【2】もうひとりの健司
今日は待ちわびていた出立の日だというのに、俺はいったいここで何をやっている。
狐にでもつままれているのか、さっぱり見当がつかない・・・・。
ここにもうひとりの健司が、混乱した頭の中をますます掻き乱してベッドの上に座っていた。
何をどう考えても答えらしきものに行き当たらない。時間ばかりが過ぎてゆく。
時計が同じ律動で無機質な音を刻んでいる。どうにも耳触りで健司の焦燥感を煽り立てる。
健司は目覚まし時計を掴み上げると力任せに投げ付けた。電池がこぼれ落ち、音が止まった。
一瞬静けさが辺りを覆い尽す。不安が増大する。
「ケン!何やってんの。いい加減にしなさいよ。」
女の甲高い声が家中に響いた。
その声に健司ははっとした。こうしていても仕方が無い。健司は意を決し、おそるおそる部屋のドアを開け階下へ降りて行く。
ドアひとつ開けるにもひと苦労だ。押すのか引くのかさえ解らない。
階下は光に溢れていた。なにか芳しい、良い香りが立ち上ってくる。
―腹へったな。
香りにつられて健司の腹がギュルギュルと鳴った。
すべて西洋風にしつらえられた部屋の調度は、あくまでも軽薄で落ち着かない。
「あんた。今日学校は?」
「えっ。」
「講義無いの?またサボってるんじゃないでしょうね。パン焼く?」
「あっ、あの・・・」
「なんかあった?またふられた?
っていうより、あんたの場合はそれ以前の問題だけどね。」
よく喋る女だ。口を挟む隙間など健司に与えない。
「さっきはどしたの?ん?突っ立ってないで座んな。おかしいよ、あんた。」
女は喋りながらパンにマーガリンを無造作に塗った。
健司は、促されるまま椅子に座る。
「コーヒーいれる?」
女がまた立ち上がった。
「あの、聞きたいことがあるのですが。」
「何なの、改まって。」
健司の前にコーヒーの注がれたマグカップが置かれた。
「俺は誰ですか。あなたは誰ですか。ここは何処ですか。」
女はしばらく健司の顔を見つめていた。健司の顔が真顔なのでむしろ女は腹を立てた。そしておもむろに言った。
「冗談言うのは止めなさいよ。親を馬鹿にして。いくらあんたでもそんな冗談許さないわよ。」
―親?この女何を言っているんだ。母親は随分前に死んだ。
しばらく女と睨み合っていたが、健司はいきなり流しに走り、置きっ放しになっていた包丁を握り締めた。さっき目の端に確認しておいたのだ。
「大切な役目をおおせつかり、いざ京へ向けて出立という今日。それも叶わず、何もできず、ここにただ有るのは不本意であります。ならば潔く自刀して果てましょうぞ。」
叫ぶ健司に女は慌てた。
「待って!落ち着いて!話を聞くから。」
健司の頭の中に仲間の顔が咄嗟に浮かんだ。芹沢先生や平山先生に申し訳が立たない。
いっそ死んでしまえば、ここから逃れられる。いや戻れるかもしれない。もと居た場所へ。
「おふくろ、兄貴、何やってんの!」
寝ぼけ眼で二階から降りて来た弟の真司が慌てて止めに入った。
―我が家の一大事、勃発!兄貴が血迷った!
真司がすかさず健司の顔に飛び蹴りを入れ、ひるんだ所を取り押さえた。
「死なせてくれ。このまま生きていても仕方無いんだ。」
包丁を取り上げられ、健司はへたりこんだ。そして悲痛な声を上げた。
そうはいっても、健司の話は簡単に納得できるものじゃない。
三人は茫然としてソファーに座っていた。なんだかんだともう夕方に近い。部屋の中には沈みかけた陽の、淡い金色の光が差し込んでいる。
健司はどこから探し出して来たのか、剣道の稽古着を着てソファーに正座して座っている。真司の蹴りが入った左の頬が赤黒く腫れていた。母親の早紀は健司の右側でポテトチップをつまんでいる。弟の真司は健司の左側で、欠伸を何度噛み殺した。
―正直、つまんね。
早紀が好きで揃えた新選組のDVDを一話から順に見ているのだ。
「いいのかよ。こんなん見せて。みんな死んじゃうんだぜ。」
「かまいません。真実を知りたいのです。」
健司がそう言ってきかない。
「真実って言っても、半分はお芝居だからね。」
「しかし、流れは実際に則して居るのでしょう?」
「そうだけど・・・。」
早紀が健司の相手をしていて口ごもった。
いよいよ芹沢鴨の登場だ。
「あっ、あっ、こんなんじゃないですよ。先生はもっと大きくて威厳のある方だ。」
「だからお芝居だって。」
健司が乗り出してテレビに飛び付きそうになるのを二人でやっと止める。買ったばかりの薄型テレビを壊されてはかなわない。
芹沢鴨の謀殺シーンは健司にとってクライマックスだ。
健司の膝に置いた拳が小刻みに震えている。
「確かに先生は、突拍子も無い事をされるが、何も先生が特別と言う訳では無い。そんな奴は掃いて捨てるほど居た。どうして先生が悪者にならなければならん。何故先生が奴らに殺されなければならん。」
誰に言うとも無く言葉がこぼれ出て来る。そして悔しさに噛み締める唇から血が滲んだ。
「止めなよ。血が出てるし。」
真司がティッシュを箱ごと渡した。
「申し訳ない。」
健司はそのティッシュで唇を拭いた。
薄いしなやかな紙が唇に絡まり張り付く。それを指でなぞりながら、
「死んでしまうんですか。みんな。」
「だから見るのやめなって言ったじゃない。」
「大丈夫です。そういう時代ですから、やむを得ません。」
健司は言った。
「でも、あんただって死んじゃうんだぜ。切腹だぜ。首が飛ぶんだぜ。」
「みんな覚悟のうえですよ。死ぬことを恐れてていたのでは、何も出来ません。」
「そういうもんかなあ。いまいちわかんねえな。そういうの。俺」
「ケンは武士だから、子供の頃からそういう教育受けてんのよ。」
「いえ、俺は武士ではありません。家は代々神官をやっています。」
「シンカンって何?」
真司が尋ねる。
「バカねえ、神主さんのことよ。ねっ、ケン。」
早紀のあっけらかんとした口調で、重い話題が蝶のように軽くなる。健司は少し笑った。
「笑った。小難しい顔してちゃだめよ。笑わなきゃ。ねっ、ケン。」
「うわあー!」
今笑ってみせた健司が、突然大声を上げてソファーの上に立ち上がった。クッションに足をとられ前のめりに倒れ込んだ健司は、テーブルで向こう脛を思い切り打ち、しばらく声が出せないでいた。
「いきなり、どしたの。」
「もし、俺ともうひとりの俺が、時代を超えて魂が入れ替わっているとしたら・・・。」
「入れ替わってるとしたら?」
「このままでは、死ぬのはもうひとりの俺。あなたの御子息の方だ。」
早紀と真司は顔を見合わせた。
「おふくろ、そういうこと。」
「だったら、この子が家の子になればいいじゃん。ケンはケンなんだし。」
早紀はそう言うとそそくさとDVDを入れ替えた。
「マジかい。おふくろ。兄貴が聞いたら泣くぜ。」
「いいから、いいから。お腹すいたでしょ。カップラーメンでも食べる?」
「いや、そういう問題じゃないと思いますが・・・。」
こんな会話が交わされて居るなんて、もうひとりの健司には知るよしもない。
楽しんで書かせて頂いて居ます。申し訳ありません。