自分だけの世界
「私は最近、面白い夢を見ますよ」
その男は微笑みながら、不意に言った。
心斎橋筋の少し奥まった路地にある行きつけのバーに行った時のことだった。店内はテーブル席が二つ、後は六つのカウンター席がある小さなショット―バーだった。
僕よりも十歳ほど年上の四十代初めのその男はいつも、僕よりも先に店に来て、こじんまりとした店内の右隅の席でいつも寂しく飲んでいた。僕はと言うと、一人の時もあれば、会社帰りに同僚数人と、その店で飲むという複数のパターンがあり、自分のお気に入りの席など確立されていなかった。
その日はたまたま、男よりも早く僕が店に来ていた。僕は何の気もなしに、いつも男が座っている左隣りの席に陣取った。
二杯目のグラスを傾けていると、男がやってきた。男は自分がいつも座っている席の隣に僕がいるからか、しかめっ面で店内の床に足を重く踏みしめて、僕の右隣り、つまり、いつもの指定席にドカッと腰を下ろした。
酒好きな僕は、ちびりちりと飲み、杯を重ねていった。その間、男はいつものように静かに飲んでいた。程よく酔いが回った頃、僕は男に話しかけてみた。男がどのような反応をするのか興味があったからだ。
「いやあ、今日も暑いですね」
現に今日はひどく熱かった。大阪は三十六度を超え、猛暑の夜が続いていた。
「まったく、堪ったもんじゃないですねー」
男の声は意外にも快活で、朗らかな口調だった。標準語のイントネーションなので、東京近辺出身らしかった。
そこから、僕たちは意気投合した。男は意外にも明るい性格で、いつも隅で一人寂しくグラスを傾けている男とは同一人物とは思えなかった。
そこでの何気ない話の延長線上が、「私は最近、面白い夢を見ますよ」というその一言だったのだ。
「へえ、どんな?」
突然、何を言い出すのかと思ったが、僕は社交辞令として相手の男の顔を覗き込むように訊いた。
「自分だけの世界です」
一瞬、僕は聞き間違えたのかと思った。僕は大金を掴んだり、美しい女を妻あるいは愛人にした、という非現実的な夢を期待したのだ。
「そんな顔をしないで、聞いて下さいよ」
男はなおも相好を崩さず言った。そこまで言われれば、聞かざるをえなかった。
「あの夢を見たのは丁度、一週間前です。私は家族や会社の人間関係に疲れて、ここの他に、はしご酒をしました。私は千鳥足で家に帰りました。家では、妻に嫌味を散々言われ、中学生の娘は私を避ける様に自室に入りました」
男はそこで一端、話を切った。そして、嬉しそうに笑いながら、また話し始めた。
「自室で寝ていると、その夜、私は夢を見ました。その夢は、私は部屋のベッドで昼間から寝っ寝転がっているんです。妻が口やかましく部屋に入ってくることはないし、街宣カーのスピーカーも聞こえないんです。そして、私はいつまでもベッドで寝転がっているんです。素晴らしい世界です」
男はまた、微笑した。
その日以来、あのバーにはしばらく行かなかった。仕事が繁盛期であったので、飲み歩く時間などなかったのだ。僕はそんな煩雑で急かされるような都会生活の中で、男の顔も夢の話も記憶の片隅に追いやっていた。
仕事が暇になると、あのバーに行くようになった。その時、男はいつもの指定席で静かに飲んでいた。男は僕の顔を見ると、親しげに話しかけてきた。しかし、この前とは違って、どこか翳りを帯びたような表情になっていた。
「いやあ、お久しぶりです」
口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「どうしました、何かお悩みのようですが?」
僕は単刀直入に言った。翳りを帯びた表情が、苦悩に縛られたように感じたからだ。
「実は……妻と離婚しましてね……」
男はうなだれて、か細い声で言った。
「えっ……?」
「ある日の休日、私が起きると、妻と娘がいないんです。書置きと離婚届が食卓にあるだけ。出て行く理由もわからないです」
男はそこで言葉を切ると、さらに翳りを帯びた表情で淡々と言った。
「私は、今、休日、昼間から自室のベッドで寝っ転がっています。自分だけがいる空間、自分だけの世界、夢を見ている間は素晴らしいと思ったが、現実では物悲しい、寂しいです。今にして思うと、あの夢は予知夢だったんですね……」