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花火のあと。

作者: 大坪命樹

 足元の下方の歩道には、行き交う人々の丸い頭がたくさん、おはじきのように色とりどりに右往左往している。こうして俯瞰してみると、僕の覚悟も知らず、暢気にも往来しているものである。なんだか、少し滑稽である。

 柵を越えてパラペットの上から、前面道路を覗きながら、卓雄はそんなことを思っていた。上を見上げれば下弦の月が、卓雄の骸骨を透過するかのように明るい。ここで覗き込んで五分くらい立つ。歩道の前に一台の高級車が、車道に溢れる人混みを避けながらゆっくり進んでいく。

 ……あの車が通り過ぎたら、決行しよう。

 卓雄はそう思った。そして、パラペットを飛び降りようと体重を掛けた丁度その時、後ろから声がした。

 「あなた、そんなところで何やっているの?」

 若い女性の声だ。左の肘辺りを掴まれる。

 「そんなこと、関係ないでしょう!」

 卓雄は、抵抗しながら、ぶっきらぼうに答えた。

 「関係ないって言うけど、私が借りている部屋の上で、そんな自殺みたいことをして、本当に死んだら、どうするのよ」

 腕を振り払って、大声で叫ぶ。

 「本当に死にたいんだよ!」

 「何言ってんの、まだ若いのに」

 卓雄は、また道路を右往左往する人々の丸い頭を、眺めた。

 「とにかく、中に入って!」

 出鼻を挫かれて、改めて飛び込む勇気も持てずに、卓雄は、今更、強行出来なかった。 「どうして、こんなことするの?」

 柵越しに、女は、卓雄の表情を窺いながら、恐る恐る言った。卓雄は、顔を伏せて、答えるべき言葉を、頭の中に探った。

 そのとき、後ろで花火が打ち上がった。

 ドーンと火薬の弾ける音がして、華々しい光が卓雄の背後で砕け散った。

 「今、ここから飛び降りたら、あなただけじゃなく下に歩いている人をも死の危険に晒すことになるのよ」

 女の声に、卓雄は、振り返って黙ったまま花火を眺めた。こんなものを見て何が面白いのだろう、と少し疑問に思った。

 ボンと一際大きな音が鳴ると、巨大な花火が、高層ビルの彼方に散らばった。

 「落ち着いて、危ないから中に入って」

 卓雄は、今更その声に逆らうことが出来ず、柵の中に入った。それを見て安心したように、女は言った。

 「あなた、大学生?」

 「大学三年。君は?」

 「私はOLです。あなたより二つ上くらいかな……。あなた、名前はなんていうの」

 「真田」

 「何があったか知らないけど、自殺だけはやめたほうがいいよ。」

 「全てを終わりにしたかったんだ」

 「そんなに苦しい?」

 「苦しいというか、くだらない。自分がくだらない」

 女は、手摺に寄りかかって花火のほうに向き直って言った。

 「私の人生も、随分とくだらないわよ。地元の高校出て、中小の会社のOLになって、あとは結婚してくれる人を探して、子供作るだけ……。それに比べれば、あなたは大学を出れば、私よりいいところに就職できるじゃない。なんで、そんなことで自殺しなければならないのよ」

 「もう駄目人間なんだよ、僕は」

 女は花火の方を向いたまま、言った。

 「なんで? まだまだ、これからじゃない」

 「僕は、不治の病なんです。先行き真っ暗な人生……」

 大きな花火がまた一輪、煌き散った。

 「何があったの? 良かったら私に話してみて」

 卓雄は、この名前も知らない女性に、少し親近感が湧いていた。親も判ってくれない自分の苦悩が、この娘には判るかもしれないと思った。

 「じゃ、聞いてください」

 卓雄は、話を切り出した。


僕には、高校時代、好きな同級生がいました。しかし、内気な僕は、口さえ聞けませんでした。しかし、思い切って受験戦争真っ只中の秋に、僕は、名簿を見て彼女に電話しました。今思えば、電話より実際に口頭で言えば、こんなことに成らなかったのかとも思います。

 彼女の返事は、ノーでした。理由は聞きませんでしたが、私はそれでさっさと諦めたつもりでした。

 しかし、次の日、この電話のことが、クラス中に暴露されていました。僕は、噂を聞いて、それまで人生で一度もしたことがないのに、赤面してしまいました。すると、そのこと自体、嘲笑われている気がして、赤面を抑えようというこころが芽生えました。

 あとから知ったことですが、赤面恐怖とは、自分の赤面を恐れる予期感動を起こし、赤面するまいと思うこころと、生理反応的赤面とが、精神交互作用で増大して、ますます赤面してしまう神経症の一種なのだそうです。

 僕も、多くの例に漏れず、赤面恐怖になりました。噂される度に赤面していたものが、人の笑い声を聞くと、自分の噂のように思えて、その女の子の名前を聞いただけで赤面するようになりました。

 実際、いじめらしきものもあって、テスト中に、その娘の名前を、小声で囁き続けられ、私はテストに集中できませんでした。

 赤面すまいという抑圧は、一応効果を見せ、僕は赤面しなくなりました。しかし、こっちが引っ込んだら向こうが出るという風に、別の症状が出ました。表情恐怖というものです。赤面を抑えても、顔に視線を感じるので、表情が自然に出来なくなったのです。表情が不自然になり、嘲笑われている気がして、自我で抑圧しました。

 すると次に、脇見恐怖というものが、症状として出てきました。脇見というのは、眼はこちらを見ていないが、側面視野で横の人を意識して見ることで、当時の僕には、すこぶる苦痛なことでした。そんなときは、視線の焦点に眼を集中させて、脇見をしないように工夫しました。

 しかし、抑圧しようとしても、脇見恐怖はうまく抑圧出来ませんでした。そして、脇見をすると、されたほうも意識して脇見恐怖状態に成りました。このような自分の病状を共感させることによる後ろめたさを、加害者意識と言います。この加害者意識が怖くて、僕は、一生懸命脇見を避けました。しかし、逃げれば逃げるほど、コントロールできなくなる自分のこころ。

 ついに、僕の脇見の恐怖が、視野全体に拡大してしまいました。これが視線恐怖です。自分が見るだけで、見られた相手が病的不快感を感じる。しかも、相手まで不自然なこころに感染させてしまい、自分と同じような視線恐怖に陥れてしまう。いわば、視線恐怖とは、他人を狂人化する加害者意識を伴った恐怖症状なのです。

 事後ある本を読んだところ、この加害者意識は罪悪感の裏返しであり、僕は、クラスメートや社会に罪悪感を感じていたということらしいです。その罪悪感に関して、自覚せずに自分は潔白だという態度を取り続けたところに、症状の発展が起こったのです。

 とにかく、視線恐怖の破壊力は相当のものでした。見る人見る人を傷つけ同時に自分も罪人になっていく。ますます募る罪悪感。

 罪悪感に押しつぶされそうになり、僕は歩行など全ての動作を意識してしまい、空気の呼吸すら意識化しないと出来なくなりました。あらゆる行動を意識することは、かなりの苦患でした。しかもそれにも他人の狂人化の加害者意識が働くので、僕は、あたかも不治の伝染病に罹った重病患者のような心持でした。しかも、自分では、潔白なつもりでした。

 あまりにも辛いので、ある日独りで、精神科の病院を訪れました。医師は、ひととおり僕の話を聞くと、

 「統合失調症かもしれないな……」

 と薬を投与しました。僕は、そんな先天的精神異常のように言われて、かなりショックでした。そして、医者を信用できなくなりました。薬も飲まずに全て捨て、二度と医者には行かなくなりました。

 それでも、僕はなんとか大学受験だけは受けました。当時、成績がガタ落ちでしたから、志望校も相当落としましたが、それでもやっとかっと第三志望の公立大学に引っかかったのでした。浪人する気力も無く、僕は、進学しました。東京の大学です。初めての、独り暮らしの下宿生活です。故郷の知り合いの偏見から逃れて、新天地で心機一転頑張るつもりでした。

 しかし、こころが言うことを聞きません。視線恐怖と加害者意識が止みません。社交的に陽気に人前に出て、交友関係を持とうとしても、視線恐怖で加害者になってしまい、周囲を不自然にして傷つけてしまいます。加害者意識は募るばかり。

 僕は、まともに人と交流を持てませんでした。人を信じられる信じられないのレベルではなく、ほとんどまともに付き合えなかったのです。

 授業もろくに出ずに、かといってバイトするわけでもなく、ただ下宿に引き籠って囚人のように世間を恐れて、無為に過ごしていました。部屋は散らかり、生活パターンは乱れました。

 そんな堕落生活のなか、独りの僧侶が訪ねてきました。彼は、護符と称するチラシを渡しながら、手で印を組んでマントラのような言葉を唱えて、言いました。

 「何か、悩み事をお持ちですね。宜しかったら、一度寺のほうまで、いらっしゃってみてください。無料で霊視致しておりますので」

 僕は、胡散臭く思ったので、

 「何宗ですか?」

 「真言宗の新派です。旧来の宗教ですので、新興宗教とは異なります。御安心を」

 そう言って僧侶は、立ち去って行きました。

 僕は、今の人生が最悪に思え、誰かに救いを求めていたので、早速翌日、その寺に赴きました。「多摩山伝悟寺」という鉄筋コンクリートの寺社でした。玄関で来意を告げると、奥の小部屋に通されました。

 その小部屋は、正面に祭壇があって、窓も無く照明も薄暗い部屋でした。靴を脱いで、畳の上に正座すると、袈裟を着た僧侶が入ってきました。卓雄の正面に座ると、合掌して静かに言いました。

 「私は、当寺の僧侶の慧海というものです。今日は、どのようなお悩みで、御来訪になりましたか?」

「人と自分の視線が怖いのです。精神科にも行きましたが、統合失調症でないかと言われて、医者が信じられなくなりました。僕は、正常です」

 「正常だけど、人間関係に悩んでいらっしゃるということですね。では、霊視してみましょう」

 「お願いします」

 そう言うと、僧侶は、袈裟の裾を擦る音をさせながら祭壇に向き直って、般若心経を読経した後、手に印を組んで、長々しい陀羅尼らしきものを唱え初めました。ひとしきり唱え終ると、再びこちらに向き直り、

 「貴方には、報われない先祖の霊が憑いていますね。……それで、その先祖の霊が供養をして貰いたがっているのです。そのため、貴方に霊障があり、こころの病気になったのです。先祖供養をしてやることが、まず、第一に必要ですね」

 「そうですか、やはりこころの病気なのですか……。どうすればいいのですか?」

 「とりあえず、当寺の方法に従って、先祖供養をしてやることです。貴方自身が、先祖様を供養することが必要です。……もちろん、われわれは僧侶ですから、貴方のお手伝いは致します。……しかし、貴方自身がやらないことには、われわれがいくら祈祷しても、効果がないのですよ」

 「入信ですか」

 「そういうことになりますね。……われわれは、真言宗の新派です。真言宗なので、仏教なら御実家が何宗だろうと受け入れますよ」

 「……ちょっと考えさせてください」

 「どうぞじっくり考えてみてください」

 僕は、すっきりしなかったが、とりあえず座を立ちました。

 「なかなか急には難を取り除けませんが、根気良くじっくり行きましょう」

 僧侶は、僕を励ましました。僕は、寺を後にしました。


 女は、卓雄の方をじっと見ながら、話を聞き入っていた。打ち上げられる音が、花火の咲き乱れる夏の夜景を演出する。

 「下山したあと追い詰められて、僕が花火大会当日に自殺未遂したのは、やはり修行の霊験なのかな……」

 「わからないけど、偶然よね。……でも花火自体に厄払いの意味があるらしいよ」

 「ああ、そうなんですか」

 そう付け足すように言うと、卓雄は話を続けた。


いろいろ考えましたが、僕は、結局、その真言宗の新派に入信しました。何か行動しないと、現況が打開出来ないからです。

 手始めに、山間の本山に、一ヶ月間修行に行くことになりました。名前を慈王山究覚寺と言いました。

 十数名の信者と共に、送迎車で寺に到着すると、本山の僧侶如白は言いました。

 「今日のところは、夕食を食べてから寝てください。布団は、ここにありますので、各自、上げ下げしてください。夕食が出来たら呼びます。明日は、三時起きなので、よろしくお願いします」

 夕食は、食堂で会食でした。しかし、私は視線恐怖で行動がこわばってしまい、うまく食べれませんでした。噛む音や茶碗を置く音が不自然になり、不自然さの加害者意識で、動作がこわばりました。今まで、コンビニ食品を下宿で独りで食べていたので、なかなか会食する際の緊張が、判らなかったのです。

 その不自然さが、僕には酷く怖く思え、早く会食を終えたくて、飯をがっつきました。また、茶碗を置く音を立てるのが怖くて、置く回数を少なくするよう、一度に食べる量を多くしたり、噛む音を出すのが恐ろしくて、噛まずに飲み込んだりしました。辛い食事でした。

 そのあと、布団を敷いてすぐ横になりましたが、今度は、呼吸が気になります。背中とお腹に視線を感じ、息をするのに腹を上下させるのが不自然になり、その不自然さがまた加害者意識を帯びるのです。怖くてろくに深呼吸できないので、腹の動きが見えないように小刻みに呼吸していましたが、息苦しくて叶いませんでした。

 それでも何とか入眠しようとすると、隣の男が、こころの声で話しかけてきました。

 「おまえ、大丈夫か? 本当に、一人でやっていけるのか?」

 僕は、他人のこころの声が、そのまま自分のこころに感じられることが怖くて、一生懸命、その男の声を遠ざけました。また、人のこころの声が聞こえるということは、自分のこころも、テレパシーのように他人に伝わってしまうものと思われて、恐れ戦いて自分の中の後ろ暗いところを抑圧しました。しかし、抑圧すると、精神交互作用で、余計拘りが増して、自らのこころの声が却って大きくなり、ついに、相手に自分の心の声を伝えてしまいました。

 「僕は、狂人なんかじゃない!」

 「今の言葉、忘れるなよ、童貞」

 「舐めるな!」

 しかし、逃げ腰の僕は、それでも、呼吸意識が取れず、その晩は、加害者意識と幻聴テレパシーの嵐の中、浅眠で夜を明かしました。

三時に如白が起こしに来て、鈴を鳴らしました。

 「皆さん、起きてください。時間です」

 僕は、良く眠れずぼうっとした頭で、眼に隈を作って起き出し、用意された白装束に着替えました。そのまま、真っ暗闇の中、懐中電灯の灯を頼りに、引率の僧侶に付き従って、寺院の傍にある滝まで、歩いていきました。

 滝は、落差五~六メートル程でしょうか。滝行をする信者の列に繋がって、僕は順番を待ちました。初夏の陽気は、山間でも暑くて、滝行の水は、むしろ涼しくて気持ちが良かったです。うろ覚えのお経を唱えながら、十分くらい滝に打たれました。

 ひととおり信者の滝行が終わると、皆ジャージなどに着替えに寺に戻りました。今度は山行です。先導の僧侶に導かれて、寺の脇から続く山道を走り登っていくようです。

 明るくなり始めた山道を、前に走っている人を追って、駆け上っていきました。息が切れてすぐ走れなくなりましたが、先導と一番後ろの僧侶に挟まれるようにして登ったので、道を迷うことはありませんでした。

 登ったり下ったり、二時間くらい山道を駆け回っていたでしょうか、寺に戻ってくる頃には、すっかり明るくなっていました。

 それから、食事の前に本堂に行き、勤行がありました。滝行と山行で心身を浄化してから読経するのは、とても理屈にかなっているように思いました。また、読経していると、心の中の傷が癒えるような気がしました。

 僕は、この時点では、修行に来て良かったなと、少し安堵した気持ちになっていました。

 食事の後、作務と言って寺院の掃除や衣服の洗濯をしていたときも、こころが落ち着いていました。このまま、入信して先祖供養し、状態が良くなる未来が想像できました。幸せな将来を、楽観しました。

 昼飯を挟んで、夕方までは作務に徹しましたが、夕食前になると、座禅がありました。信者を呼び寄せると、如白は座禅堂に案内し、そこで座禅のやり方を簡単に説明しました。

 結跏趺坐で座り、静かに腹式呼吸をする。見よう見まねで、生まれて初めてでしたが、座禅というものをやってみました。

 なかなか幻聴の誹謗中傷が酷く、集中できませんでしたが、それを跳ね除けながら、呼吸に意識を集めました。

 普段の動作のときは、呼吸恐怖がなかなかとれず息苦しいのですが、皆呼吸に意識して行う座禅は、呼吸恐怖の加害者意識を軽減させてくれました。

 幻聴としばらく戦っていましたが、なかなか幻聴は止まず自分で言葉を言い返し、一向に精神統一できません。しようとすればするほど、

 「そんな邪な努力、無駄なんだよ。童貞は、下らんこと考えず、さっさと女を抱け」

 などと、僕を煽り苛立たせました。

 結局は、僕の心穏やかならぬ瞋恚の原因は、この「童貞」呼ばわりにあったと言っても過言ではありません。僕を差別し侮蔑するその呼称は、僕を深く傷つけました。

 実際、僕は童貞でした。それでも、なんとか呼吸を静かにして、座禅らしきものを続けたら、少しは頭がすっきりしました。

 座禅が終わったら夕食を摂り、順番に風呂に入って、九時頃に就寝です。それが一日の流れでした。

 山寺修行は、大体一ヶ月続けました。毎日が同じ生活の繰り返しでしたが、先に山を下って町に帰っていく人や、新たに山に来る人がいたので、マンネリにはなりませんでした。

 修行生活の中で、幻聴は酷くなったようでもありましたが、自分では慣れてきて平気になったつもりでした。

 僕より先に下山したある信者が帰るときに、

 「仏縁を大切にね。いつか人生が開けるよ」

 と言い残して、去っていきました。

 僕は、仏縁とは何か、作務しながら、あるいは読経しながら、考えました。毎日の滝行や山行の中でも、そういうことを感じながら、悩みました。

 また、如白は言いました。

 「仏様は、宇宙の中に現にここに居られますから、安心してください」

 しかし、僕には、そんな何もしてくれない存在を有難がることは出来ませんでした。

 先祖供養をしなければならないと慧海に言われましたが、その実、一向にそんな気持ちが起こりませんでした。すると、それに対するこころの声が、どこからか聞こえてきて、

 「仏様や御先祖様を信じないのに修行するのは、邪道だ。余儀の望みを叶えてもらうためにする修行は、依頼心の修行で偽者だ。そんな無駄な修行は、さっさとやめて町に下りろ」

 「それじゃ、僕の病気は、良くならないじゃないか」

 「修行なんかしても、治らんよ」

 「それじゃ、僕はどうすりゃいいんだ?」

 「地獄を味わえ。苦しめ。お前のような邪悪な魂は、地獄に落ちるしかないのだ」 

 僕は、苛立ちを覚えましたが、それを表に出すわけにも行かず、胸のうちに耐えました。

 日々、苛立ちは、なかなか収まりませんでしたが、期限の一ヶ月が来たので、町に帰らねばなりませんでした。

 その帰りの途上、車中こころの幻聴が繁くなってきました。

 「もう修行を辞めるのか、中途半端な奴め!」

 「やっと街から居なくなったと思ったら、もう戻ってきたの? あんたなんかこの街にいらないよ」

 「統合失調症なのに、医者にかからず宗教で治そうなんぞ、邪道中の邪道。そんな邪なやつは、さっさと消えちまえ」

 「もともと統合失調症って、愛の無い病気なんだぜ。親にすら憎まれて育てられるとなる病気だ」

 などなど、幻聴テレパシーが殺到して止みませんでした。僕は、こころが暗くなりながら、必死にそれらの誹謗を耐えました。

 送迎車が伝悟寺に到着すると、慧海が待っていました。送迎車から降りる信者に一人ひとり声を掛けました。

 「どうでしたか、真田さん? 先祖供養する気になりましたか?」

 と僕にも声を掛けました。僕は、陰鬱な気分のまま、

 「ええ、ちょっと辛いので、帰ります」

 と言って、さっさと帰って来ました。しかし、駅に向かうまでの雑踏の中で、ますます幻聴の声が沸騰し、頭いっぱいになって重い心が痛み出し、死ね死ねコールが聞こえてきました。

 何食わぬ顔して歩いているこの群衆の殆んど全員が、僕のことを死ねばいいと思っている。誰にも愛されていない僕は、早く死ねばいいのかもしれない。

 仏様は宇宙に現にここに居られる、如白はそう言ったが、僕のようなやつは、仏様にすら見放されているのかもしれない。そのために、僕のような邪悪な魂のために、地獄というものが冥界に存在するのである、そう思いながら街を歩いていたら、いつの間にか、中層住居マンションの屋上に立っていました。

 

卓雄は、そこで話すのを置いた。花火も終り、辺りは平常どおりの街の夜に戻っていた。

 「花火終わってしまいましたね」

 すると、女は名残惜しげに言った。

 「コンビニでビール買ってきてくれない?」

 「わかりました」

 卓雄は差し出された千円札を受け取って、ペントハウスのエレベーターに向かった。

 エレベーターを降りビルを出ると、さっき真上から見ていた往来の人々が間近に見えて、何か変な感じがした。さっき自殺を決行していたら、この人たちの誰かが自分の血しぶきを浴びたのだろうなと、変に戯画化された自分の死を想像した。

 屋上に戻ると、しかしながら、女は居なかった。ひとりでさっき居た所に座って、ビールを飲んだ。見るものも無いので、そろそろ帰ろうとしたときに、女が戻ってきた。

 「ごめん、手間取っちゃって」

 そう話す女は、あろうことか花火も終わったのに、浴衣に着替えていた。しかも、手に、どこから持って来たのか花火セットを持っている。

 「これね、前の彼とやろうと思って買ってあったんだけど、やらずに別れちゃった……」

 中国製かどこかの手持ち花火だった。卓雄は、女がなんでここまでするのか、不思議に思った。女は、袋からひとつ手持ち花火を取り出して、火を付ける。ばちばち音がして、花火は燃えた。

 「綺麗だね。……真田君も、やってよ」

 言われるままに、卓雄は花火に火を付けた。花火は、今度は、別の煌き方をした。

 「私ね、前の彼氏に二股掛けられていたの」

 「そうなんですか」

 花火をどんどん点火する女。

 「どことなく、真田君に似ていて、繊細なところがあった人だけど、そんな人にも、二股掛けられるのよね、私って」

 ばちばち音を立てる花火を見ながら、少し女はしんみり黙り込んだ。元彼を思い出しているようである。

 「僕よりましですよ。なんと言ったって、統合失調症ですから。……周り中から疎まれた存在なんですよ」

 卓雄も、もう一本、花火を付けた。

 「……でも、もういいのよ。世の中には、男なんて星の数ほど居るんだから……」

 そう言って、筒型の花火を一つ取り出す女。少し離れたところに立てて点火する。

 ボウっと言って燃え上がる花火。明るく薪のようにあたりを照らす花火に照らし出されて、浴衣姿はいかにも若い夏の女だった。

 「なんで浴衣着てきたの?」

 女はからかうように微笑んで、

 「ちゃんと病院行かなきゃだめだよ」

 筒型花火は、あっという間に終ってしまった。卓雄はもう一つ、筒型花火を点火する。 「遅れたけど、名前何ていうの?」

 「加藤康子です。ダサい名前でしょ?」

 筒型花火が、バチバチ弾けて、夜半の屋上を照らした。

 花火は、それで最後だった。

 「もう終わりか……」

 おもわず卓雄が呟くと、康子も言った。

 「なんだか寂しいね。夏の夜の一片の想い出……みたいな」

 ゴミを纏めて手に持つと、康子は言った。

 「じゃ、私もう行くよ」

 「そう、ありがとうございました。命拾いしました。」

 「大丈夫? 独りになったら、また死んじゃいたくならない?」

 「大丈夫です」

 「バイバイ」

 後ろ手に手を振って去っていく康子の後姿は、花火の夜によく似合って、卓雄には名残惜しく感じられた。

 「あの……」

 ペントハウスに入りかけるところで、卓雄はついつい声を掛けてしまった。

 すると、庸子は、笑顔を卓雄に向けながら言う。

 「いつまでも、そんなとこに立ってないで、一緒に行こうよ、真田君」

 「……」

 突っ立って動けない卓雄を見ながら、康子はまた近寄ってきた。

 「しょうがない人ね」

 そう言って卓雄に優しく微笑むと、康子は、卓雄の手を引いてエレベーターに乗り込んだ。卓雄は、唖然としながらも、先ほど飲んだビールと初めて感じる異性の香りに酔った。

 エレベーターの中で、しかし、二人は黙ったままだった。長くて緊密な沈黙の時間だった。卓雄は、緊張して何か言わないといけないと思考を巡らしたが、ついぞ一言も発することなく、エレベーターは下に着き、扉が開いた。

 「また、遊びに来てね、いつでも待ってるよ!」

 康子が言うと、エレベーターの扉が閉じかかり、それを卓雄は手で遮って外に出ながら、

 「ありがとう」

 卓雄のこころは、ビルのパラペットに立っていたときからみて、対照的に明るかった。 明日、医者に相談に行こうと考えた。そう思いながら、卓雄は駅のある方向へ、家路を急いだ。

 夜空は澄み渡り、月の半円が、地上を明るく照らしていた。

                     <竟>

  

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