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壁の上  作者: 氷月涼
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壁の上*

十年以上前に書いた別の作品「小春日和」の姉妹編。ひとつの章ごとに毎日連載します。18回で終了です。それまでよろしくお願いします。

「小春日和」は2月までには掲載するつもりです。

 ここは霧の中にある壁。こちら側もあちら側も霧で何も見えない。どっちにだって行ける。ここから飛び降りれば。

 私は壁の上。自分の両足分の厚さの壁の上にいる。壁の上に腰かけて足をぶらぶらさせて、ぼんやり霧を眺めたり、どこまで続いているかわからない壁の上を歩いてみたり。

 時折、足元が光る。光は忘れたくても忘れられない過去へ連れて行ってくれる。裸足の爪先で光った場所をタップするとすうっと落ちていく。

そこで私は反芻する。変えられない過去の記憶を。



 はじめてこのアパートで眠った。カーテンの隙間から射し込む朝の光のまぶしさに目を覚ました。隣の布団ではママが寝息を立てて眠っている。昨夜ママに殴られたみぞおちはまだ少し痛い。ママは自分の機嫌が悪ければ些細なことで私を殴る。私は悪い子だから、いつだってちょっとした失敗をしていたから、それも仕方ないのだけれど。

 でも、ママさえいなければ、私はずっとあの街に住んでいられたかもしれないのに、ママさえいなければ……。

 私は台所へ行き、包丁を手にした。台所は朝の光が強く射し込み、手にした包丁に光が当たって矢のように私の目を突き刺してきた。

 それは私への警告。そう感じて殺意の衝動を理屈で抑え込んだ。

 放っておいてもきっとママは自滅する。ママの連れてきた彼氏が将来パパになるかもしれないからと、私が彼氏に気に入られようと取り入っていると、あれは私の男だと娘に嫉妬して殴るような人。きっとバチがあたる。そんな人を殺して自分の人生を台無しにしてはいけない。

 音を立てないように静かに包丁をしまった。台所のテーブルに置いてあるママのタバコを一本くすねて、ライターを拝借して、上着をはおって忍び足で玄関を出た。

 冬の朝の空気は冷たく、雑草に霜が下りていた。

 隣のアパートとの隙間の空間にしゃがみ込んでタバコに火をつけ、思い切り吸い込んだ。細く吐き出したタバコの煙に、息の白さが混ざっていた。


 今日から新しい学校。トラブルメーカーのママのせいで、もう何度も転校している。友達なんて期待しない。学校は通えるだけマシ。美味しくはないがまずくもない給食もあるし。どうせ暇つぶし。それでも一応仲良しの子を作っておこう。そのためにはちょっとしたものをおおげさな理由をつけてプレゼントするのがいい。以前もそうやって友達を作った。

 みかんの空き箱にマスコット類が山ほど放り込んであった。ママの歴代の彼氏がクレーンゲームで釣って、私にプレゼントしてくれたものだ。欲しくもないけどうれしそうにするとママの彼が喜ぶから、いつのまにかこんなにいっぱいになってしまった。ママがクレーンゲームの上手い男ばっかり連れてくるから。ママは少しだらしなくてやんちゃな男が好みらしい。そんな男をとっかえひっかえしている。

 たくさんあるマスコットの中からパッと目についた柴犬のを取り出してポケットにつっこみ、ランドセルを背負って家を出た。ママはこの後も眠るのだろう。夜の仕事をしているから朝はいつも寝ている。ママとふたりで暮らすようになってからはずっと朝ごはんを食べたことがなかった。


 転校初日の休み時間は誰もが私に話しかけてくれる。前はどこに住んでいたの? 好きなアイドルはいる? どんなテレビ番組をよくみるの? 何か習い事してる? その髪型、ウルフカット?

 私が話すごとに人がどんどん減っていくことをまた繰り返すのかと思うと、口を開くのが憂鬱になる。それでも作り笑い。お笑い好きなんだ、とギャグ、変顔と連発して、笑いを起こす。そうやって一日をやり過ごす。

 帰りの準備をしていると、担任の若い男の先生がクラスの女子を一人連れて席にやってきた。

「ふたりは家が近いから一緒に帰ったらどうかと、今、ともみさんに頼んだところなんだ。どうだ? まさえさん。一緒に帰ってみたら?」

 ともみというその子は、おかっぱ頭で、にこにこと無邪気に笑っていた。短い髪の私とは正反対のかわいい女の子。

「……いいよ」

 この状況で断れるわけがない。おせっかいな担任の強引な計らいに私は感謝した。

「先生、ありがとう」

 無駄な手間が省けた、と心の中でつぶやいた。


 校門を出て、定められた通学路をゆく。広い歩道なので、横に並んでおしゃべりしながら歩く。黄色い帽子が最初は列のように連なっていたのが、次第に間隔が開いて、散り散りになっていく。

「わからないことがあったらなんでも聞いてね」

 ともみから転校生の私へのお決まりの言葉。ひとまずありがたく受け止めて、うなずく。

 ジーンズのポケットから、今朝、仕込んだマスコットを取り出してともみに差し出した。

「これ、もらってほしいんだ。仲良しのしるし。ずっと大切にしてるものなんだけど……」

 ともみはびっくりした顔をしていた。

「いいよ、もらえないよ、そんな大切なもの」

 私は強引にともみの手を取って、手の中にマスコットを押しつけた。

「持っていてほしいんだ。これから仲良くしたいから」

 困った顔をしていたともみは、私の言葉にやわらかく表情を変えた。

「ありがと。大切にするね。こちらこそ、仲良くしてね」

 ともみは立ち止まって、私に右手を差し出した。

「友情の握手しよ」

 その手を私は握り返す。やわらかくて優しい女の子らしい手。しもやけであかぎれだらけの私の手とは違う。

 ともみは立ち止まったまま、じゃ、ここでと手を離した。

「ここ、あたしの家なの」

 立派な庭、二階にはバルコニーのある洋風の家。私の長屋アパートとは大違い。

「明日から一緒に学校に行こうね。朝、迎えに来てくれる?」

 ちょっと心配そうにともみは聞くけれど、断られることなど予想していないに違いない。そんな表情に見えた。

「いいよ。迎えにいく」

「じゃ、また明日!」

 門を閉めてから振り返り、バイバイと手を振って、ともみは玄関のドアを開けて入っていった。

 ともみの家をあとにして、しばらく歩いた先に見えてきた長屋アパートを見て思った。

 この世の中は不公平なことしかない。

 帰宅してすぐに台所に向かう。テーブルに置きっぱなしのタバコを一本引き抜いてポケットにしまっておき、ママが仕事に出かけてから、台所のコンロで火をつけて、口にくわえた。匂いがこもらないように換気扇を回す。タバコの煙は勢いよく換気扇に吸い込まれていった。


 翌朝、朝美の家に迎えに行く。氷が張るほど冷え込んでいた朝。私は朝美が出てくるまで外で待っていた。ゴミ出しに外へ出た朝美の母が気づき、中に入ってと玄関に招かれた。寒かったでしょうと私の手をとり、冷たい手をさすってくれる。私はその手を振り払った。

「大丈夫ですから」

「気に障った?」朝美のお母さんは申し訳なさそうな顔をした。

 私はうつむいて首を横に振る。

 朝美が慌てて玄関にやってきた。いってらっしゃいと手を振る朝美のお母さん。笑顔が眩しくて痛かった。

 本当にこの世の中は不公平なことだらけだ。



 立ちのぼるタバコの煙をぼんやりと眺めた。

 吸い始めた時、その年齢にしては身長も高く、すでに第二次性徴期を迎えていて、いつ成長が止まっても構わないと思っていた。ほどなくしてやはり身長は伸びなくなった。

 その頃からタバコは常習で、ずっと隠れて吸っていた。大学生になり教育実習が始まる前に決意してなんとかやめることができた。

 でも、ここ、壁の上ではいつもポケットの中にライターとともにタバコが一箱あって、吸っても吸ってもなくならない。次に吸うときにはまた増えていて、一定の本数になっていた。

 害ばかりの嗜好品をそんなにも私は拠りどころにしていたのだろうか。

 タバコの煙が霧に溶けていく様をひたすら眺め続けた。


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