ありがとう。
物心ついた頃から道場の跡取りとして剣だけを振って来た。
毎朝日が昇るよりも早く起こされ、掃除をして、剣を振る。走らされ、傷つけられ、痛めつけられ、その対価として得た強さでいくつもの大会を制覇してきた。
だがそれでも彼は自身のことを強いとは思ったことはない。
強さとは何なのかを求めて続けた。
そして、彼は高校生のときに本当の強さを見た。
それは剣術家でもなければ、武道家ですら
ない少女の中にあった。
家族間で付き合いのあった写真家の女性が入院したと聞いて、見舞いに行くことになったのは高校生二年の冬。マコトも何度か会ったことのある人で、いつも忙しそうな人という印象だった。
彼女には中学生の娘がいたが、親が写真家ということもあって一人でいることが多く、マコトの家で預かることも多かった。
負けず嫌いだが歳のわりにしっかりしていて、マコトが身習わされることも少なくない。何よりも他の誰よりも母に負けたくないと反発する姿をみたこともある。
だからこそ、病室にいた彼女を見たときは驚いた。唇を固く結び、辛そうに笑って頭を下げるその姿に以前見た勝気さは感じられなかったからだ。
「お久しぶりです、立花さん。お母さん、立花さんだよ」
そして彼女が話かけた相手もまた以前の活発な姿を感じさせないものだった。
病的なまでに白いシーツの上に横たわる細い体。
身体からそばの機械へと伸びるいくつものチューブやコードがその写真家から人間らしい雰囲気を奪う。
聞けば彼女は毎日様子を見にきているらしく、最近では学校と病院の往復だけで一日が終わるらしい。
言いながら見ているほうが辛くなるような笑みを浮かべる少女に、いたたまれなくなってつい視線を外した。
それから何度と病室に訪れたマコトは偶然にも最期を見届けた。
彼女の母親の、そして彼女のこの生活の。
それは、あまりにもあっけない終わりだった。
医者が慌てて何らかの処置を行うがマコトの目は死にゆく母親ではなく、それを見つめる少女を追いかけた。
もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
だが、その瞳に悲しみこそ浮かべたものの彼女は泣かなかった。
早くなり続ける心電図の音を聞きながら、短くなり続ける母親の命を彼女は見つめ続けた。
そして、その時は来た。
医者が小さな声で事実を告げて、看護婦たちが目線を伏せる。
誰もがたった今消えた命の灯火の前で目線をそらす。
その中でただ一人、彼女は毅然と胸を張って母親に頭を下げた。
「ありがとうございました」
言いたいことはたくさんあっただろう。
伝えたいことも、聞きたいこともたくさんあっただろう。
だが、彼女はたくさんの意味を込めて頭を下げた。
たくさんの心をこめて礼を口にした。
それが、立花 マコトの見た本当の強さの姿だった。
人間は死の直後は五感も何もかもを失ってしまいますが、聴力だけは一番最後まで残るそうです。それこそ、亡くなった直後も。
誰かに伝えたい言葉があるならば、言ってあげましょう。
後悔を残さないように。