【6】問題山積!
どんな文化だって、そのギャップには慣れるのに時間がかかる。そして心や体がそれを受け入れるには、もっとたっぷりした時間が必要だ。
でも、そんな流暢なことは言ってられない。時間はゆっくり、だけど容赦無く流れてゆく。
何故、こんな事が起こってしまったのか、解き明かす鍵を探さなければ…。
健司は焦っていた。
この偶然が必然であるなら。この必然は、何に由来するものなのだろうか。
健司は図書館で借りてきた歴史の専門書を毎日読みあさり、パソコンで関連サイトにアクセスしては、頭を抱えている。
必然だの偶然だのぶつぶついいながら、パソコンのキーを叩いている健司の後ろ姿をみていると、真司は胸がギュッとなる。
―やりきれねえな。
と、思う。
それにしても、短い間にパソコンをある程度マスターした彼は頭脳明晰だ。いや、努力の人だ。
少しでも歴史の中に名を残すだけのことはある。それだって充分偶然ではないのだ。
それに比べオバカな兄貴は、今頃その頭の悪さが露呈して窮地に追い込まれているんじゃないかと思うと、真司はあのダメ兄貴が愛しい。
「ねえ、そんなに一生懸命にならなくたっていいじゃん。元に戻ったらあんた死んじゃうんだぜ。それでもいいの。」
「そうだな。考えなくもない。多分、戻れないと思う。また同じ事が起きる可能性の方がずっと低いから。」
もしこれが、偶然の所産だとしたら。
「じゃ、そんなことしなくてもいんじゃねえ。あんたがこっちの建司をうまく始めたように、兄貴もあっちでうまくやってると思うよ。」
建司がマウスを動かす手を止めた。
「たとえそうだとしても…。」
「何? 俺も家族もあんたを充分受け入れて、やっていけると思うよ。」
「みんなきっと、永遠に思うんだよ。自分の息子は、切腹して死んだんだのかもしれない。助けてやれなかったって。いつまでも思うんだよ。そんなの耐えられない。」
底のない湖に投げられた石は、微かな波形を残しながら、永遠に落ちてゆく。そう、波立たない湖面の奥底を永遠に、波形を描いて…。
「同じことじゃん。あんたがあっちへ戻っても、俺は思うよ。助けてやれなかったって。あんたのことを。」
建司は今、確実にこの時代に息づいているのだから。
「違うだろ!」
健司が、いきなり真司に掴みかかった。
「な、何すんだよ。」
「俺は、お前の兄貴がどんな奴か、何一つ知らない。お前の兄貴がどうなろうと、俺の知ったこっちゃない。だけど、お前、自分の兄貴が死ぬんだぞ。死ぬってのがどういうことだか分かるか。昨日まで一緒に笑い合っていた奴が、次の日にはただの肉の塊になってんだぞ!おい!」
助けられないかも知れない。でもやらなければならない。自己満足で終わろうとも、何もしないよりはましだ。
真司は、健司のものすごい剣幕にびっくりしていた。そんなことを言われても、人の死に直面した経験のない真司には、実感が湧かない。家族も友人も健在で、田舎のジジババだって殺しても死にそうにない。
「クッ、苦しい…。」
襟元を掴まれて、真司は息が出来ないでいた。
「すまない。」
真司を突き放すと、そのまま健司はジャンパーを鷲掴みにして、家を飛び出た。
「バッカじゃね。説教かよ。」
真司は、自分の気持ちの落ち着く場所を探した。
健司はこっちの健司が決めていた、コンビニのバイトを始めていた。
出来ないなんて言ってられない。そうなんだ。誰もが最初から、全てに精通しているわけじゃない。わからないことがあったっていい。常識の無い連中なんか、掃いて捨てる程居るんだ。
あの不安定な時代を少なからず二十年は生きてきた。
健司はそんなにヤワじゃない。
ドアを押して客が入って来る。
「いらっしゃいませ〜。コンバンワ〜。」
店員が一斉に声を上げる。
「ケンちゃん。笑顔、笑顔。」
一緒にレジのシフトに入っている同じバイトの笑美が、真司との諍いを引きずっていた健司の横腹を肘で小突く。
「ありがとうございま〜す。またお越し下さいませ〜。」
建司はこれでもかと笑ってみせた。
―うっ。かわいい…。
女の子が目の前に立っている。
レイヤーの長い髪。化粧っ気がないのに、くちびるは桜色で、睫毛は揺れるように長い。
彼女は、華やかな水引きのついた祝儀袋に、ストッキング。ラメの入ったマニキュアを買った。
―んっ、結婚式でもあるの? かな。
彼女のドレスアップした姿を想像しながら、ジャンコードを通す。
「ありがとうございます。」
の声が掠れた。
「ケンちゃん。ヨダレ。」
言われて思わず口を拭ってしまった。
「うっそビョ〜ン。わっかりやすい奴。」
笑美は舌足らずで喋る。色白な彼女は彼女なりにかわいい。
「まったくもう。焦っちゃうじゃないですか。」
ほてりが首筋から頭の先へ一気に上ってくる。顔が赤くなってるんじゃないかと、ますます焦る。
「彼女、たまに来るよ。来たら教えたげる。」
「いいですよ。いちいちそんなことしなくて。」
健司は口を尖らせる。笑美は笑って煙草の補充を始めた。
コンビニから家までは歩いて二十分ほどの距離だ。
笑美とは、ほんの二時間一緒になるだけだが、今のところ身近な女の子は、彼女だけだ。
この時代の女の子は、みんなかわいく見える。ふわふわした髪をなびかせて、鮮やかな色彩を身にまとい、まるで花畑のようだ。
こんな時に女の子のことを考えて心和ませるなんて、不謹慎だと思う。
でも、つまるところはそれだ。
こっちの健司には、彼女がいないらしい。付き合っている痕跡すら見あたらない。
―つまんない奴だな。
健司は、親愛をこめて笑った。
そういう健司にも彼女はいない。いつ死ぬかわからないのに、決まった彼女なんて作れない。心を残さないためだ。
悲しい思いはしたくないし、させたくない。
健司くらいの若い男は、遊里で仮初の恋愛に身をゆだねるしかない。
遊女の身の上も哀しければ、健司ら若い志士の身の上も、またせつない。
バイトの帰り道、健司は煙草をくわえる。ライターで火を付けると、煙草の先がぽちりと赤く染まる。
自分勝手に思いを寄せていたあの人は、どうしているだろうか。
胸の奥が締め付けられるように痛い。
こんなことになるのだったら、たとえ受け入れられなくても、告白しておけば良かったなと思う。
やっぱり、好きだったんだな。あの人のこと。
健司は公園の車止めに腰を掛け、煙草の煙を吐き出した。
見上げる夜空は、防犯灯やネオンで妙に明るい。それらのいい加減なほの白さに掻き消され、相変わらず星も見えない。
「おい!クソ健司。」
声をかけられた。
―クソ健司だと。
こう見えても、健司は血気さかんな、尊皇の志士だ。一発食らわしてやろうかと、拳を握り締める。
「怒ってんだぞ。連絡しても、返っちゃこねえし。具合でも悪いのかと思ったら、しっかりバイトかよ。」
―えっ、健司の友達か?
健司は拳を緩めると、慌てて携帯を開いた。メールに着信。コヒナタばっかり。こいつか。
「コヒナタ? 」
「バイト終わるの待ってたんだよ。ゆっくり説明してもらおうかな、と。」
コヒナタが肩から手を回し、健司の首をやんわり締める。
肩幅の広い、ひょろりと背の高い男だ。眼鏡のガラスに夜の街の風景が映り、表情がうまく見えない。
「心配させやがって。また失恋か。」
健司の失恋は、日常茶飯時なのか。
―参ったな。
何をどう説明しよう。健司の眠い頭の中が、グルグル回っている。
明るい夜空は、ますます白さを増し、もうすぐ夜明けだ。
コヒナタはどうリアクションするんだろう。健司は頭痛がしてきた。