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 水音が聞こえた。

 なんだろう、魚かな?

 逢田空は池の面に視線を向けた。元々の色なのか、それとも周りの樹々を映しているせいか緑色をした水面に、同心円状の波紋が広がっていた。作った主の姿はしかとは分らないが、水中で流線型の影が動いている。もっとよく見てみようと空はさらに池へ顔を寄せた。

「くしゅん」

 湿気にくすぐられたせいか、くしゃみが出る。少しばかりお行儀悪く、空はずずっと鼻を啜り上げた。幸いなことに、かどうかは微妙だが、不品行を咎める人は周りにいない。

 というか誰もいない。

 すごいな。学校の中なのに。

 まるで人里離れた森の中にいるみたいだった。前の学校もわりと静かな所だったが、街の喧騒と無縁ということはなかったし、何よりずっと狭かった。

 それでも都心近郊としては十分以上の敷地があっただろう。よその学校のことは知らないが、少なくとも空はクラスメイトから広さに関する不満を聞いた覚えはなかった。

 この学院が規格外なのだ。敷地を歩いて一周すればそれだけで日が暮れていしまいそうな気がするほどだ。だがそれで実際に何か困ることがあるのかといえば。

「どうしよう、困ったな」

 空はまさに現在進行形で困っていた。しかしその内容に反して、口調は至ってのんびりしている。

「っしょ」

 真新しい制服が汚れることも気にせず、池の畔に腰を落とす。赤いタータンチェックのスカートは可愛いけれど丈が短い(といっても膝小僧が覗くぐらいだが)。朝からなのでだいぶ慣れてはきたものの、こうして姿勢を変えたり強い風に吹かれたりするとやはり少し心許ない。

 そろそろ教室に戻らないと。空は思った。だがいかんせん道が分らない。

 まさか校内で迷子になるとは想像もしていなかった。とはいえ本物の森の中で遭難したわけでもないのだ。いざとなったら適当に歩いて行けばきっとなんとかなるだろう。

「洋子ちゃん、心配してるかな」

 無事に帰り着けるかどうかよりもそちらの方が気掛かりだった。戻りも一緒にという申し出を「大丈夫だから」と断ったのは空である。

「そう?ごめんね、転校してきたばっかりなのにこんな仕事押し付けちゃって」

 学級委員長の姫木洋子は、体は小柄だがはきはきと喋る頼れる感じの人だった。赤いゴムで上に括った髪の毛が、動作に合わせてぴょこぴょこと振れる。

「わたしだって今日からクラスの一員なんだから。決められた仕事をするのは当然だよ」

「決められたっていうか、先坂さんが勝手に決めたんだけどね。本当の当番はあの人だし」

 二人でゴミ箱を抱え上げ、中身を焼却炉へと落とし込む。金属製のゴミ箱はそこそこ重く、焼却口は位置が高い。空なら一人でもできそうだが、洋子だけなら大変だろう。低学年の子だったら三人掛かりかもしれない。

 校舎からここまでずいぶんと歩いて来た。たぶん十分は掛かっただろう。空だけでは辿り着けなかったかもしれないが、ここまでの道順は覚えている。帰りはその通りに引き返せばいいだけだ。難しいことはない。

「もうわたし一人で平気だから。つき合ってくれてありがとう」

「じゃあ悪いけどあたし先に行くね。また後で」

「うん」

 洋子は小走りになって戻っていった。もともと別の用事があったのに、はるばるこんな所まで付き合ってくれたのだ。

「よいしょっと」

 空はゴミ箱を持つとおもむろに歩き出した。

 ほどなく、行きには気付かなかった別れ道にぶつかる。校舎へ戻るにはこのまま真っ直ぐだ。とりあえず曲がってみる。少しして再び別れ道。うーん、こっちかな。まただ。さっきは右にしたから今度は左にしよう……といったことをたぶん六回繰り返した。既に独力での帰還は甚だ困難な状況となっている。

「あ、猫だ」

 それが決め手となった。

 道端の日陰に、真っ白い猫が丸くなって寝そべっていた。空が近付くと、ぴくりと耳を立てて顔を上げた。目が合う。ニャウ、と鳴く。学院に棲みついているのか、首輪こそ着けていなかったものの、人には馴れているようだ。

 それでも一応の警戒心は持っているらしい。

 あともう少しで撫でられそうというところで、白猫は立ち上がった。それでも急いで逃げ出したりはしない。

 まるで貴族さながらに優雅に歩き始める。見知らない人間に気安く触られるのはご免だが、慌てるほどのことでもないといった態だ。

 たぶん、舐められている。だが空はそんなことでは怒らない。

「どこに行くの?」

 後に続くと、白猫は一瞬足を止めて振り返った。ウニャア。どこだっていいじゃない。そう言ったのかは分らない。道を外れて敷地の奥へと進み入る。

 草の生えた土の上を歩くのは気持ちよかった。やがて、人間風情について来られることにうんざりしたのか、白猫は突然走り出した。あっという間に引き離される。頑張って追い掛けようかと一瞬だけ思ったが、大きなゴミ箱を小脇に抱えて全力疾走するのはきつそうだ。

 同時にゴミ箱で思い出す。空は気ままな散歩の途中というわけではないのだ。さすがに戻らないとまずいだろう。けれど。

「ここ、どこだろ?」

 周囲に顔を向けてみても、初等科の校舎はおろか、どんな建物の影さえ見当たらない。

 代わりに池があった。大きさは25メートルプールの半分ぐらい。周りには厚く樹々が繁り、だがちょうど空のいる場所から、人ひとりが通れるぐらいの切れ目が覗いている。空はごく自然に足を向けた。



 最初に水が跳ねる音を耳にしてから池はもうずっと静かなままだ。少し寂しい。手を伸ばして指先を浸してみる。冷たくて気持ちいい。そしてとても綺麗に澄んでいる。水浴びをしたらきっと素敵だろう。

 空は襟元のリボンの結び目を解いて、ブラウスのボタンに手を掛けた。上から三つめまで外したところで指が止まる。吹き抜ける風が意外と涼しい。体を拭くタオルはない。水から上がった後、自然に乾くまで待っていたら寒くて風邪を引いてしまうかもしれない。ただでさえここのところよく眠れなかったり気分がもやもやしたりする日が続いているのだ。やっぱりやめておこう。再びボタンを留め直してリボンを結ぶ。

 気付けば日が翳ってきている。本格的に暗くなるまでにはまだ暫くあるだろう。しかしこのまま座っていたところで埒は明かない。

「困ったな」

 さっきに比べれば切実そうに呟く。だが別に誰かに聞かせて助けを求めようとしたわけではなかった。だいたい聞いてもらおうにも周りには誰も人が――。

 さくり。草を踏む音がした。空の座る後ろの方から。

「やあ、お困りのようだね」

 びっくりした。

 かといえば実は意外とそうでもなかった。

 空はゆっくりと振り向いた。

 声から想像された通りの端麗な容姿の持ち主だった。服装は少し変わっている。千鳥格子模様の茶色いジャケットにチョッキ、白いシャツに黒のリボンタイを締めている。黒いズボンは膝丈で、チェック柄の紺色のハイソックスに焦茶色の革靴。頭にはハンチングを被って、口にはパイプを咥えている。だが火は点いていないらしく煙は上がっていない。

「こんにちは、ええと」

 空はある一つの名前を思い浮かべた。世界中の人が知っている有名な物語の主人公。果たして。

「ぼくはホームズだ。探偵をしている」

 やっぱり。空は心に頷いた。オリジナルとは違う部分もあるみたいだが、雰囲気はよく出ている。

 ホームズは空が納得したのを見て取ったらしい。我が意を得たりというように砂色の瞳を細めると、言った。

「もしよかったらホームズちゃんと呼んでくれたまえ」

 りん、と鈴が鳴るような響き。

「あの、どうして」

 どうしよう。訊いてもいいのかな。自分と同じくらいか、欧州系は大人びて見えるから一つ二つ年下かと思える少女を前に、空はためらう。

 すごく可愛いということを別にしても、これまでに出会ったことのないタイプの女の子だった。空も変わっていると言われることがあるけれど、ホームズに比べれば普通だと思う。

 しかいホームズは空の疑問を違ったふうに解釈したらしい。

「どうしてきみが困っていると分ったのか、かい?なに、ごく単純なことさ。ワトソン、きみから答えてやりたまえ」

 ホームズが促した相手は、白衣を着た青年である。

「僕がかい?勘弁してくれよ、ホームズ。どうして僕が答えを知っているんだい」

 二十代半ばぐらいだろうか。背が高く、体付きもがっしりしている。芝居がかった口調のわりには、表情がいまひとつ乏しい。

「なぜなら実際にきみは知っているからさ。推理に必要な情報は全て揃っている。あとは組み立てるだけだ。きみ、空くんだったね」

「はい」

 返事をした後で空は疑問に思った。わたし名前言ったっけ?

「空くんはさっき『困ったな』と呟いた。それも独り言でだ。人は普通独り言で嘘はつかないものだよ。従って空くんは真実困っているということになる。どうだいワトソン、これがぼくが空くんが困っていると結論した理由だ」

 モノリスみたいに平板な調子でワトソンは笑い出した。

「なんだ、そんな簡単なことだったのか」

「分ってみればなんだって簡単に思えるものさ」

 さくり。草を踏む音が近付く。数はさっきと同じ、一人の分だけだ。

「とにかくそんなところに座り込んでいても仕方がない。どこか怪我をしているわけではないね?よろしい。ではついてくるといい。こちらのワトソン博士がきみの困り事を解決するのに手を貸してくれるよ」

「あ、はい」

 空はスカートの裾を押えながら立ち上がった。軽くお尻を払う。枯葉が一枚指に引っ掛かって地面に落ちる。

「ワトソン、彼女をぼく達の住まいに案内してやりたまえ」

「承知した」

 ワトソンの歩調は緩やかだが歩幅が大きい。空は少し急ぎ足になって白衣の背中を追い掛ける。

 どうせ案内してくれるなら初等科の校舎の方がいいのにな。空は思った。だがワトソンはどんどん池を廻り込んでいき、ちょうど半周ほどしたところで、空がここまで来るのに通ったのと似たような樹々の切れ目を進んだ。たぶん空の行きたい方はこっちではない気がする。迷っている間に方向感覚はすっかり怪しくなっていたものの、さすがに真反対ということはないだろう。

 だが他に当てがあるわけでもない。色々と風変わりな人達ではあるが、悪意は感じられない。きちんと事情を話せば最終的には空にいいようにしてくれると思う。

「着いたよ、ここだ」

 ホームズが前を示した。その先には小屋と小さな家との中間ぐらいの建物があった。壁は黒ずんだ木の板で、屋根はトタンで葺かれている。特に奇妙な造りではないと思うが、学校の敷地内にあることを考えればちょっと変わっているかもしれない。

「入りたまえ。ワトソン博士がきみの必要としているものを提供できる。彼はちょっとしたコレクターでね。好きなものを選ぶといい」

「必要なものってなんですか?」

「もちろん縞パンだ」

 その答えに空は少なからず困惑した。

「遠慮することはないよ。ワトソンは文字通り有り余るほど持っている。実質的には未使用だから衛生面にも問題はない」

 空は問うようにワトソンを見上げた。ワトソンはややためらう素振りを示した後に頷いた。

「ホームズの言ったことは正しい。狭苦しい所で申し訳ないが、どうぞ」

 留め金の錠を外して引き戸を開ける。

「それじゃあ、お邪魔します」

 ワトソンの勧めに応じて敷居を越える。薄暗くて中の様子はよく見えない。だが食べ物やら洗濯物やら家具やら男の人の体臭やらが色々と混じり合った、生活の匂いがする。

 どうやらワトソンはここで暮らしているらしい。きっとホームズも一緒だろう。

「和室だから靴は脱いで。上がったら適当に座ってくつろいでくれ」

 ワトソンは言った。だが空にそんな暇は生まれなかった。

「くつろいでくれ、じゃなーいっ!」

「あいたっ!」

 聞き覚えのある元気な声が後ろから飛んできて、同時にワトソンが悲鳴を上げた。

「きゃっ」

 空は後ろからスカートを掴まれ、ひとたまりもなく尻餅をついた。直後、体勢を崩したワトソンが空の背中に伸し掛かる。重い。

「なにしてんだこら、離れろ変態!」

「待って、つま先で蹴らないでくれ、本気で痛いっ」

 闖入者に追い立てられたワトソンは情けない悲鳴を上げながら空をまたぎ越して部屋の中に転げ込んだ。その拍子にノートぐらいの大きさの平たい物体が床に落ち、軽い音を立てた。

「逢田さん平気!?まだなんにも変なことされてない?」

 赤いゴムの髪留めが視界に入り、ついで勝ち気そうな女の子が空の顔を覗き込む。

「気をしっかり持って。もし言いにくくても泣き寝入りとか駄目だからね。まずはきっちりと倍返しして、それから社会的に抹殺するの」

 口調がかなり本気っぽい。

「ありがとう洋子ちゃん、わたしは平気。それより」

 まずは洋子に返事をしてから、空は床に手を伸ばした。ワトソンが落としていったものだ。空の兄も似たような品を持っているから知っている。タブレット型のPCだ。拾い上げて表を向ける。

「大丈夫?ホームズちゃん」

 空は画面へ向かって問い掛けた。

「問題ない。こう見えてぼくはなかなか頑丈だからね」

 平面の中に描き出された少女は、落ち着いた様子で答えた。落ちた衝撃で帽子が脱げてしまったのか、結い上げられた亜麻色の髪があらわになっている。

「なにしろタフネスは探偵に必須の要件だ。優しさがぼくに備わっているかは定かでないが、もともと普通の意味では生きてない。いずれ資格は不要だろう」

「そうなんだ。ホームズちゃんってすごいんだね」

 なんのことだかよく分らなかったが空は適当に感心する。洋子は鼻の上に皺を寄せた。

「ばっかみたい。逢田さん、変質者のやることなんかにいちいちつき合わないでいいんだからね。いい年した大人がマンガの女の子に話し掛けるとか気持ち悪過ぎるわよ」

 存在を真っ向から否定されてもホームズは冷静だった。

「きみがぼくのことを認められないのは別に構わないがね、きみ以外の人の見解まで排除しようとするのは慎むべきだ。第一にとても傲慢だし、第二にただの小学生であるきみが他者の認識に干渉するのは実際問題として不可能だ」

「ふん、なんだか難しそうなこと言ったってあたしはごまかされないんだから。行こう逢田さん。もうとっくに帰りの会の時間になってる」

「あ、うん」

 洋子に手を取られて空はようやく立ち上がる。

「そうだ、ゴミ箱」

 すっかり忘れていた。どこにやったっけ。

「あたしが持ってきた。池の傍に置いてあったから」

 さすがの手回しのよさである。空は洋子に抱きついた。

「ありがとう洋子ちゃん。迷惑かけてごめんね」

「あ……あたしはただ、学級委員として当然のことをしただけで、別に逢田さんが可愛いからとかじゃなくて」

「ちょっと待った。ホームズを返してくれ」

 洋子と寄り添って外へ出ようとした空をワトソンが慌てたように引き止めた。

「そうでした。すいません」

 片手にタブレットを持ったままだった。

「そんなのその辺に捨てちゃえばいいのよ」

 洋子が憎まれ口を叩く。

「乱暴に扱うのはやめてくれたまえよ。ぼくは平気でも機械の方が壊れてしまう」

「ホームズちゃんは平気なの?」

「ここには仮に宿っているだけだからね。駄目になったら別の機体に移ればいいだけだ。もっとも余り低スペックな形代だと活動に支障をきたすかもしれないが」

 そういうものなのか。コンピュータには詳しくないのでいまひとつぴんと来なかった。だがホームズが元気でいられるなら空としてはそれでいい。

「ほら逢田さん」

 洋子が腕を引いて急かす。

「じゃあワトソン博士、これ」

 傍に来たワトソンにタブレットを返すと、ワトソンは反対側の手を差し出した。

「これは約束の品だ。使ってくれ」

 渡されたのはきちんと三つ折にされた布地だった。ミントグリーンとライトグレーのストライプ。さらさらとした手触りが気持ちいい。広げてみる。パンツだ。もちろん女の子ものの。

「な、な……」

 隣で洋子がわなわなと震え出す。

「サイズはそれで合っていると思う。気に入ってもらえるといいんだが」

「可愛いですね。わたしこういうの好きです。本当に貰っちゃっていいんですか?」

「絶っ対、駄目っ」

 火でも噴きそうな面持ちで洋子が横から口を挟んだ。

「逢田さん、渡して」

「これ?」

 空が縞パンを差し出すと、洋子はまるで汚い物でも触るみたいに親指と人差指の爪先で摘み上げた。だがそれも一瞬のことで、すぐさま部屋の中に放り入れる。

「あ」

 空は驚いたが、それは前振りに過ぎなかった。

 洋子は腰を屈めてサンダルを拾った。焦茶色の男性向けの品だ。ワトソンの持ち物だろう。

「この……」

 掴んだサンダルを頭上高くに振り被る。

「ど変態……」

 膝を上げ、腰を捻りながら腕を引いた。危険を察知したらしいワトソンが急いで部屋の奥へと後退していく。だが遅かった。

「がーーっ!!」

 洋子の体が思い切り前にのめり、手先から弾丸みたいにサンダルが飛び出して、一直線にワトソンの顔面へとぶち当たった。

 素晴らしくいい音がした。すごく痛そう、と同情するよりもいっそ清々しささえ覚えてしまう。

「帰るわよ」

 後ろの襟首を掴まれる。体は空の方が大きいから、頑張れば踏み止まれただろうが、洋子の迫力が許さなかった。

 ワトソンのことはいくらか気になったものの、しょせんは女子小学生の力で投げつけられたサンダルである。怪我というほどのこともないだろう。

 ワトソンの住処を離れ、池を廻り込み、木立を抜けて、やがて小道のところまで戻る。

 それまで引きずるようにして運んでいたゴミ箱を洋子は叩きつけんばかりの勢いで地面に置いた。ずっと掴みっぱなしだった空の襟もようやく離す。ゴミ箱と空を両方引っ張って歩くのは洋子には結構な重労働だったはずだ。

「逢田さん、ちょっとそこに座って」

 腕組みをした洋子が顎を振る。

「はい」

 空は地べたの上に正座した。

「違うから、そこのベンチに!」

 洋子は慌てて空を立たせ、スカートに付いた砂埃を払うと、改めて小道の脇のベンチへ座らせた。

 洋子は空の前に立って再び腕組みをする。しかし今度はさっきほどの迫力はなかった。切り出し方に迷っているといった風情だ。

「……逢田さん、あなた自分が何したか分ってるの?」

 やがて一つ息をついてから洋子は言った。責める色は薄いが、それで空の落ち度が帳消しになるわけではない。非を認めて謝罪する。

「ごめんね。もうお掃除の時間終わっちゃってるよね。それなのにいつまでも教室にゴミ箱がなかったらみんな困るよね」

 洋子は苛立たしげに首を振った。

「ゴミ箱なんかどうだっていいんだってば。もしかしたら先坂さんが後で何か言ってくるかもしれないけど、無視していいから。それより」

「うん」

「どうしてあの変態と一緒にいたの?」

「ワトソン博士のこと?」

「はかせって」

 鼻で笑う。

「あれがそんな大層な身分のわけないじゃない。もしかしたら副業で用務員の仕事してる大学の先生とかもどこかにはいるかもしれないけど、あれは絶対に違う。ちっちゃい子供が『ぼくなんとかマンだー』って遊んでるみたいなものなんだから」

「じゃあどうして白衣着てるんだろ」

「だからごっこなの。博士だから白衣って発想が幼稚過ぎでしょ。それで話を戻すけど、いったいなんだってワトソンの小屋なんかにいたの」

「道に迷って、池のところに座ってたら声を掛けてくれたの。困り事を解決してくれるからって」

「ワトソンが言ったんだ。それでのこのこついていったと」

「言ったのはホームズちゃんの方だけど」

「同じことよ」

 洋子は撥ねつけるように言った。

「とにかくあれにはできるだけ近寄らないようにすること。一人であれの家にまで行くなんて自殺行為だから。その年で人生台無しにされたくなんかないでしょ」

「えっと、具体的にはどうなるの?」

「具体的って……」

 洋子は口ごもった。窺うように空を見る。

「逢田さん、もしかしてわざとやってるんじゃ……なさそうね」

 空が首を傾げると、洋子は肩を落とした。

「いいわ。あんまりよくないけど、とりあえず教室に戻ろう。続きはまた後で」

「でも洋子ちゃん疲れてるみたい。少し休んでいった方がよくない?」

「あはは……体はいたって健康だから」

 心配してくれてありがと、と洋子は空の肩を叩いた。


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