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【4】健司の居場所

前項で大宮の宿と書きましたが、歴史的には鴻巣の宿の間違いです。お詫びいたします。

トウキョウの街は眠らない。

幹線道路から大きくカーブして住宅街へ滑り込んでくる車のヘッドライトが、健司の部屋の西側の窓をするりと撫でて遠ざかってゆく。

またしばらくすると、スピードを落とし、アスファルトをジリジリと鳴らして、数十メートル先の月極めの駐車場に停泊しようと車が音をたてる。

夜中というより、未明に近い。青い闇の海原だ。

窓の外は、防犯灯の明かりでむやみに照らし出されていく。

星の光はかすんで、地上にはまばらにしか届いて来ない。

先のことはどうでも、取りあえず今これからをこの世界で暮らして行かなければならない。

この時代に同化していかなければならないのだ。

健司は、もうひとりの健司ををつつがなく演じていかなければならない。

健司はカラーボックスの棚に無造作に置かれた上半身のプリクラを見ながら、この時代の健司を真似してみる。

中途半端な長さの、中途半端な癖毛を細いカチューシャで掻き揚げる。わりといい。邪魔な前髪がすっきりした。

しかし、まぬけた面だ。プリクラをまじまじと見ながら、俺は間違ってもこんな顔はしないと健司は思う。

親指と人差し指を いっぱいに開き、それを顎の下へもってくる。

プリクラと同じポーズだ。

「マジ・・・んっ?カッケエ・・?」

プリクラにプリントされた文字が、ようやく読める。

「何やってんの?」

さっきまで、ベッドで口を半開きにして寝ていた眞司が、いつの間にか後ろに立っていた。

枕を抱え、欠伸を噛み殺している。

今日一日、真司は健司のお守りをしていたのだ。

今日は、この時代での健司のポジションと文明の利器である電化製品の使い方をレクチャーした。明日は外出編だ。

人にものを教えるのに、こんなにエネルギーが必要だとは知らなかった。教師には絶対ならない。いやなれはしないだろうが・・。

それにしても、学校が休みで良かったと思う。

そうでなければ、こんな兄貴をひとりで放って置かなければならないところだった。

学校が春休みなのにも気付かない母親に、健司を任せてはおけない。

いい加減というか、大雑把というか、良く言えばおおらかなのだが。

兄の健司は、良くも悪くも母親の持つDNAを充分に受け継いでいた。

兄貴の事だ。もうひとつの時代で、ちゃらんぽらんとうまくやっているに決まっている。

心配などしていない。薄情と言われてもいい。断言できる。

そうは言っても真司は、健司の話のどこまでが真実で、どこからが虚構なのか測りかねている。健司が嘘を言っているとは思えないが、それがほんとうのところだ。

兄貴が江戸時代へ行ってしまっているなんて確かめようが無い。

しかし、ここにいる健司がいつもの健司と違うのは、明白だった。

この人は、何もかも真っ直ぐで痛いくらいだ。俺の回りにこんな奴はいない。いたらうざったいだけだろう。事情が違う。だから、許容できる。

「明けるよ。夜が。」

カーテンの色が薄く透けてくる。

「俺、部屋行って寝るわ。兄貴も、もう寝な。電気毛布のスイッチ小にしときなよ。喉乾くし。」

「ありがとう。真司君。心遣い、かたじけなく思います。」

背中がむず痒い。真司は、健司の部屋を出た。

ーかたじけないだってよ。

それに、ありがとうなんて。誰かに言ってもらった記憶は、遥か遠い彼方にある。親兄弟なら、ありがとうなんて言葉、なおさら恥ずかしくて言えない。そんな言葉を簡単に言うのは、母親の早紀くらいだ。

真司は、自分のベッドに潜り込んだ。ひやりと冷たい。

「うへっ」

布団を肩に抱き寄せ、体を縮めた。

健司も、ベッドに潜り込んだ。真司の体温がそのまま残っている。暖かい。

健司にも兄弟はある。しかし、養子の先も定まらないまま、家族の温もりとは、無縁だった。

嫡男に生まれないということは、最初から厳しい枷を背負って生まれてくるということだった。

やがて眠りは溶けるように訪れる。夜も溶けるように明けてゆく。新しい一日がまた始まろうとしていた。

健司が目覚めたのは、もう正午近くだった。

あまりに暖かい自分の居場所に、錯覚を覚えていた。この場所は自分に用意されていたもの。このまま浸かっていても、誰も文句は言わないだろう。

ーダメだ。勘違いするな、健司!ここはお前の居場所じゃない。しっかりしろ!

健司はようやく体を起こした。

携帯電話を使いこなしたい。その一心で説明書と格闘していた。おかげで頭が重い。

「休みだからって、いつまでも寝てると、なまっちゃうわよ。」

早紀は、健司をいつもどおりに扱う。ここに居る健司は、早紀のなかでは違う健司ではないのだ。

いつもと変わらない一日なのだ。そうであって欲しい。早紀の思いが、健司に伝わってくる。

「おふくろ・・様。申し訳ありません。」

早紀はふと健司を見る。

やはり違う健司がそこに居る。同じ健司なのに、匂いが違う。

ー私の健司じゃない。

でも、何が違うだろう。同じ、二十歳の若者なのだ。それもつい三日前までは、いつでも死を選択する潔さを求められる時代に生きていた子だ。きっと、ずいぶん疲れているに違いない。

「何謝ってんのよ。

あんたが悪いわけじゃないんだから。シャワー浴びといで。すっきりするから。」

肩に重い物は、なにもかも洗い流してしまえばいい。今日、荷物がひとつ増えたなら、また明日、洗い流して楽になればいい。

この子は、肩に荷物を背負ったまま、ずいぶん長い道程を歩いて来た。そしてこの先もそうやって歩いてゆく。そんな目をしている。覚悟が瞳の奥に沈んでいる。

今、この子に与えられるものがあるとしたら、しばらくぶりのやすらぎだろう。

早紀は、やはりこの目の前の健司の母親なのだ。それに代わりはいない。

「今夜はカレーでいいよね。」

「カレー?」

「いいね。茶色くて、辛くて、ドロドロしたやつ。美味いよ。」

真司がからかう。

「ドロドロですか。」

ードロドロね。

また新しいことに遭遇しなければならない。カップラーメンといい、昨夜のパスタに宅配ピザといい、食べるのに勇気がいるものばかりだ。

ー美味かったけど・・。

健司が鼻に皺を寄せ顔を曲げた。

健司の憂いのある表情に感傷的になっていた早紀は、一気に現実に引き戻された。

所詮、あっちの健司もこっちの健司も、親兄弟に心配をかけるどうしようもない息子に変わりはないのだ!

「さっさとシャワー浴びといで。」

頭のてっぺんから声が出た。

ーまったく、もう。

親の心子知らずなんてこのことだ。あっちもこっちも。

ー健司のバカッ!


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