桃の節句
朝晩はまだまだ寒いものの、真冬の極寒の日々に比べれば随分と暖かくなった。
Barでもそろそろフードメニューやワインメニューを春らしいものにチェンジしていく
つもりだ。今日の突出しは菜の花のソテー。
今日は平日の夜らしく随分暇で、お客は超遠距離恋愛中の美紀の友達、早苗さんだけ。
ま、たまにはこんな日もあるかな…?
「ひな祭りイベントかぁ。面白いかもね」
「はい。3月3日は男性は入店禁止にして、女性のみのイベントをすることにしました。
早苗さんもよかったら来てくださいよ。お一人様5000円でひな祭りオリジナルカクテル
や白酒、お料理が食べ放題飲み放題です」
「へぇ、是非お邪魔させてもらおっかな。美紀がいたら喜びそうじゃん」
「ええ、メールでそのこと話したら、羨ましがってました」
ひな祭りは女の子の日。よって今年は男子禁制の女性限定パーティーを催すことにした。
男性がいたら言いづらいことも、女性だけなら話せたりもするだろうし、ある意味女子会的な
雰囲気になるだろう。出す酒や食事も思い切って女性向けオンリー。
このBarは確かに男性客のほうが多いけど、女性バーテンダーのBarってこともあってかそれなりに
女性客もいる。だからこういったイベントも計画することができるのだ。
最近は飲食店に限らず色々なところで「レディースデー」と銘打ったサービスを行っている。
女性はそれにつられて行き、ついつい買い物をしてしまうという巧妙な手だ。
別段そんなつもりでひな祭りイベントをやろうって思ったわけじゃないけど。
『ホントはあんた、酔ったお客さん解放するつもりで浮気しようって魂胆じゃないでしょうね?』
「そんなこと あ り え ま せ ん !」
『アハハ、冗談だって。あ、飲み放題なら早苗には気をつけなさいよ。あの娘飲み放題ってなると
限度ってものを知らないから』
「わかってるって。赤字にはならないように採算とるつもりだから」
美紀と話終わってskypeをログアウトさせるともう昼過ぎだ。そろそろ店へ行って仕込みを
始めないといけない。材料は昨日のうちに全部届いているし、白酒やワインも夕方には
届けてくれることになっている。本当は昨日のうちに配達して欲しかったが、酒屋の都合で
今日納品ということになったのだ。
フードメニューは、牡蠣の代わりにハマグリを使ったアル・アヒージョ、サーモンマリネを
使った洋風ちらし寿司、色んな味付けを施した変り種ひなあられといった雛祭り風の
ものに加え、普段から出しているメニューの中で特に女の子に人気のスペイン風オムレツ、
カルパッチョ。そして女性限定パーティーらしくいくつかスィーツも用意した。
酒は白酒、春をイメージしたスパークリングワインにルージュワイン、オリジナルカクテルに
限定した。それ以外まで飲み放題にしていてはキリない、採算取れない、私に余裕がない
というないないづくしになってしまう。
その代わり白酒とワインは結構な数を発注した。早苗さんを始め蟒蛇が多数いるので、多めに
仕入れておかないと無くなる恐れもあるのだ。だから少し高めの値段設定になってしまったが、
このクオリティなら一人5000円でも文句は出ないだろう。
仕込みが一段落したのは17時。開店まであと2時間だ。
そろそろ酒が届くはずの時間なのに、いつも取引している酒屋が来る気配がない。
念のためにと思って、携帯電話を取り出して酒屋へ電話して確認してみることにした。
「もしもし、Grief&Cocktailsの美山ですが、お世話になります」
『あ、どうもいつもお引き立て有難う御座います』
「あの、今日納品をお願いして発注しました白酒7本とスパークリング7本、ルージュ8本が
まだ届かないのですが…」
『えーっと、配達へは既に出ておりますが』
「そうですか。じゃあもうちょっと待ってみます」
配達が立て込んでいるのだろう、と思い込んで私は仕込みの続きを始めた。
すっかり料理の支度が済んだのが18時45分。開店15分前だというのに、まだ届かない。
既に店の外まで来て待ってくれているお客様もいるのに…。
もう一度酒屋へ問い合わせてみるが、確認して折り返すの一点張りだった。
お客様を待たせるわけにもいかないので、とりあえずオンタイムで開店した。
「すみません。酒屋のトラブルで白酒とワインの到着が遅れているんですよ…」
「えー、マジで?ひな祭りって言ったら白酒なのにー」
「とりあえずオリジナルカクテルとお料理でお楽しみいただけますか。すぐ来ると思いますので」
開店時間を過ぎてからもお客は増えて、スタンディングにした店内ですらほぼ満員の状態に
なった。しかし今提供できているのは料理とオリジナルカクテルだけ。メインの白酒とワインが
なくては今日のイベントは始まらない。本当は白酒で乾杯というスタートをきりたかったのに。
「ヒトミちゃん、白酒きた?」
「早苗さん。それがまだなんですよ」
「もう酒屋まで取りに行ったほうが早いんじゃないの?」
「配達する車に載せてるらしいので、そういうわけにも行かないんですよ。どうしよう…」
「マスター、ワインはまだなの?せっかく5000円も払ってるんだしさぁ」
「スミマセン、もう少しだけお待ちください。もうすぐ着きますので…」
と、そこで私の電話が鳴った。酒屋からだ。
「どうもお待たせして申し訳ありません」
「ちょっと、いつ届くんですか?もうお客さん待たせられませんよ!」
「実は配達を頼んでいたアルバイトが急に車をコンビニに置いてバックレまして…」
「は??」
「大変申し訳ございません!今店長がそちらに商品持って向かっておりますので」
「皆さん、お待たせして申し訳ございません。あと五分少々で白酒とワインが届きますので。
その代わり発注数よりも多めに届くことになりましたので、皆さんどうぞ思い切り飲んで
下さい!」
酒屋の配慮で仕入れ単価を3割引にする上に、白酒は3本、ワインは銘柄違いの美味しい
ところを3本サービスして貰うことになった。お陰でお客の不満も解け、イベントの本番を
始めることができた。
「美山さん、誠に申し訳御座いませんでした!バカなバイトのせいでこんなことになりまして…」
「普段ならいざ知れず、イベントの日は困りますよ。せめて開店前にしっかり納品して
もらわないと…」
「おい、お前も謝らないか!」
横ではふてくされた顔をした若者がポケットに手を入れて立っていた。恐らくこいつが
「バックレたバイト」なんだろう。不機嫌そうな目付きでこっちを見ている。
「…ッチ、うっせーな…」
「店長さん、今日のところはもういいですので、そのバイトの子をここから早く消してください。
そんな子にいられたら他のお客様に迷惑ですので」
酒屋の店長は平謝りを繰り返すと、バイトを引きずるようにそそくさと帰っていった。
全くどんなつもりで仕事をしているのだろうか。いくらバイトだと言っても、「酒屋の配達」
という「仕事」をしてるという意識がないのだろうか。
私は怒ると言うより呆れてしまった。
店の中に戻ると、さっきの少しテンションの落ちたギクシャクした空気とは一転、和やかな
空気が漂っている。あちこちでは早速女性同士ならではの会話が飛び交い出し、白酒、ワイン、
カクテルのお代わりを頼む声も次々と飛ぶ。
普段は酒やBarには男も女もない、誰にでも平等なものだと思っている私だけど、今日ばかりは
女性だけでBarという空間を占領して女性だけで飲むという楽しみは捨てられないと思った。
男という異性がいない空間だからこそできる飲み方もあるし、それならではの酒の味もある。
私も随分みんなから飲まさせられて、いい気分だ。
「さぁ、そろそろ今日のメインディッシュ登場させますか。女性イベントらしいメインディッシュ
なんですよ~」
「えー、もうお腹いっぱい」
「もうちょい早く出してよ~」
「フフフ、これ見てもそんなこと言えますか?」
私は冷蔵庫にしまっておいた「隠し玉」を取り出した。サプライズのメインディッシュだ。
「じゃーん、菱餅形ケーキ!作るの苦労しましたよ」
「おー、ひな祭りらしい!」
「ケーキは別腹、べつばら!ヒトミちゃん、早く切って」
「ここに男がいたら絶対『胸焼けしそう』とかKYな発言するんだよね」
「そーそー。大体男って無神経なんだよね。こないだもさ~…」
最早女性だけの無法地帯と化したこの店。こんな夜もたまには必要なのかもしれない。
男性から見ればただ単に「ウザい」だけかもしれないけれども、女同士男の愚痴を言いながら
酒を飲んで、何だかんだお腹いっぱいと言いつつしっかりスィーツは食べる…。
KYでバカな酒屋のバイトにはヒヤヒヤさせられたけど、女性限定イベントは成功したかな、と
私は密かに思っていた。そのパロメーターは、もちろんお客様の「笑顔」だ。
酒には笑顔が似合う。苦しいときに飲む酒、悲しいときに飲む酒、それぞれに味わいはある
けれども、やっぱり楽しいときに飲む酒の味にはかなわない。
取り分け今日は桃の節句、ひな祭り。ひな人形のような笑顔で白酒を飲んで祭事を祝うのが
ピッタリの日だ。
『で、5月5日には端午の節句で男性限定イベントやるの?』
「やるわけないじゃん、そんなむさ苦しいイベント。女の子がいなきゃやだ!」
『随分飲んでるねぇ…』