カルボニック的な試飲会
毎年解禁日には日本でも騒がれるボジョレー・ヌーヴォ。
今年も解禁日には全国の酒屋を始め、デパート、スーパー、コンビニで大々的に
売られた。
本来ボジョレー・ヌーヴォとはその年収穫された葡萄で醸造された新酒ワインの出来
栄えをチェックするため、業者向けに作られていたものだそうだ。
フランス ブルゴーニュのボジョレー地区でドメーヌと呼ばれる葡萄の栽培からワインの
醸造まで一貫して行う醸造家によって造られる新種は、ドメーヌごと、畑ごとに味も香り
も違ってきてそれを楽しむことも一興だ。
また、毎年誰が決めているのか知らない「評価」を見るのも面白い。
毎年「ここ数年で最高の出来」だとか「○○年に匹敵する味」だとかいかにもな
過大評価をされている。
だが2009年の「50年に一度の出来」にだけは納得できたと思う。あれだけは私が
ワインを飲み始めてから一番の「ボジョレー・ヌーヴォの当たり年」だった。
私の店でも今はボジョレー・ヌーヴォを使って何か出来ないかと思い、イベントを
催すことになった。
ボジョレーワインをいくつか集めた試飲会。7名限定で軽いフード付きという、私のBar
では異色な形態である。そして今回はアドバイザーとしてワインカーヴを備えたフランス
料理店に務めるソムリエの他咲芯夜さんに来ていただく事になった。
瞬く間に常連で予約は一杯になり、当日は私も他咲さんの説明を受けながら飲める
のを楽しみにしていた。
試飲会当日。本来は店の定休日の日曜日。他咲さんは「出張」という形で店からお借り
した。フランス料理店のオーナーと今は亡きマスターとは洋食屋で勤めていた旧友で
あり、二つ返事で了承してくれたのだ。他咲さんには今回試飲するワインから飲む順番、
ボジョレーワインについての資料まで揃えてもらった。
フードはオリーブや簡単な野菜のサラダ、トルティージャ、チーズといったワインに
合いそうなものを揃え、一人分ずつ大皿に盛り付ける。
「他咲さんすみません、盛りつけまで手伝って貰っちゃって」
「構わないわよ。それより、そろそろみなさん来る時間じゃなくて?」
「あ、ホントだ!入口開けなきゃ」
気づけばもう開始の15分前。入口の電気をつけてドアを開けると、既に早苗さん、
加代さん、ロバートが店の前で喋りながら待っていた。
Barで開店前から並んでるというのは少々新鮮な光景だ。
「ヒトミちゃーん、寒いよ!」
「I wanna drink soon!」
三人を店内へ招き入れると同時に、今度はMALT HELLの神野さんと奥さん、011の
黒澤さんが連れ立ってやってきた。
あと一人来る予定だが、少し遅れるのだろうか。
とりあえず全員席についてもらって、グラスやフードをセットしていると、
「ごめんなさーい、ちょっと遅れちゃいましたー?」
と最後の一人がやってきた。最近常連になった大学生の美早紀ちゃんだ。Barで飲みだして
日は浅いけど、今回のイベントに誘ったら真っ先に参加したいと言い出した子だ。
ワインもこのBarへ来て初めて飲んだそうだが、一度飲んだワインの味を鮮明に覚えてい
たりして、鋭敏な味覚と嗅覚を持っていると思われる。
「まだ初めてないから大丈夫だよ。ここ座って」
「えー、こんな真ん中!私、端っこでいいですよぉ」
「いいからいいから」
美早紀ちゃんを座らせると、あとは他咲さんにバトンタッチして、私もカウンターに
座った。
「本日はお集まりくだすって有難うございます。ヒトミちゃんに依頼されまして、
本日のアドバイザーを務めさせていただく他咲です。皆さんご存知かと思いますが、
シェ・ワタナベというレストランでソムリエをしております。それではまずこちらで
乾杯をしていただきましょうか」
そう言って他咲さんがまず開けたのは、Belle Bulleというスパークリングのロゼ。
ジャン・モルテというドメーヌの醸造するヌーヴォの一種だ。ジャン・モルテ氏は
ロマネッシュ・トラン村のほぼ中心に畑を構え、伝統的なムーラン・ア・ヴァンを造る
残り少ない生産者だそうだ。
今日のワインは一本を除いて全てジャン・モルテ氏の醸造したものを揃えてもらって
いる。
「じゃあ乾杯の発声は、やっぱヒトミちゃんよね」
となりから和代さんがいきなり言うので戸惑ったが、ここはイベントを主催した人間
として…
「え、えーっと…、現在地球には68億人居ると言われています。その中でワインという
繋がりで
こうやって9人が居合わせられたと言うのは、奇跡ではないでしょうか。その奇跡を
祝いまして、
乾杯!」
自分でも何を言っているのか正直分からなかったが、とりあえず乾杯して全員飲み
始める。
このBelle Bulleは、ずいぶんスッキリした味わいだ。そしてイチゴのような、ベリーの
ような後味が広がっていく。
このようなものは中々売ってない故に、飲む機会も少ない。やはり他咲さんにワインを
選んでもらって正解だった。
「さて、それでは本題にいこうかしら?これは今年のボジョレー・ヌーヴォです。
生産者はこのスパークリングと同じジャン・モルテです。まずはこれで基本の味を
味わって
ください」
注がれた今年のボジョレー・ヌーヴォ。私は既に飲んでいるけど、改めてここで飲み
直してみる。
「なんか、2009年のに近い気がする」
最初に口を開いたのは早苗さんだった。私も同意見。最も当たり年と言える2009年に、
及ばずとも遠からず、中々近い味と香りだ。和代さん、神野さんの奥さん、黒澤さんも
同意見。
ロバートと美早紀ちゃんは2009年のを知らないので、比べようはないが美味しい様子。
神野さんは何故か戸惑いながら飲んでいる。
「ええ、その通り今年のは2009年に割と近い味わいなんですよ。それでは続いて、
全く同じ生産者で同じ畑の葡萄のものですが、ヴィンテージ違いを飲んでいただき
ます」
続いて他咲さんが取り出したのは、全く同じジャン・モルテのボジョレー・ヌーヴォ。
しかし醸造された年が2003年となっている。無論ちゃんとした場所で保存されていたも
のなのだろうが、ヌーヴォを何年も寝かせて大丈夫なのだろうか。そう思っていると
他咲さんが注いでくれる。まずその時点で漂ってくる香りからして違うのが感じ取れる。
まさに熟成し始めている香りともいうべきか、アロマが凄い。一口含んでみると、本当に
同じボジョレー・ヌーヴォかと思えるほど、味が変化している。味が死んでいるわけでは
なく、むしろ熟成により、より美味しくなっているのだ。
「なんか、樽のような香りがします」
美早紀ちゃんがグラスを手に言う。私も再度香りをみたら、確かに微かだが、
シェリー樽のようなフレーバーが感じ取れる。
「このワインは樽には詰めないのですが、この樽みたいな香りは、熟成から来る
第3アロマというやつです。微妙なこの香りを感じ取るのは中々できないですよ。
ワインはよく飲まれるのかしら?」
「いえ、私、まだワインっていうかお酒を飲み始めて日が浅いので・・・」
「あら、随分といい味覚と嗅覚してますよ。どう、ワインの勉強してみないかしら?」
やはり美早紀ちゃんの味覚は秀でたものがあるようだ。
私としてはこの熟成させたものも、今年のものも甲乙つけがたい。しかし
「俺は、今年のよりも2003年のほうが好きだな」
「私も。熟成して香りが出てる」
「Me too. 熟成でtasteがbetterね」
神野さん夫妻にロバートはこの熟成したほうが好きなようだ。
「さて、次は今年初めて日本に入ってきたボジョレー・ヌーヴォです」
他咲さんが手にしたボトルは、メゾンオートというドメーヌのボジョレー・ヌーヴォ。
このドメーヌは、ヴォー・オン・ボジョレーという村で、1000年前から続く葡萄畑でから取れる幻のドメーヌだそうだ。古木から採れる葡萄で仕込んだ味は一体どうだろうか。
香りはジャン・モルテ氏のそれよりも薄目の香り。しかし一口含むと、フルーティさが
凝縮した塊が入り込んできて、喉の入口で破裂する。面白い味だ。
「ここで、ボジョレー・ヌーヴォの造り方について少々。ボジョレー・ヌーヴォを
作る際、マセラシオン・カルボニックという醸造法を用います。通常は収穫した
葡萄を破砕してブレスしますが、マセラシオン・カルボニック法では破砕せず、
縦型の大きなステンレスタンクに上からどんどん入れます。
タンクの下のほうの葡萄は重さで潰れ果汁が流れ出て自然に発酵が始まるわけです。
発酵が始まると炭酸ガスが生成されますから次第にタンク全体が炭酸ガスで充満
します。炭酸ガスで充満したタンクの内部では潰れていない葡萄の細胞内部で酵素の
働きによってリンゴ酸が分解されアルコール、アミノ酸、コハク酸などが生成され
葡萄の皮からも成分が浸出します。
マセラシオン・カルボニック法で造られたワインはタンニンが少なく、ライトな
口あたりで飲みやすいワインが出来上がるわけなんです」
「つまり、葡萄が自然に潰れて自然に発酵していくわけなんですか?」
「そういうことです。だからこそ早めに飲むことを前提にしてるんですね」
「なんか不思議だなぁ。その、マセラ・・・」
「マセラシオン・カルボニックです。舌噛みそうな名前ですが、是非覚えて帰って
くださいな」
いつになく真剣で興味津々の早苗さん。わざわざメモを取ったりしている。
「じゃあ、今日はカルボニック的な試飲会ですね!」
「早苗さん、なんですかそのファッション雑誌に載ってそうな言葉」
「あら、いいんじゃないです?カルボニック的って言葉もね」
そう笑いながら、他咲さんは最後の二本をカウンターの上に置く。しかし一本には
タオルが巻かれており、ラベルが見えない。
「またジャン・モルテに戻りたいと思いますが、これはボジョレーワインではあります
が、ヌーヴォではありません。ムーランナヴァン レ・ルショーの2007年です。
ヌーヴォではないのですが、マセラシオン・カルボニック法で作られたワインです」
香りは、さながら草原にでもいるかのような草の香りと、葡萄本来の香り。
そして口に含むと、程よいタンニンを感じる。もちろんライトなのだが、今までのものと
比べると、若干重く感じる。
「いかがですか?今の味を覚えていて戴いて、こちらを飲んでください」
そう言って他咲さんはタオルで巻いたボトルのワインを注いでくれた。久々のワインの
ブラインド。
何としても当ててみたい。
香りは、レ・ルショーの2007に比べて少しマイルドだろうか。
一口含むと、最初はアッサリとした感覚が広がって、徐々に葡萄特有の香りが全体に
広がる。
これは美味しいワインだ。
「みなさん、二つ比べてみてどちらがお好きですか?」
他咲さんがニヤつきながら言う。「何か」があるのだろう。
「私は後の方が」
「I like beforeだねぇ」
「私も前の方が」
ふと美早紀ちゃんの方を見ると、何やら考え込むようにして飲んでいる。
「どうですか?」
「私は・・・ このあとの方が好きです」
「そうですか。みなさん意見が出揃った所で…、これ、もし同じワインだってなったら
どうします?」
その言葉に一瞬全員がざわついた。他咲さんがタオルをとると、なんとあとから出てきた
ワインは、同じムーランナヴァン レ・ルショー。ヴィンテージが2002年というだけで、
あとは変わりない。
なのにここまで味が違う。さっきの2003年のボジョレー・ヌーヴォ以上の変化だ。
香りもいわゆる第三アロマに包まれ、味もいい意味でまろやかになっている。
「この5年の違いだけで、これだけの変化があるのです。2002年の方は、実はあの
ロマネ・コンティに近い味とも言えるでしょう」
「ロマネ・コンティ??」
「ええ」
思わず全員が姿勢を正してしまった。
「私の舌はまだまだですね」
「Me too. Wineをもっと飲まないと」
「早苗さん、ロバートも、これを機会にうちでどんどんワイン飲んでくださいよ。
いつもお二人、ビールかウィスキーだから」
「あ、ついでに私の店でフレンチと一緒に、お願いしますわね」
ちゃっかり営業している他咲さんに笑っていると、いつの間にか全部のワインが空いて
しまっていた。
これだけボジョレー・ヌーヴォをはじめとするボジョレーワインを並べた試飲会って
いうのも中々無いだろう。今日こういったイベントを開いて正解だったと私は確信して
いた。
ただ単にみんながワインへの関心を深められたというだけではなく、熟成でこれだけ
味も香りも変化していくというワインの「面白さ」を体得することが出来た。
「面白さ」って、酒の基本だと思う。
「さあ、二次会どこでやんの?」
加代さんがいきなり言う。
「そうそう、二次会行こうよ!」
早苗さんまで尻馬に乗り出す始末だ。
こうなってはきっと抑えが効かないだろう。
「銀二なら空いてそうじゃない?あそこワインもあるし」
「いいですねー、日本酒も結構あるし」
「Oh,I wanna eat Tonpi-yaki!」
みんなが片付けを手伝ってくれたお蔭ですぐに片付き、全員揃って二次会会場の居酒屋へ
向かった。
その途中、私は美早紀ちゃんに話しかけた。
「どうだった、試飲会は?」
「すっごく楽しかったです。なんかワインって奥が深くて。他のお酒もそうなんだろう
なって今日改めて思いました。なんかますますお酒に興味出てきちゃったかも」
「そっかぁ。じゃあこれからうちの店来た時は、いろいろテイスティングしてこっか?」
「はい!」
少し赤い顔で笑顔を作った美早紀ちゃんの顔は、どことなく美紀に似ている気がした。
私は思わず少しだけ顔を背けると、少し遅れてしまったみんなの塊へ向かって歩き出す。
恋心も熟成すれば、味も香りも、変わるのだろうか。
カルボニック的に、そう思ってしまった。
登場人物紹介
他咲芯夜
フランス料理店シェ・ワタナベの専属ソムリエ。
店内の地下にあるカーヴにある膨大なワインをすべて周知し、その日のコース料理に
合ったワインを毎日提供している。
多少おネエ言葉を喋ることがあるが、いたってノンケ。
ワイン以外にも日本酒や焼酎を好む。ソムリエであるが故にタバコもシガーも
一切吸わない。
なお、同じような名前の有名ソムリエがいるが、全く関係は無い。
矢島美早紀
Bar"Grief&Cocktails"の近くに住む大学生。
最近酒に興味を持ち始め、Grief&Cocktailsに来るようになった。
少し天然ボケな所があるが、味覚と嗅覚は恐ろしく鋭敏。