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 空達が教室に戻ると既に帰りの挨拶は終わっていた。確かに普通ならとっくに放課後という時間だろう。遅くなったのは空が悪いのだから、待っていてもらえなかったからといって文句を言えた義理ではない。というか空は教室がほとんどもぬけのからとなっていたことを全く気にしていなかった。

「どういうことですか先生。逢田さんがかわいそうじゃないですか。何考えてるんですか。それとも何も考えてないんですか?」

 だから洋子が担任教師の刈谷咲に喰ってかかるのを見ても、それが自分のことという感じがしなかった。

「はいはい、先生が悪かったわよ。配慮が足りませんでした」

 刈谷はいかにもおざなりな調子で謝罪する。教え子に面罵されたのが不愉快というより、単にまともに取り合うのが面倒といった風情である。

 その態度がますます洋子をヒートアップさせた。教師用のスチール机に両手をばんと叩きつける。

「全っ然、反省してないですよね。みんながいなくなった後の教室を見て逢田さんがどんな気持ちになったと思うんですか?転入してきたばっかりだっていうのに一番大変なゴミ捨てに行ってくれて、だけど慣れないせいで道に迷って、おまけにワトソンみたいな変態にまで絡まれて、ものすごく心細い思いをしたんです。それでやっとの思いで教室に戻ってきたら、みんなに労ってもらうどころかもう下校してるとかあり得ないです。これってもう立派ないじめですよ!」

 洋子の言葉に空はひそかに驚いた。いじめられていたなんてちっとも気付かなかった。

「何言ってるのよ。こんな時間になるまで戻って来ない方がどうかしているんだわ」

 洋子に反論したのは副学級委員長の先坂始だ。黒く艶やかな髪を後ろで纏め、キリンの首みたいに背筋をぴんと伸ばしている。垂れ気味の目を無理矢理のように吊り上げて、先坂は空を睨んだ。

「だいたいあなた、私と刈谷先生をこれだけ待たせておいて遅れてすいませんの一言もないってどういうことなの?礼儀や常識というものがないの?」

「誰も一緒に残ってなんて頼んでないけど」

「もともと自分がゴミ捨て当番だったくせに」

 刈谷教諭がひとりごちるように、そして洋子ははっきりと当人に聞かせるべく突っ込んだ。

「あなた達には言ってないわよ!」

 先坂は二人纏めて怒鳴りつけ、それからはっとしたように刈谷にだけ頭を下げる。

「すいません先生、失礼しました。ですけど私には学級委員としてクラスの秩序を乱した生徒に注意する義務がありますから」

「えっらそうに。あんたに他の子をどうこうする権利なんてないわよ」

「洋子ちゃん」

 空は控えめに洋子のブラウスの袖を摘んだ。

「わたしが話すから。ちょっとだけ待ってて。ね?」

「分った。遠慮しないでびしっと言ってやっていいんだからね。逢田さんにはあたしが付いてるから」

 ファイト、というように洋子は小さくガッツポーズをして後ろに下がる。代わって空は半歩前に進み出た。

「何よ。私は間違ったことなんて一つも言ってないわよ」

 背の高い空に負けまいとするように、先坂は顎を反らせる。だがつま先立っているせいで体が小刻みに震えているのが玉に瑕だ。空は深々と身を折った。

「始ちゃん、刈谷先生、遅くなってすいませんでした。これからは気を付けますのでどうか許してください」

「あ……」

「はい、気を付けてね。もともと謝るようなことでもないけど」

 刈谷はさらりと応じた。

「先坂さんももういいわね」

「は、はい、その、えーと……誰が始ちゃんよっ」

 ボールがキャッチャーミットに納まってからバットを振るみたいなタイミングで先坂は怒った。

「あれ、違った?」

「合ってるわよ。先坂さんの下の名前は始だもん」

 首を傾げた空に、洋子が答える。

「ねえ始さん?」

「だから下の名前で呼ぶなっていうの。吊るすわよ」

 野伏せりに囲まれた落ち武者さながらに先坂の目が据わる。

「先坂さん、乱暴は駄目よ。姫木さんも分ってて言わないように」

「……はい」

「はい、すいません」

「始ちゃんって自分の名前があんまり好きじゃないの?」

 空が尋ねると、先坂の身から仄暗いオーラのようなものが立ち昇った。

「当り前でしょう……絞めるわよ」

「どうして?」

「ふざけてるの?ハジメなんてどう考えても男の人の名前じゃない。冗談じゃないわ。もし次に呼んだら削るからね」

「そうなんだ。残念」

 空は肩を落とした。

「素敵なお名前だと思うんだけど」

「……本当に?」

「うん」

「あ、そう、ふうん……でも私は嫌いだから」

「じゃあ普段は呼ばないようにするね」

「だから普段とかじゃなくてっ」

 先坂は声を荒げ掛け、だがすぐにため息をついた。

「もういいわ。ちょっと話が通じないみたいだし」

 毒気を抜かれたみたいに面を逸らした。

「くだらない話は終わったわね。じゃあもうみんな下校しなさい。逢田さんはお疲れ様」

 刈谷が場を締めにかかる。

「寮の部屋は姫木さんと一緒だから。荷物ももう届いてるはずよ」

 空へ告げた後、洋子へと顔を向ける。

「姫木さん、連れて行ってあげて。案内とかもお願いね」

「分りました。任せてください」

 体のいい丸投げだったが、洋子は嬉しそうに請け合った。

「逢田さん、改めてよろしくね。分らないこととか困ったこととかあったらいつでも言ってくれていいから」

「ありがとう洋子ちゃん。こっちこそよろしくお願いします」

 挨拶を交わす二人を横目に、先坂が不服そうに異議を唱える。

「おかしくないですかそれ?どうして姫木さんと同室なんですか?」

「空いてたからよ。それに何かと都合がいいし」

「でもルームメイトは違う学年にするっていう決まりがあるのに。逢田さんばかり特別扱いするのは不公平です。そもそも転入できたのからして普通じゃないのに。いくら逢田さんの伯母さんが……」

 先坂は言い淀んだ。ちらりと空を見て、だが結局口を噤む。刈谷はもちろん先坂の屈託など気にしなかった。

「どういう事情であれもう決まったことです。それに私が決めたことでもないわ。文句があるなら事務方か理事会に言ってちょうだい。じゃあ昇降口が閉まらないうちに早く教室から出ること。いいわね」


     #


 私立凛英女子学院は、桂木県桂木市の郊外、というよりほとんど山の中にある。市街地から離れている代わりに敷地は広大で、初等科から大学院までの校舎や諸施設、それに初中高については生徒全員、大学と院は三割程度が入居できる規模の寮を備えながら、各建物の配置は実にゆったりとしていた。

 初等科用の校舎から寮へも子供の足で歩いて十分は掛かる。先坂が一人でさっさと帰ってしまった後、空と洋子が寮に着いたのは既に五時に近かった。

「もうすぐお風呂入れるけどどうする?いつもはあたし達は夕ご飯の後にしてるんだけど、逢田さん色々あって疲れてるよね。すぐに入っちゃおうか」

 寮の建物はまるで欧州の古都にいるのかと錯覚させるような趣きのある洋館、などでは全くなくて、ごく普通の鉄筋コンクリート造りだ。しかしその分、風呂、食堂、空調等生活していくうえで何不自由ない設備が整っている。

「洋子ちゃんに合わせるよ。でもまずはお部屋に行きたいかな」

「それは当り前。タオルも着替えも持ってないんだから」

 玄関に入ると、洋子はランドセルとは別に提げていた巾着袋から赤いサンダルを取り出した。

「中は土足禁止ね。生徒用の靴箱はないから、いちいち自分で持たないといけないの。逢田さんはとりあえずそのスリッパ使って」

 昇降口の近くに、来客用と書かれた緑色のスリッパがラックに掛けられていた。外靴を入れるためのビニール袋も用意されている。

「こっち」

 洋子の案内に従って廊下を進む。時折すれ違う生徒が着ているのは普通の私服だ。

「寮の中は制服じゃなくてもいいの?それか学校のジャージとか」

「別になんでもいいよ。パジャマ着て食堂行ったらさすがに注意されるけど。寮の外は制服ね。月一回の外出日だけは私服も可」

「普段の日は学校の外に出ちゃいけないの?」

「制服ならいいんだけど、みんなあんまり行かないかな。街まで降りるのめんどくさいし、門限も早いし。文房具とかちょっとしたものなら購買で買えるから」

 尋ねてはみたものの空もあえて外出したいわけではなかった。休みの日などはたいていぼうっとして過ごすし、転校することになった事情からしてもむやみに出歩かない方がいいだろう。

「ここよ。112号室。端だから分り易いでしょ」

 確かに、ここに来るまでには廊下を一回曲がっただけだった。それも別れ道というわけではないので、右か左か迷うこともない。これなら空でも迷わない。

 洋子は部屋のドアを開けた。鍵は掛けていないようだ。

 中はよく言えば小綺麗、率直に言って簡素だった。

 左手の壁に二段ベッドとクローゼット、右手の壁に机と本棚、それで全部である。ただし、ベッドの下にもローチェストが備え付けられている。テレビやミニコンポ、パソコンなどは置いていない。

 ドアのすぐ脇にダンボールが一つ置いてあるのは送られてきた空の荷物だろう。

「逢田さんは上でいい?」

「上って?」

「ベッド。あたしずっと下の段使ってたから。でももし逢田さんが下の方がよければ」

「うん、上でいいよ」

「寝相が悪くて朝起きたらベッドから落ちて床の上だった、なんて経験があったりしない?」

 洋子は冗談めかして尋ねた。

「平気だよ。たまに頭にこぶができたりするぐらいだから。冬はちょっと寒かったりもするけど、それで風邪引いたこともないし」

「……やっぱりあたしが上の段使うから」

「洋子ちゃんがそっちがいいなら」

「じゃあ早速お風呂、の前に」

 洋子は右手の壁を叩いた、と思ったが違った。壁ではなくドアだ。

「美緒、奈美、入るよ」

 ドアを開け、向こうに半分身を入れてから洋子は空を手招いた。洋子の後に続いて空も隣の部屋にお邪魔する。

 左右対称なだけで基本的な間取りは同一だった。中身が女の子二人というのも変わらない。しかし違うところもあった。

「なあに、洋子ちゃん?」

 答えたのは窓側の机の前に座って本を読んでいた女の子だ。空達に比べてずいぶんと年下だ。おかっぱ頭の下の大きな瞳がしげしげと空を見つめた。空が笑いかけるとにこりと笑い返してくれた。

「美緒」

 洋子は廊下側の机の女の子を呼んだ。勉強中だったらしく鉛筆を握ったまま微妙に警戒した面持ちで空を見る。やはりかなり年下だ。頭の両脇をきっちりとゴムで結んでいるのが少し窮屈そうな感じだった。

「今日からあたしと同じ部屋になった逢田空さん、六年生よ。こっちは柚木美緒、二年」

 両結びの子は細い目を瞠り、しかしすぐにぴょこんと立ち上がって会釈をした。

「で、真藤奈美、一年生」

 おかっぱの子は初めぽかんとしていたが、洋子が「挨拶しなさい」と促すととても嬉しそうな顔をした。

「洋子ちゃんといっしょなの?そっちのおへやで?」

「そうよ。だから」

「わあい」

 奈美は椅子から立ち上がって空の腰に抱きついた。

「ナミですっ。よろしくおねがいしますっ」

 空を見上げて、少し舌っ足らずだが元気いっぱいに言う。

「逢田空です。よろしくお願いします」

 空は腰を屈めて奈美の頭を撫でた。すると奈美はいっそう強く体をくっつけて、子供らしい甘い匂いが空の鼻をくすぐった。

「美緒ちゃんもよろしくお願いします」

 奈美を腰にまとわりつかせたまま美緒の元へ行く。

「よ、よろしくお願いします」

 掠れ気味の声で答えると美緒はすぐに教科書に視線を移した。

「算数のお勉強してるんだ。偉いね」

「別に……ただ宿題やってるだけなので」

「今度わたしにも教えてね」

「え」

 美緒は冗談なのか本気なのか測りかねたように空を見る。空は几帳面な文字で記された美緒のノートを熱心に覗き込む。

「逢田さん、馬鹿なこと言ってないで。美緒、奈美、今からお風呂行くからあんた達も支度しなさい」

「はーい」「うん」

 それぞれに返事をすると二人はベッドの下の引き出しに手を掛けた。

「逢田さんも。荷物はあの箱でいいんだよね。先に着替えちゃえば?」

「うん、そうだね」

 自分の部屋に戻った空は、廊下側のドアの脇に置いてあったダンボールを開いた。中身は衣類がほとんどだ。あとはヘアブラシや歯磨きセットといった生活用品がいくらか。

 とりあえずデニムパンツとTシャツ、それに下着を取り出す。残りの服や何かを整理するのはお風呂とご飯を済ませた後でゆっくりやればいいだろう。もともとたいした量でもない。たぶん今夜中に終わるはず。

 スカートを脱いでいったんベッドの上に置いた。二つ並んだクローゼットのうち廊下側の方を開けると、服は空だったがハンガーは沢山あった。スカートを挟んで吊るせるタイプのものもある。

 ベッドからスカートを取り上げてハンガーに吊るす。襟元のリボンはクローゼットの扉の裏側の出っ張りに引っ掛けた。ブラウスのボタンを外して、脱いだところでどうしようと考える。昨日から数えてもう二日着ている。もう一日ぐらいならいいが、いずれ洗濯は必要だ。替えはダンボールの中にあるから、これから洗ったとして明日の朝までに乾いていないといけないということはない。

「ねえ洋子ちゃん、ここって洗濯は」

 どうすればいいの、と空は尋ねようとした。

「あ、逢田、さん……?」

 だがなぜか洋子が驚愕している。

 空は首を捻った。このブラウスがどうかしたのだろうか。だが広げてみても特におかしなところは見つからない。

「なんではいてないのよっ!?」

 洋子はほとんど悲鳴を上げた。視線は空の下半身へ向いている。

「……なんで生えてないの?」

 空は自分の下を見た。

「生えてるよ。ちょっとだけど」

「ちーがーうっ、なんでスカート脱いだだけでもう裸なの、パンツはどうしたのよ!」

「わたしもよく分んないんだけど」

「分んないわけないでしょう!!」

 洋子は空に説明する暇を与えなかった。マシンガンみたいに三点バーストで質問を放つ。

「まさか朝からずっとはいてなかったの?一日中?ノーパンでいたの?」

「朝シャワー浴びるのに脱いでからはずっと」

「信じらんない……ってか意味分んない」

 洋子は呆然と呟いた。空を見る目がガラス玉のようになっている。だがそれも長い間のことではなかった。

「あれー、空ちゃんもうはだかになってる。おふろはここじゃないよー」

 無邪気な奈美の指摘が届き、洋子は即座に指示を下した。

「逢田さん、話は後、すぐにパンツはいて!」

「どうせお風呂行くんだし、このままでもいいかなって思ったんだけど」

「いいわけないじゃない!そんな格好で廊下うろうろしてたら完璧に変態よ。いくら女子寮っていっても、限度っていうか常識ってものがあるんだから」

「ジーパンははいてくつもりだったよ」

 答えながらも空はさっきダンボールから出したばかりのパンツを身に着けた。薄いピンクの地に濃いピンクの水玉だ。

 こちらの部屋に入ってきた奈美はベッドに腰を下ろして足をぶらぶらさせ始める。膝の上にピンク髪の女の子がプリントされたビニールバッグを載せていた。中身はタオルや着替えだろう。

 似たようなバッグ(こちらは“WooSA―CHAN”という文字の付いたうさぎの絵)を手にした美緒は、ドアの辺りで様子を窺うように立っている。

「ごめん奈美美緒、やっぱりお風呂はご飯の後にするから」

 年少の二人に向けて洋子は言った。

「ちょっと逢田さんと話さなくちゃいけないの」

「うん」

 美緒は聞き分けよく頷いた。

「奈美、おいで」

 だが奈美は空の傍に来て手を握ると、神社の鈴を鳴らすみたいに揺すった。

「ナミも空ちゃんとお話する。いいでしょう?」

「うん、いいよ」「駄目、後で」

 空と洋子は同時に答える。

「奈美、洋子ちゃんの言うこと聞いて」

 美緒は遠慮がちにこちらに入ってくると奈美の手を引いた。

「早く」

「でも空ちゃんはいいって言ったのに」

「そうだね。言ったよ」

 空は奈美と視線を合わせ、子供らしいふっくらした頬を両掌で包み込む。

「だから洋子ちゃんとのお話が終わったら奈美ちゃんのところに行ってもいい?」

「うんっ、いいよ!」

「ありがとう奈美ちゃん」

 年少組が隣の部屋に戻ると、洋子は感心したように言った。

「逢田さんって子供の相手するの上手だね。奈美が駄々こねたりするとあたしだとつい怒鳴ったりしちゃうんだけど」

 勉強机の椅子を引っ張っり出してきて座る。空はベッドに腰を掛けた。

「で、最初の話に戻るけど」

「最初の話……インフレーション理論とか?」

「誰が物価の話なんかしてるの。パンツのことだってば」

「今はいてるのは五百円ぐらいだったと思う」

「だから値段とかじゃなくて!どうして今日の昼間、逢田さんがパンツはいてなかったのかって話!まさかいっつもそうなの?いつもじゃないにしても、その日の気分ではいたりはかなかったりするとか」

「今日はたまたまだよ」

 空だって好きでノーパンでいたわけではない。

「だってなかったから」

「何が」

「パンツが」

 まるで難しい哲学の問題に頭を悩ませているみたいに洋子は眉間に皺を寄せた。

「ごめん、ちょっとあなたが何を言っているのか分らない……」

 だが別に難しい話ではなかった。

「朝ね、シャワーを浴びた時に」

「替えがなかったってこと?それで古いのをもう一回はくのが嫌だったんだ。気持ちは分るけど、でも汚れ物よりノーパンの方がましっていう発想は人として女の子としてかなりどうかと思うわ」

 洋子は呆れた顔をした。だが事実はそうではない。

「違うの。替えもなかったけど、それまではいてた方もなかったの」

「……どうして。洗濯機に入れちゃったとか?」

「お風呂から出たらパンツだけなくなってたの。服とか他の下着はあったのに」

「何それ」

 洋子の眉間の皺が深みを増した。トランプぐらい挟めそうだ。

「それってどこの話?外のホテル?」

「えっとね、ここのゲストハウスっていうところ」

「あそこって生徒でも泊まれたんだ。知らなかった」

 基本的には学外からの客の便に供するための宿泊施設である。複数存在しているが、空が利用したのは初等科の校舎に一番近くて収容人員の少ない建物だった。

「当然部屋には鍵掛けてあったんだよね」

「掛けてなかったはずだけど」

「そうだよね……って掛けてなかったの!?どうして?」

「だってもし用のある人が部屋に入れなかったら困るよね」

「よからぬ用だったりしたらどうするのよ。逢田さんさ、ああ、もうめんどくさいから空でいい?」

「うん、空がいい」

「じゃあ空、こんなことあたしも言いたくないけど、それって盗まれたってことじゃないの?」

「でも誰がそんなことするんだろう」

「それはやっぱりワトソンみたいな変態が……」

 洋子は急に寒気を覚えたように身を震わせた。

「あたし今すっごく怖いことに気付いちゃった」

「どんなこと?」

「空、ワトソンの小屋に連れ込まれてたじゃない」

「うん。連れて行ってもらった」

「あの時もノーパンだったってことよね」

「そうだよ」

 空はあっさりと答えた。洋子は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。

「あんた自分がどれだけ危ない状況だったか本当に分ってないの?もう六年生なんだよ?奈美みたいな小っちゃい子供じゃないんだからさ。ほんと、もしあたしが行かなかったらどんなことになってたやら」

「どんなことになってたの?」

「そ、それはだから、ああいう感じに」

 洋子は急にしどろもどろになる。

「博士のうちに行った時も洋子ちゃんはっきり教えてくれなかった」

「あたしは、空がワトソンに何かされるんじゃないかって心配で」

「何かって何?」

「何かっていうのは、つまり、女の子の一番大切なものを、無理やりに」

「えっちなこと?」

「空」

 じろりと睨む。

「分っててあたしのことからかってたわけ?いい度胸してるじゃない。言っとくけど、あたしは先坂さんみたいなつんつんしてるだけのへたれじゃないからね。土建屋の娘舐めてると痛い目見るよ」

 洋子は両手で空の首を絞めてくる。全然本気の力ではなかったので苦しくはなかったが、一応申し開きはしておくことにする。

「違うよ、本当に今気付いたの。洋子ちゃんの心配って、もしかしたらそういうことなのかなって」

 洋子はいったん手を緩めたが、すぐに激しく揺さぶりを加えてくる。

「嘘よ。じゃあ空は全然そんな心配しなかったってわけ?」

「そうだよ、だって、わっ!」

「あだっ」

 洋子に揺さぶられた反動で空のおでこが洋子のおでこと思い切り鉢合わせた。ボーリングの球を落としたみたいな重い音がした。

「洋子ちゃん、大丈夫?」

 額をさすりながら、しゃがみ込んでしまった洋子に尋ねる。

「……うう、まじでくらっと来た」

 青息吐息といった風情で立ち上がった洋子は、ベッドの空の隣にぽすんと腰を落とした。マットレスがわずかに沈む。

「理由を聞かせてよ」

 身を傾けて空に体重を乗せてくる。

「どうして空は平気でいられたの?まさかワトソンにならされてもいいと思ったからなんてわけないし」

「それは分らないけど」

「いや分るでしょ、分りなさいよ。だってワトソンだよ?ロリコンのオタクの変態だよ?あんなのに裸見られたり触られたりしちゃうなんて、想像するだけできもいじゃない」

「でもわたしそういう想像したことないし」

「それじゃまるであたしはあるみたいじゃない」

「ないの?」

「あるわけないでしょ」

 洋子は鳥肌立ったように自分の腕をさすった。

「大丈夫だよ、洋子ちゃん」

 洋子の肩を抱き寄せる。

「博士はそんなことしないよ。誰かを傷つけたりできる人じゃない。だからホームズちゃんが傍にいるの」

「全然理屈になってないし……。とにかく約束して空。これからは絶対一人でワトソンの小屋に行ったりしないって。いい?」

「でもどうしても行かないといけない用事もあるかもしれないし」

「それでも駄目」

「じゃあしょうがないね」

「やっと分ってくれたのね、空」

「約束はできないよ、洋子ちゃん」

 空はきっぱりと首を振った。

「わたしはこれからも博士の所に一人で行くよ。必要があったり、誘ってもらったり、ホームズちゃんに会いたくなったりした時には」

「な……」

 洋子は開いた口が塞がらくなったみたいだった。もし空が歯科医なら奥歯の一本一本まで健康状態をチェックできたろう。

「なんでそうなるのよ!あんたあたしの話聞いてた!?ワトソンは危ないって何遍言ったら分るの!」

「前に実際にそういうことがあったの?」

「あってからじゃ遅いの!っていうか、もしそんな問題起こしたら学院にいられるわけないじゃない!」

「それってまだ何も悪いことしてないってことだよね」

「これからするの。機会さえあればいつやってもおかしくないんだから」

 洋子は強引に決め付けた。だが空に納得する様子がないと見て取ると急に声の調子が落ちる。

「空はあたしの言うことが信じられない?」

「わたしのためを思って言ってくれてるのは信じるけど、洋子ちゃんがいつでも絶対に正しいとは信じない。それとも洋子ちゃんは神様みたいな力を持ってて、悪いことする人を百発百中で当てられるの?」

「そうじゃないけど」

「わたしは博士はいい人だと思う。でも洋子ちゃんが嫌なら必要以上に仲良くはしないよ。なるべく一人では会わないようにする。でも絶対って約束はできない。だって先のことは分らないもの」

「分った。もういい」

 洋子は空の腕を振り払うようにして立ち上がった。そっぽを向いて言う。

「もうすぐ夕食だけど、食堂ぐらい一人で行けるよね」

「うん。たぶん」

 同じ建物の中である。もし迷ったとしてもどうにでもなるだろう。だが洋子は空の甘い展望を打ち砕く。

「ここの食堂って、人の流れが途切れるとすぐ閉めちゃうから、うっかりすると食べそこねるの。たいていの子はお菓子とかカップ麺とか部屋に置いてるけど、それも切らしてたり、分けてくれる子も周りにいなかったりすると、朝までお腹空かせたままになる」

 もちろん空に非常食の用意などない。洋子はさらに不安を煽った。

「朝はもっと開いてる時間短いからね。ぐずぐずしてたら即アウト」

「ねえ洋子ちゃん、わたしも一緒に行っていい?」

 空は思わず尋ねていた。洋子はすぐには答えない。もしやだって言われたら美緒ちゃんと奈美ちゃんにお願いしよう。調子のいいことを考える。

「勝手にすれば。あたしの知らないところで空がどうしようと関係ないし」

 背中を向ける。

「だからもし困ったこととかあったらちゃんとあたしに教えてよ」


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