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王太子殿下と噂の女

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何百年とかけて年輪を刻んだ硬い木に、彫刻刀で丁寧に命を吹き込む。黒々とした冷たい大木に散らされた草花や鳥、動物たちの影が燭台の燈火に照らされて輝いている。調度品も同様の装飾があしらわれ、明るすぎない彩りは激務の合間に息つくために作られたことが窺い知れる。彼がこの部屋に足を運ぶことは多くはないが、時間のある時は決まってここで心を落ち着かせることに決めていた。長く続いた職人芸に彩られたこの部屋は、この国の細く長く続いた歴史そのものを思わせる。

 窓のわきに置かれた椅子に腰かけ、肘掛けにもたれかかるようにして浅い息をする少女は、数え年で16歳という年齢にふさわしい細い肩を静かに上下させている。刺客に狙われるともしれぬ状況下でありながら、側近たちを信頼しているのか、無防備な顔を見せている。

 燭台に照らされただけの暗い室内。黒々とした木の彫刻。調度品。それらに似つかわしくなく、彼女は繊細な刺繍が隅々まで施された布を全身にまとっている。頭には蘇芳色の鮮やかな布地、服も同色の羽織、その羽織の隙間から見えるほっそりとした足首の先に、小さな足を包むのは同じく刺繍の施された布で作られた靴。

細かな刺繍の施された布を頭から被るのは、山脈をいくつか超えた北国の風習だ。布の質や長さ、刺繍に差こそあれ、かの国では身分にかかわらず女は皆布を頭から被るのだという。厳しい土地柄と、長く続いた戦の中で、人々は伝統と財産と誇りを刺繍という形で表して身につけ、持ち歩くようになった。女たちの手で代々編まれていく文様は、その家柄の全てを表しているのだそうだ。そして今まさに目にしているそれは、蘇芳の糸が織り込まれた織物に金糸、その他さまざまな植物で染められた糸が色鮮やかに文様を織りなす世にも美しい刺繍であった。

 そのような絢爛豪華ともいえる刺繍に埋もれながら、その合間にのぞく顔は丸みをおびたあどけなさを残している。

 北方の人間らしく、やや薄い色の肌。燭台の灯りのせいか、頬は赤みがさしているように見える。わずかに頬に落ちる髪は、夜には黒く見えるが、日の光の中ではこの国にはない黄色がかった色をしている。長い睫が落ち、薄く開かれた唇は、今は何の言葉も発しない。

 王太子はその様子を少し見つめてから、月の位置をちらりと見遣って時間を確認する。あまり早い時間とは言えない。名残惜しいが、起こさないわけにはいかない。

 歩み寄って見下ろすと、やはり15歳の少女のあどけなさと華奢な体つきに、なんとも形容詞しがたい心苦しさを感じた。本来ならば女として、姫として、勉学と花嫁修業とに勤しんでいる年頃だろう。あるいは領主のもとになど嫁ぎ、思うままに過ごしていたのかもしれない。あるいは、故郷の自然に囲まれて、ただ無邪気に過ごしていた可能性もある。

 しかし、いまさら思案しても仕様のないことだった。王太子はためらいがちに、その肩にそっと触れた。

 瞼を震わせて目を開いた彼女――婉君が、まるで幼子が母を探しているかのような顔をしたのを見て、王太子は微笑ましいような可笑しいような、そして少し切ないような気持ちになった。


「すまない。眠いのなら寝ているといい。寝台に運ぼうかと思っていたんだ」


 彼はこう言ったが、本心ではなかった。肩に触れて彼女が起きなかった試しはない。


「いえ、お気遣いなさらなくても…」

「私がそうしたかったのだ、婉君」


 申し訳なさそうに口を開いた婉君を遮り、わずかにかがめていた身を起こして冠の紐を解く。本来、身分が下の者の前では外すことは許されないものであるが、幾度となくこうして夜の語らいの中で冠を解き、胸襟を開いて言葉を交わしてきた。今さら気にする者などなかった。


「さあ、始めようか。私たちは一秒も無駄にするわけにはいかない」


 立ち上がって襟元を正した婉君を寝台へと誘導する。

本来は机で交わすべき話もあるが、今そこには果物や酒が盛られている。それらを動かして話し合おうにも、時間と労力が取られるのも惜しい。何よりそのために作られていない机では、広さも足りなかった。

 すでに寝台に重ねられているいくつかの書物と書簡を見て、婉君は不思議そうに首をかしげた。


「今日は少ないのですね。」

「書物より、お互いの考えを交換するほうがよかろうと思ったのでな。」


 婉君は寝台に腰掛けると、王太子が燭台を近づけるのも待たずに書物を開き始めた。その様子を後目に、彼は懐から懐紙を取り出してそこに書きつけた走り書きに目を通した。今日このとき、婉君と交わす会話のために、人目を盗んで作った走り書きである。

 新年の儀の折、宮中のみならず広く国民たちにも婉君の存在を知らせた。ここから、どう動くかによってこれからの婉君の宮中での立ち位置が決まるといってよい。寵姫としての不動の立場を得るか、焦った貴族連中が本格的に動きを見せる中、その潮流に押し負けるか――それは、国民たちの反応にもかかっていた。幸い、市井の者たちの中では婉君の存在は好意的に受け止められている。

 権力者は最終局面で民衆に勝てないことを、この小国の者たちは承知している。なおさら、貴族の制度を一部改正し、国民の声が選挙と言う形で政治に反映されることとなり、国民の支持厚き王太子に付くことでより強い支持を受けるとなれば、与論に弱い傾向は強まる一方だった。その中で好意的に受け止められている第三王太子の寵姫である婉君は、排除することが困難な存在として与論に守られる形となった。順当にいけば、第三王太子でありながら王位継承権、もしくは第一王太子に匹敵する発言権を得、いまは寵姫にすぎない婉君も王太子妃相応の立場を得られるだろう。

 寝台に腰掛ける、というより、半ば寝そべるような姿勢で食い入るように書物を読み始めた婉君を見て、王太子は苦笑した。

 そしていくらも経たないうちに、最後の書物を閉じて婉君は顔を上げて王太子を見上げた。


「太子」


 王太子はふと、微笑んでその言葉をやんわりと制した。


「取決めがあっただろう。民衆の目にさらした以上、呼び方を変えるのに慣れてもらわなければ。」


 あ、と呟きをもらして躊躇うそぶりを見せた後、婉君はためらいがちに囁いた。


「旭堯様」


 満足げに頷いて、王太子――旭堯は、婉君の隣に腰掛けた。


「では、我々の今後のために、成すべきことを成そう。」


 婉君は頷いて、書物のうちの一つを取り上げて微笑んだ。


「お互いが目的を果たすためのね。」


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