【5】陰に潜む不安
一日一度、休み所へ入る。それ以外は野休みだ。街道の傍らに座って休む。
その野休みの間のことだ。総司がクソ真面目な顔を俺に近付けてきて、そっと囁いた。
「なあ…。うちの井上さんと、お前んとこの平間さんな…。」
そう言ってあたりを見回した。
「なんだ…。」
俺はぎゅっと唇を結んで耳をそばだてた。
「どっちが、ハゲてる。」
なんだ、それ。
「はあ?」
俺は素頓狂な声を上げた。
「ハゲ?」
「バカ!声が大きい。」
「おい、来たぞ、来たぞ。総司。おもしろがって、からかってんじゃねえぞ。」
イケメン土方が総司の悪企みなんか百も承知だという顔をして笑った。
首根っこを掴まれたのは俺だった。
「誰がハゲてるだと。」
井上の源さんだ。
「総司。こいつに余計なことをふきこむんじゃねえ。黙ってりゃ分んねえんだよ。」
俺は固まってた。月代を剃ってるから、そんなことどうでもいいと思うんだが、そうでもないらしい。ハゲが進むと貧相な髷しか結えなくなるんだとか。
この時代でもハゲるという事は男にとって、ゆゆしき問題なんだ。源さんが怒るのも無理はない。
「俺、なんも言ってないっす。」
「分かってらあ。」
力任せに突き放された。総司がすまんと小声で謝ったが、腹を抱えて笑っている。その笑い声が、頭の中を駆け巡り、俺はメマイがした。
気が付いたら、センセイの大きな背中におぶわれていた。暖かい。
子供の頃、遊園地ではしゃぎ過ぎ遊び疲れた俺を親父がおぶってくれたっけか。整髪料と煙草の混ざった匂いが、俺を安心させてくれた。
中学の頃からだ。俺が親父の事をふがいないと思い始めたのは。
優し過ぎるってことは、プラスではなくマイナスに作用するんだ。家族を思うなら、人を落とし入れてでもやらなきゃなんない時だってあるだろうが。
親父の仕事の事はよくわからないが、左遷のうきめめに合っても、仕方ないなと笑っている親父に腹を立て、投げ付けた言葉だった。親父の代わりにお袋の手の平が俺の右頬で鳴った。
あれから言葉も交さず、こんな事になってしまった。謝っとけば良かったな。もしかしたら、もう会えないかもしれない。多分、きっと…。
センセイの背中は日向の匂いがする。俺は涙ぐんだ。センセイがふと足を止める。
「鼻水をなすりつけるんじゃないぞ。」
「センセイ。俺もう大丈夫っす。」
俺はセンセイの背中から降りた。どうしてメマイなんか。疲れが溜っているんだろうか。旅はまだ始まったばかりだというのに、そんなんでどうする。俺は自分の頬を叩いた。
「駕籠をと思ったんだが、乗り慣れないと帰って悪いからな。」
平間のおっさんに預けていた荷物を背負いながら、センセイが言う。
「疲れだけではなさそうだ。気分が悪くなったら早めに言え。」
「先生は、医術も学んでおられる。だから安心していい。」
おっさんが言う。
ソウナンダ、センセイって頭いいんだと思いながら、目がおっさんの額を見つめている。ハゲているところは、毛穴がないから光ってるんだと沖田が教えてくれた。額はかなり後退しているとみた。
「ハゲてはおらんぞ。」
おっさんに後頭部をピシャリとはたかれた。
「またメマイしたらどうするんすか。今度は平間さんがおぶって下さいよ。」
「甘えるんじゃない!」
ふたりのやりとりを聞いてセンセイが笑った。皆も笑う。二月の澄んだ青い空に笑い声が高く舞い上がり吸い込まれていく。
―悪くない。
俺はこんな時間がずっと続くものだと思っていた。
その夜のことだ。センセイが切れた。宿割りのトラブルらしい。かなりもめている。寒いし腹が減ってるのに宿へは入れない。センセイの怒鳴り声が聞こえる。
「まずいなあ。」
おっさんが険しい顔をした。
「怒りだすと手がつけられなくなる。」
「十分怒ってるぜ。」
キャプテンが口を挟む。
「宿割り役は何やってんだ。」
おっさんが焦っている。
「おーい、平間!」
センセイが呼んでいる。
「キタッ…。」
おっさんとキャプテンが顔を見合わせた。
「平間、呼んでいるのが分からんかッ!我らは今夜は野宿だ。暖を取るゆえ火を焚け!」
そうとうな剣幕だ。声が腹に響く。恐ッ!
「逆らうなよ。建司。」
逆らうわけない。
「逆らったら、鉄扇が飛んでくるぞ。」
「鉄拳?」
「いんや、鉄扇。」
なんだそれ。ま、いっか。キャンプだぜ。ファイヤー!なんか興奮してきた。燃〜えろよ燃えろってか。燃え?
「燃え〜!」
雄叫びを上げて、はっと見渡すと、総司や平助なんかも面白がってファイヤーを囲んでいる。
「なんだ、それ!」
平助が俺の口癖を真似る。
「なんか俺も叫びたくなってきた。」
総司がやろうぜと目配せする。三人でせえので叫んだ。
―燃え〜!
薄く靄がかかっているような、俺のぐずついた心模様が、一瞬の晴れ間を見た。
そこへ、役人が走って来た。
「おいでなすった。」
センセイが片頬で笑う。手に持った扇子の要で肩を叩いている。あれが鉄扇か。骨が全部鉄でできている。ずしりとした重みが、俺にさえ分かる。
役人が甲高い声でわめいているのをセンセイがふてぶてしい顔つきで聞いている。やおら立ち上がったと思ったら、鉄扇が空を切り、役人の頭めがけて飛んだ。早業とはこのことだ。鈍い音が立ち、役人がその場で失神した。皆がぽかんと口を開けて、それを見ていた。痛い!だろうなあ。
センセイは文句あっかと言わんばかりだ。盛り上がっていた雰囲気が一気に覚めた。
春の宵の冷たい空気が、俺の首筋に絡んでくる。
少し冷静になれ。見たか。これがお前の置かれている時代だ。
振り回されたのが、刀だったらどうだ。役人は今頃、屍となって転がっているはずだ。
―気をつけろ。
お前には戻らねばならない場所がある。忘れるな。
俺は身震いした。誰の腰にも、そうだ、俺の腰にも二本の刀がぶらさがている。その気になればいつでも人を殺せる。タイミングが悪ければたちまち殺される側になる。
俺は振り返った。事件は収拾がつきはじめている。
誰も知らない。俺だけが知っている。結末。忘れていた。顛末を踏襲しているのは俺だけだ。
笑い会っている、総司と平助。おっさんとキャプテンは火を消しにかかっている。
俺の体から血の気が引いてゆく。吐き気がする。またメマイがしそうだ。
薪の焦げた匂いが広がり、周りの雑然とした音と景色がゆっくり旋回を始める。
センセイがちらりと俺の方を見た。
意識がか細くなってゆく。その時、ふいに肩を掴まれ、かろうじて取り戻した自分自身は、頼りなげに揺れる煙のようだ。
「お前は、いったい何者なんだ。」
耳に聞こえるのは、新見の声だ。
「俺は騙されんぞ。」
掴まれた肩に握力がかかる。敵意と疑念に満ちた新見の声が続く。
「事と次第によっては、街道の傍らの土くれにしてやってもいいんだぜ。」
「俺を殺るのか。」
「いつでも。」
「なあ錦。それくらいにしておいてやれ。」
いつの間にかセンセイがふたりの後ろに立っていた。
「あまり脅かすとかわいそうだ。刀の扱いも知らん人間に何が出来る。」
「しかし、芹沢さん。間者かも知れませんよ。諸生派の。」
「そんなはずは無い。建司が野口さんの甥っ子なのはお前もよく知っているだろう。それにこんな間抜けた間者が居るものか。」
新見が舌打ちした。
「化けの皮は俺が必ず剥がしてやる。」
突き放された背中をセンセイが軽く叩く。
「お前が何者かは京へ着いたらゆっくり説明してもらうとしよう。」
横川の関を抜け、風雨に晒されながら和田峠を越える。木曽路では、冷たい雪が草鞋に凍みた。
歩く。ただ歩く。無口な戦士の行軍が、隊列を成して京へ近付く。ドラマのシーンが、瞼の裏を霞めてゆく。
そうだ。新徳寺。清河八郎の建白書。京都残留。このシナリオを知っているのは俺だけだ。偶然と必然が俺を選び、何を託した。俺のポジションはなんだ。本当に答えはあるのか。