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壁の上  作者: 氷月涼
11/18

政恵:ママの元カレ回想

 この街で暮らすようになってもうすぐ一年が経つ。

 街を歩くたびに、ママの元カレのケンちゃんがいないかいつも目で探していた。もう、この街にケンちゃんはいないのかもしれない。


 あれから十年以上が過ぎた。私はママが彼をケンちゃんと呼んでいたことしか知らない。ケンちゃんは料理が得意だった。ママはろくに料理をしないから鍋すらなくて、ケンちゃんは自分が使っている鍋をわざわざ持ってきて、置いたままにしておいて、アパートでいろんな料理を作ってくれた。ケンちゃんがママの彼だった一年間で、私はそれまで食べたことのない料理をたくさん食べて、当時それまで味わったことのない、家庭の味を経験したつもりになっていた。それまで遠足のお弁当はいつもおにぎり二つだけだったけれど、その年は違った。その日の朝に原付を飛ばしてケンちゃんがわざわざ来てくれて、お弁当を作って遠足に送り出してくれた。あんなに誇らしかったお弁当はあの日だけだ。

 ママと私が引っ越すことになった頃には、ふたりは別れていたのだろう。その頃にはもうケンちゃんは家に来なくなっていた。流し台の下には、ケンちゃんがおでんを作るために持ってきた圧力鍋が忘れられたまま、ずっとしまわれていた。引っ越す時、私が段ボール箱に詰めて、次に暮らすアパートにも持って行った。また会えるように願いをこめて。


 新しいアパートに引越しして間もない頃、私の願いどおりにケンちゃんは圧力鍋を取りに来た。

 ママが仕事でいない時間にやってきた。あの時と同じ原付に乗って。二時間もかかって、アクセルを回していた手がだるいと笑っていた。なぜ住んでいる場所がわかったのか聞くと、得意顔で「魔法使いだからなんでもわかるんだ」なんて言う。本当のところはママに電話して聞いたと笑った。

「まさえなら鍋を捨てないで置いといてくれるだろうと思ってた。わざと忘れて正解」

「なんでわざと?」

「忘れ物を取りに来たら一度はまた会えるだろ?」

 ほしかった言葉。そう願っていたから、とても嬉しかったけれど、わざとそっけなく装った。

「ママはいないよ。仕事に行ってる」

「知ってる。電話で聞いたって。そうじゃなくてまさえが心配だったから、様子を見たかったんだ」

 元気そうじゃん、とケンちゃんは私の髪をくしゃくしゃとなでた。

 私はケンちゃんにそんなふうに触れてもらえることが嬉しくて、そしてもう最後だと思うとせつなくて、涙をこらえきれなくなった。

「なに、泣いてんだよ」ケンちゃんは私の頭をやさしく小突く。

「なんで、ママはケンちゃんと別れちゃったんだろ、バカだよママは。こんないい人と別れるなんて」

 ケンちゃんは乱雑に私の髪をかきまわし、鳥の巣のようにした。

「まさえのママにとっては、確かにおれはいい人すぎたのかもなあ。あの人はおれといると自分がダメでダメでしょうがない奴だと苦しくなるってさ。適度にダメな人でないと一緒には居られないんだ。今もそんな男がそばにいるんだろ?」

 私は頷いた。

「たぶん仕事の後に彼氏に会って帰って来る。たまに彼氏は泊まりに来て、ママといちゃいちゃしてる」

「そっか……」

 ケンちゃんはくしゃくしゃにしてしまった私の髪を元どおりにしようと絡まりを解くのに必死になっていた。

「ママが帰るまで待ってるの?」

「いや、もう帰るよ。元気そうなまさえを見れたから」

 元どおりきれいになった私の髪をやさしくなでてケンちゃんはにっこり笑った。私に触れているその腕を掴んで、すべてを壊す覚悟で私は言った。

「帰らないで。私、ケンちゃんといちゃいちゃしたい」


 驚いた顔をしたものの、大人の態度で断ろうとするケンちゃんを、私は言葉を尽くして説得しようとしたり、挙句に死ぬとか言い出して、なんとかそういうふうになるように持ち込んだ。

 

 服を脱いだ私の肩や太ももにある痣を見て、ケンちゃんは驚いていた。

「ごめんね、こんな体で」

 「そうじゃないだろ。いつから? 誰に?」

 ケンちゃんは急に真面目な顔になって、強い口調で畳みかけた。

 「ママに。一緒に暮らしはじめてから、ずっとだよ」

 ここは嗤うしかなかった。でも、だんだん眉が歪んで、唇もふるえて、涙が頬をつたった。

 ケンちゃんはぎゅっと私を抱きしめてくれた。

 「気づいてやれなくて、ごめん」

  その言葉だけで救われた気がした。


 交わった後、気がゆるんでいたのか、子どものくせに一丁前に感じるんだ、とケンちゃんは素直な感想を口にした。すぐにケンちゃんは罪悪感の塊みたいな顔をして、さよならも言わず、あわただしくバイクで帰って行った。

 

 これで、私は何もかもなくしてしまった。もう、私のことを想ってやさしくしてくれる人は誰もいない。うわっつらのやさしさだけが、私の表面をなでるだけで、なにも浸透してはこない。

 あの行為のなかには愛があると思っていた。いつも機嫌の悪いママが、あの最中だけはとろけそうな顔をするのを、寝室の襖の間から見ていたから。でもそうではなかった。私はケンちゃんにそれをもらえなかった。ほしいと思ってまわしたガチャポンから出てきたのはほしいものではなかった。同情と好奇心。それすら宝物としてしまっておくしかなかった。何もなかったから。


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