の公衆電話ボックスまで走った。うちには電話はなく、母の携帯電話が我が家の電話。以前はわたしも携帯電話を持っていたが、必要がなくなったので解約したのだった。

 電話ボックスに辿り着き、息を切らしながら母の番号にかけてみても呼び出し音が鳴るばかり。メモしてきた勤め先のお店にかけてみても同じことだった。

 仕方なく部屋に戻るしかなかった。団地のあちこちの棟から学生がそれぞれの学校へ向かうべく、歩いて、自転車で、次々に現れて、私のそばを通り過ぎて行った。いつもの朝ならわたしも同じように中学校へ向かっていたが、今はそれどころではなかった。母が帰ってくるまでどこにも行けない。何の躊躇もなく学校を休んだ。

 母を待つ間、とてつもなく長い時間が流れている気がした。夜になって母の勤務先の店に電話をすると、昨日、客と一緒に店を出たのはわかっているが、その後は知らない。今日は無断欠勤しているとのことだった。もう一つの勤務先である食品工場に電話をかけてみると、無断欠勤は困ると言われた。明日まで待って帰ってこなければ、警察に捜索願を出そうと思っていた。

 翌朝、母はふいに戻ってきた。髪を茶色く染めた若い男に肩をかつがれて、熱っぽい顔をしていた。

「ごめんねぇ、連絡もしないで。店出た後お客さんと飲んでたら急に熱出てきてさぁ、動けなくなって。お客さん家で休ませてもらってたの。心配したわよねぇ、ほんとごめんねぇ」

 言いながら母は台所の床に倒れこんでしまった。まだ熱がひいてないのだろう。

 「布団は? 押入れ?」若い男はぶっきらぼうに言うと、返事も聞かずに上がり込み、布団を敷いて母を寝かせた。

 「ありがと、なおちゃん」

 男の名前なのだろう、母の親しい呼び方に私は思わず男の顔を見た。男は勝ち誇ったような薄笑いを浮かべていた。

 なおちゃんと呼ばれた男はジーンズの尻ポケットからタバコとライターを取り出し、もう片方のポケットから携帯灰皿を取り出し、吸い始めた。

 「お母さんは俺が見とくから。学校行く時間じゃないの?」

 「行かなくていいんです。今日は開校記念日ですから」

 「嘘が下手だね。さっきそれと同じ制服姿の子、見たけど?」と男は鴨居にかけてあるセーラー服に視線を向けた。

 「行けるわけありません。風邪で休むことにしてますから。大丈夫です、帰ってもらって」

 「そ、じゃあ退散するかな。ずっと睨まれてるのも嫌だし。また来るってお母さんに言っといてよ」

 男はタバコをくわえたまま、尻ポケットに携帯灰皿をねじ込んで部屋を出て行った。ドアの閉まる音が大きく響いた。


 あの日以来、朝、目が覚めたらまた母がいなくなっているのではないかと思ってしまう。台所から朝ごはんを作る音が聞こえるとホッとする。食卓に二人分並べられる朝ごはんが、いつものように焦げた目玉焼きにトーストという拙いものであっても。

 母は朝食を食べたあと、丹念に朝刊に目を通し、仕事に備えて眠る。昼頃かあるいは夕方までには起きて夕食を作り、わたしと一緖に食べてから仕事先へ向かっていた。今までは。

 夕方、めずらしく母が夕食をわたしの分しか作らなかったので理由を尋ねると、店に行く前に人と会って食べるからと言う。わたしは怖くて誰と行くのか聞けなかった。その代わり、母が家を出てしばらくしてから跡をつけた。節約のため母は仕事へ向かう時だけは電車を使っている。

 夕暮れ時の駅前は人で溢れていて通勤通学の人々が帰路を急いでいるようだった。母は駅を通り過ぎ、誰かに手を振った。駅前のパチンコ屋の前で、あの時、母を送ってきた若い男がタバコを吹かしながら待っていた。二人は落ち合ったあと、肩を寄せ合って商店街の方へ消えていった。男の手が母の腰に回されて、母が男の肩に寄りかかる。そんな母の姿を見たくはなかった。

 冬の夕方の冷え込んだ空気だけがそうさせたのではない、それ以外のものがわたしを芯から冷たくしていった。

 帰宅したわたしは母の作った夕食をゴミ箱に捨てた。その日以来、わたしは夕食を食べるのをやめた。

 捨てるのがわかっているものを作るような金銭的余裕は我が家にはなく、代わりにお金を置いていくようにして、母は早めに家を出て行く。帰宅すればお金が減っているから、何か買って食べていると安心しているのだろう。お金は違う使い道でも減ることはわかるはずなのに。そのお金でわたしはもちろん食べ物も買ったが、貯めておいて参考書を買うこともあった。勉強ができることだけがわたしの取り柄だから。

 無性にお腹が空けば自分で作って食べていた。母は毎朝、目玉焼きを作るから、卵だけはたくさんあった。わたしは卵焼きを作るのが好きだった。料理は得意じゃない母が作るお弁当を見られるのが恥ずかしいから、最近までお弁当は自分で作っていた。律子と取り替えっこしながら食べるのが好きだった。わたしの作る卵焼きが大好きと言ってくれた律子。手紙は届くけれど、もう一緒にお弁当を食べることはない。

 卵焼きを作ろうと思い立って布団から出て台所へ行く。冷蔵庫の取っ手をつかんだ自分の手首が、驚くほど細くなっていた。親指と人差し指でぐるっと巻けてしまい、まだ余るくらい。

 めずらしく冷蔵庫に卵はなかった。


 母の作る朝食の不恰好な目玉焼き。もうそれを食べることもない。数日前からわたしは朝食を食べるのをやめた。わたしは「お腹が痛い」のだから食べられないのだ。時々やってくるあの男に殴られた痕がタバコを押し付けられた痕が迂闊にも先生に見られてしまったからには、学校に行けば追求される。そして母に知れてしまう。わたしは何としてでも仮病で乗りきりたかった。

 しかし、それも限界だった。毎日、担任から母の携帯へ連絡が入り、この前は家までやって来た。最初はお腹が痛いので休ませると伝えていた母も、わたしが病院へ行くことを拒んだあたりからは仮病だとわかってしまったようで、感情的になって怒ることが増えていた。同じ家で過ごしていても、会話はなく、テレビの音だけが部屋に響いていた。


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