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蔦花舞う壁画に柱を彩る装飾、天井を飾るは建国史をモチーフに幻想的な雰囲気を醸し出す天井画、それを殊更映えさせるべく煌めくシャンデリア。その灯りを計算しつくしたオーナメントに金糸銀糸が使われたタペストリー、そして花々。花器も見事なもので、角度を変え眺めつくしたくなる逸品。
さすが王宮の夜会! 自分のデビュタントの時はさすがに緊張していて眺めまわす余裕はなかったから、こうしてゆっくりと観ていられるなんて夢のよう。少々華美すぎるきらいはあるものの淑やかな笑い声がさざめき、色とりどりのドレスが舞うのも合わさってとても美しい。
ほう、とため息をつくと、傍にいたデュランダール伯爵が抑えきれないとばかりに小さく笑った。
「なにか楽しいことがありまして?」
「いや失礼。あまりにアリィス嬢が幸せそうだったから、こちらもつられて楽しくなってしまってね」
陶酔していた様を笑われて、ツンと澄まして軽く嫌味を言ってみたけれど、大人の余裕で躱されてしまった。少し悔しくても、優しい微笑みが素敵で見とれてしまう。垂れ気味の優しげな目元が色っぽい。美しいものは好き。だから許そう。
デュランダール伯爵こそ、私の未来の夫の父。将来の義父。広い人脈をさらに広げるべく挨拶回りに忙しい父母に代わり、パーティー中の私のお目付け役を快く引き受けてくれている。
私が問題児だということではなく、夜会では、婚約者がいる娘にお目付けがつくのは我が国の社交界では常識。本来ならば実母か、義母となる方がその役をするのが一般的だけれど、母は社交に忙しいし、デュランダール伯爵は独り身なので仕方ない。
「アリィス、父上」
卒業と成人の報告で王への拝謁を済ませた我が婚約者、ジャンリがやってきた。よほど緊張していたのか、未だ引きつり気味で、可愛い顔が台無しだ。
「お疲れさま、ジャンリ。さあ、これでも飲んで落ち着いて?」
眉間のしわが癖になってしまうわよと言ったら、慌てて指先で一生懸命しわを伸ばしている。擦りすぎて赤くなるほど一生懸命なその姿は、もう18歳だというのに、まだまだ子供のようで。同じように考えていたらしいデュランダール伯爵と顔を見合わせて笑ってしまった。
「おっと。そろそろのようだね」
ジャンリがカクテルを飲み干す頃に、ダンスのために奏でられていた音楽がゆるりとしたものに変わった。それを合図に、手を取り合った男女がそれぞれの家族と共に中央へ進み出ていく。婚約のお披露目だ。
ある意味で結婚式よりも大事とされる婚約式は大々的に行うものなのだけれど、それを各家で行うのはとても大変。なので、王宮で開催される夜会で行うのが一般的となっている。なにせ王室主催の夜会を欠席する貴族はまずいないので周知させるのが非常に楽。費用の負担も少ない。出席を求められる側も楽。それに加え、流行を取り入れながらも伝統に則り華やかに彩られた素晴らしい会場で、趣向を凝らした煌びやかな衣装を身にまとった人々に祝われたら、婚約する当事者たちもきっと嬉しい。
ちなみに貴族間の約束事は絶対なので、婚約の宣誓をすればそれは結婚と同等の意味を持つ。故に、婚約式で宣誓を済ませているなら結婚式は身内だけで行う場合が多い。領地を持つ貴族の場合は、領民と共に祝うこともあるようだ。
私とジャンリも幼いころから婚約していて、公然たる事実として婚約者同士ではあるけれど、正式にはまだ認められていない。王室主催の夜会での婚約式は男女とも18歳になる年からという、とても邪魔な規則があるから。それもやっと解決する。
「さあ、行きましょう」
衆目を集める場に出るのを躊躇するのはいつものこと。デュランダール伯爵と二人がかりでジャンリを押して進む。あくまでもさり気なく、いかにも私がエスコートされているように見せる技術もすっかり板についた。
「待って、待ってください、父上、アリィス!」
慌てたようなジャンリの呼びかけに足を止める。いつもより進み難いと思っていたら、踏ん張ろうと抵抗していたのかしら。
「どうしたの? ご不浄に行きたくなってしまった?」
緊張が緩んだところにカクテルを飲み、また緊張する場へ出るのだ、生理的欲求は致し方ない。デュランダール伯爵も、それは大変だ、早く行ってきなさい、と頷いている。早めに中央ホールにて祝福を受け、また、祝福するのが良いとされているが、時間はまだある。
さあ、と促したものの、一向に動く様子なく俯いている。
「…もしや、間に合わず汚してしまったか?」
低い声でデュランダール伯爵が呟いたとたんに、人の輪ができた。私たちを避けるように。意外と聞いているものだからね。
「ちっ、ちがいます!! 私はただ!」
赤い顔で否定するが周囲の人々の何とも言えない視線が私にも突き刺さる。
「アリィスとの婚約をなかったことにしたいのです!」
下手に衆目を集めていたのが災いし、一気にしんと静まり返ったホール。
「…え?」
クランディ男爵長女アリィス24歳。6歳年下の婚約者に、公衆の面前で婚約破棄を言い渡されました。
初めて会ったのは、私が12歳の時。誕生日プレゼントに貰った、少しだけ大人びたドレスを初めて身にまとった日のこと。
「アリィスの旦那様になる方だよ」
そう紹介を受け、よろしくお願いいたします、と淑女の礼をすると、デュランダール伯爵の後ろに隠れていた少年がはにかんだ笑顔を覗かせた。
父から婚約が決まったと告げられた時、6歳児と聞いてすぐに断った。だって8歳になる弟よりも幼いなんてあり得ない。私は乳母じゃないと抵抗したけれど、父の意向は変えられなくて顔合わせの運びになった。
きっと気に入るから会うだけでも、と母にも勧められた理由は、挨拶してすぐにわかった。
ふわっふわの薄金色の髪、くりくりとした碧眼、離れていてもわかるまつ毛の長さ、ふっくらとした頬とぷるんとした唇が白い肌の中で見るからに柔らかそうに色づいて。輪郭、髪質、生え際、目鼻の大きさ、眉の形、それぞれの配置の妙。
これは、この顔立ちは、お気に入りの画集の中でも随一の美しさの妖精!!!
父母の思惑通り、まんまと6歳も年下の婚約者を一目で気に入った12歳の私。初めの頃はそれこそ美術品を愛でるように慈しんでいたのだけれど、会う回数を重ねる毎に人間としても愛しく思えてきて、一年後には内気なジャンリの手を引いて、茶会や散策へと連れまわすようになっていた。
良く見ればジャンリと父親のデュランダール伯爵はたいそう似ていた。つまり、この方が完成形に近いということだ。
所作、髪型、服装、肌の手入れに至るまで、口を出しまくった。私たちの婚約はデュランダール伯爵家の経済的困窮に端を発しているので、支援や贈り物としていくらでも手出しできるのは都合が良い。
ついでにデュランダール伯爵も改造していった。奥様はさすがあの妖精の母というだけあって美しい上に素晴らしいセンスの持ち主でいらっしゃるのに、旦那様のデュランダール伯爵はため息を押し殺すレベル。元を生かしきれてないのが勿体ないどころではなかった。先祖伝来の髪型も服の仕立ても口調も、今や珍獣状態ですから!
若いからか、何を教え込んでも呑み込みの早いジャンリはどんどんと知識を吸収していった。学ばせる方向が芸術に特化してしまったのは、あまりに似合うから出来心で、としか言いようがない。しかし適性は高かったようで、特に弦楽器に関しては玄人顔負けというほどの習得ぶりをみせた。
そんなジャンリに、私がますます惹かれていったのは当然のことだと思う。だって、澄ましていてもむくれていても泣いていても怒っていても、何をしていても可愛いのに、更に美しい音楽を奏で歌い上げる様は人間の域を超越して見える。
でもそんなこと以上に、私の後をついて回るジャンリのせいで目覚めた母性本能が、姉のように、時に母のように愛を注いでいたのは間違いない。
私が学院に入学するため王都へ行くことになった時、それはもう大変だった。離れたくないと泣くジャンリ。私を置いていくのかと縋るデュランダール伯爵。…おかしくない?
娘を嫁に出す気持ちになってしまったと赤くなって弁明していたけれど、その姿をデュランダール伯爵夫人はとても醒めた眼で見ていた。未来の義母との仲が壊滅的になったと感じた瞬間だった。
それから更に一年後、デュランダール伯爵が奥様と離縁された。理由は知らない。慌てて帰省し、ジャンリが泣くのを慰めるので手いっぱいだったから。どうしても外せないカリキュラムのため、実母との別離に苦しむジャンリを置いて学院に戻るのは後ろ髪を引かれる思いだった。事あるごとに手紙を出した。何もなくても手紙を書いた。
休暇の度に帰り、あなたのことが大切だと言葉でも行動でも示していたら、ようやく落ち着いた。なんて手間のかかる親子だろう。
ジャンリと離れ、学院での生活の中、密かに芽生えかけた恋もあったが、この慌ただしさの中で自然消滅した。少し悲しかったけれどそれでよかったと思う。
そして、冒頭に戻る。
突然の婚約破棄発言に驚いたのは私だけではない。父も母も、デュランダール伯爵も固まったように動かない。
「いきなりどうしたというの、ジャンリ。理由を聞かせてもらえる?」
驚きすぎて固まれなかった私が口火を切った。正直、ショックで気絶した方が良い場面だと思うのだけれど、できないものは仕方ない。怯えさせないように、できるだけ優しい口調を心がける余裕さえある私は、ジャンリからどう見えているのだろう。若さが足りないが故に可愛げのない女? それとも常に年長者ぶって偉そうな女?
「アリィス、本当にごめんなさい。実は僕、真実の愛に目覚めたんだ!」
「…は?」
ジャンリが幼児退行気味に見えるのはとりあえず置いといて。なんか変な単語が聞こえた。聞き間違いかしらと周りを見回すと、皆おなじようにポカンとしている。
「もしかして、流行りの演劇や物語でも読んだのかしら?」
感受性豊かに育ったから、影響されたのかもしれない。
「いいえ。真実の愛、それこそが至高。その美しさ故に、幼いころから洗脳され、婚約という言葉に囚われていることにも気付かないまま苦しんで生きてきた妖精は、わたくしと出会い、愛に目覚めたことで全てから解放され羽ばたく日を迎えたの」
「メルファナ様ごきげんよう。本日も絶好調のご様子ですね」
途中から歌いながら出てきたメルファナ様はいつもこのような演技派の方。最初は装飾過多な言葉遣いや大きい身振りに驚いたものだ。もう慣れてしまったので、「ジャンリはわたくしを選んだのよ」という意訳が脳内に響いた。
私より年長者のメルファナ様がお相手だったということは、年齢が問題だったのではない。脱力するほどほっとした。自分で思っていた以上に、6歳年上というのは私のコンプレックスになっていたようだ。
それに、メルファナ様は年若い男の子を好まれる方だから、さもありなんという感じ。ジャンリはうまく騙されてしまったのだろう。
納得したところで、さあどうしよう、と考えを巡らせる間にもメルファナ様はどこかで聞いたような愛の言葉を謳いあげている。こうなっては止まらないので放置するしかない。歌声も所作も素晴らしいので、観劇だと思っていれば耐えられる。
空気が変わったことで父とデュランダール伯爵も復活したようだ。
「デュランダール伯爵。これはいったいどういうことでしょうか」
「私も初耳で驚いています。愚息が誠に申し訳ないことを」
「謝罪のお言葉は結構です。ただし、婚姻が無効になるということは、今までの支援金は清算の上、今後の立場も考えねばなりません」
「それは、その」
「しかし、全てをすぐに金銭でというのも、今までのお付き合いを考えると私としても心苦しい」
「クランディ男爵のお心づかいに感謝します。何年かけてでも償います」
「とはいえ私どもも、ご子息の優秀さに最高の支援をしすぎました。すぐに思いつくだけでもかなりのものになります」
「愚息への支援は当家から頼んだのです。致し方ないこと」
「では金瀬の代わりに、婚姻によって預けていただける予定だったあの山の権利、及び周辺の街道の権利を10年ほどお譲りいただければと」
「いいえ、クランディ男爵。婚姻は無効にいたしません」
「しかし、婚約式を成人後まで待ったのも、当人たちの意思を捻じ曲げないがため。不幸な結婚は悲劇を生みます。無理強いはできません」
「ええ。ジャンリのことは、もう諦めます」
「デュランダール伯爵のご子息はジャンリ殿だけのはずですな。となると分家から養子を」
今後の事を話している親同士の話も漏れ聞こえてくるが今は放っておいて、私はジャンリをどう説得するか考えていた。恋愛に夢中になっているのなら、反対しても逆効果になりかねない。
メルファナ様は恋多き女性。私よりも2歳ほど上だけれど、昔から年下好きとして有名だった。それこそ取っ換え引っ換えというほどだ。おおよその周期は2年。だから恐らく、長くても1年我慢すればジャンリは戻ってくるだろう。今まで待ったのだし、あと1年くらい待てる。
ん…? あんな方だったから失念していたけれど、そういえばまだ独り身を貫いていたような。
「メルファナ様のおっしゃっていることは本当?」
「うん、たぶん。空が歌い星と光が舞ったっていうのがいつのことだかわからないけど。それに、男として責任を取らないと」
「責任…」
聞き耳を立てていた周囲がざわめいた。
「メルファナ様とのことは思い出にして、アリィスと結婚するつもりだったよ。でも」
俯いて肩を震わせる姿に、張り裂けそうに痛む胸を無理やり抑え込んだ。
一時的な激情ではなく、きちんとけじめつけるつもりなのね。
深呼吸をして、引きつりそうな口元を無理やり抑えた。目が潤むのは許してほしい。
「いいわ。メルファナ様と幸せになって」
常に高潔であれと教え込んだのは私。どのような流れで責任を取らねばならないような状況に追い込まれたのかはわからないけれど、海千山千のメルファナ様にかかればあっという間だったのかもしれない。
「ジャンリ。愛しているわ」
「僕もだよアリィス」
少し前なら抱きしめていただろう。けれど、今は男女としての適切な距離。手を取ることもない。
「アリィス嬢」
踵を返し、逃げ帰ろうとしたところだった。
デュランダール伯爵に呼び止められ、仕方なしに足を止めると、目の前で跪かれた。今日は何度驚かされたかわからない。心臓にも周囲の目にも悪いので止めてください。謝罪ならば別室を希望します。
「アリィス」
再び呼ばれ、手を取られる。この手で殴ってくれとか言われたらどうしよう。
「私と結婚してください」