楽しさと面白さ(後)
目が覚めると病院のベッドの上だった。
公園のベンチから崩れるように倒れた私は、通りがかりの男性が呼んでくれた
救急車に乗せられて救急病院に運び込まれたらしい。
点滴を腕につながれて処置室で寝かされている私の横には父と妹がいた。
「全く急性アルコール中毒なんて。人様に迷惑かけるような飲み方するんじゃない」
「お姉ちゃん、どうせ馬鹿みたいに飲んでたんでしょ」
父と妹に責められ、立場上何も言い返せない私。
何も言わずにただ点滴の液体が落ちていくのを眺めていた。
そのうち当直と思われる医師が来て、今夜は病院で過ごし、朝には退院しても良いとの
ことだった。
それから二日間、仕事に行く気にもならずに家の自分の部屋に閉じこもっていた。
いつもならヒトミちゃんからメールが来るのだが、携帯電話は無言のまま。
三日目。
さすがに仕事も休めないので重い気分のまま出社する。
案の定仕事には身が入らない。モヤモヤしたものが消えないまま、一週間が過ぎた。
医者にもアルコールは控えめにと言われていたし、飲めるような気分でもなかったから、
私にしては珍しく、一滴も飲んでいない。
会社と家を往復するだけの日々だ。毎日家で夕食を摂っているので、父も妹も
不思議がっている。私としてもあんな醜態を晒してしまった以上、しばらくは自重
しなければいけないと思っていた。
それから2週間後。既にヒトミちゃんと連絡を取らなくなって三週間になる。
医者からは適量だったら飲んでも良いとは言われたものの、どうも身体が酒を欲しない。
食欲も減退している。それでも食べなければ身体に良くないため、無理に箸を動かして
いた。食卓には私と父だけ。
「そういや美紀、今週の日曜日は家にいてくれよ」
「え、なんで?」
「紬が男を連れてくるんだと。婚約したそうだ」
「・・・へぇ。もう随分付き合ってたみたいだけど、婚約したんだ」
「なんだ、そんなに前から付き合いがあったのか」
「大学の時からじゃない、確か」
「で、美紀はどうなんだ?」
父に痛いところをつかれて、箸を止める。
「色々忙しいからさ。それに私まで結婚して家を出ちゃったら、お父さん大変じゃない」
「俺のことは気にしなくていいさ。そりゃあ婿養子にでもなってくれれば一番いいけど、
そうも言ってられないだろう。女の子が二人生まれたところで、俺は決心してたさ」
翌日の帰り道。街中のコンビニで買い物をしていると、ふと肩を叩かれた。
振り返るとヒトミちゃんの姿がある。
「あ・・・」
「美紀さん、なんか久しぶりですね」
「う、うん」
「あの、ちょっとだけいいですか?話したいこと、あるから」
「…話したいことって、どうせ別れようってことでしょ?もういいから…」
「そうじゃないんです! …ここじゃなんだから・・・」
私とヒトミちゃんはコンビニを出ると、私の車で人気のない廃工場の陰に来た。
しばらくの間二人は無言だったが、沈黙を破ったのはヒトミちゃんだった。
「…美紀さん。実は三日前からお店を休んでるんです」
「え、どうして…?」
「その…、話すと長くなるんですが。美紀さんにあんなこと言ったのも、関係して
るんです。私、先月から強引にプロポーズされてた人がいて…。それでなんか
訳が分からなくなっちゃって、美紀さんにあんなこと言っちゃたんです。
それで、その人があまりにしつこいから、「女性と付き合ってる」って、つい
言って。そしたら凄く引かれて、気味悪がられて…」
私は何も言わずに助手席のヒトミちゃんを抱きしめていた。
日曜日。
私とヒトミちゃんは私の家のキッチンにいた。
せっかく妹が婚約者を連れてくるので、何か料理を作ってもてなそうと思ったのだ。
「美紀さん、あとはスペイン風オムレツだけです」
「はーい。玉子残りあったっけ?」
「3個あるから大丈夫ですよ」
たくさん料理を作るのは大変なので、ヒトミちゃんが手助けに来てくれた。
普段Barで作っている料理をたくさん作ってくれている。
「お義父さん、お義姉さん、よろしくお願いします」
「まあまあ、竜也くん。そんなにかしこまらないでよ。ねえ、お父さん」
「…君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない!!」
「・・・え?」
「ハハハ、言ってみたかっただけだよ。さあ乾杯しようか」
妹が連れてきた婚約者の竜也くんとは何回か会っているので、和んだ雰囲気で
迎えることが出来た。それも、ヒトミちゃんが隣にいたから、かもしれない。
「今日の料理は、このヒトミちゃんが作ってくれたんだよ」
「へぇ、美味しそうっすねぇ」
「じゃあ、いただきまーす」
いろんなものを乗せたカナッペ、ゴルゴンゾーラを使ったシーザーサラダ、
鰹のカルパッチョ、ジャークチキン、ヒトミちゃんの店に置いてあるハモン・セラーノ
そしてスペイン風オムレツ。
「マジ美味しいです。ヒトミさんを嫁にもらう人は最高だろうなぁ」
「あら、私よりヒトミさんの方がお似合いみたいね」
妹はうすら笑いを浮かべると、竜也くんの手の甲を思いっきりつねった。
「いてて・・・、そ、そういうことじゃないって」
「ダメだよ、竜也くん。ヒトミちゃんは私が・・・ あ・・・」
「み、美紀さん」
思わず口を滑らせかけて、口を紡ぐ。ヒトミちゃんも私の脇腹を軽く小突いた。
「え、何?お姉ちゃん」
「な、なんでもないって。ヒトミちゃん、そろそろワイン開けよっか?」
「え、ええ、そうですね」
「…なんか変なの」
ヒトミちゃんがお祝いにと店から持ってきてくれたワインで、すっかり気分よく
酔ってしまった。やはり酒は楽しく面白く飲まなければ本当の美味しさは分らない。
沈んだ気持ちの時や、怒っている時に飲んでも少しも美味しくない。
むしろそんな時の酒は「酔うための道具」にすぎないのだ。
ここ1ヶ月くらいでそんなことが身に沁みて分かった気がする。