【1】ありえねえ!
「おい!健司、起きろ!」
誰かが俺を呼ぶ。
--誰!
そう思った瞬間、頭の中で耳を突き抜けるような高い金属音が鳴った。
--あぁっ。
思わず耳を塞ぎ、俺は苦痛に身体を丸めた。
「いい加減に起きないと、先生に叱責されるぞ。」
せわしなげに男の声が俺の耳元で囁く。やめろよ。俺の耳に息を吹きかけるのは。くすぐったくて身が捩れる。
--冗談っしょ。
ところで、ねえ、センセイって誰よ。シッセキって何だ?訳わかんねえって、あんた誰!
片目で起きた。俺はぎょっとした。そしてもう一度強く目を閉じ、今度は両目を開けた。
--えっ・・・?
空白が俺の意識を支配し、思考が止まった。脳幹が痺れているようだ。唖然とする?茫然とする?どちらでもない。今、俺の目の前に広がる光景を情報として脳神経が処理するのを拒んでいる。
「起きろ!置いて行くぞ!」
はっきりした力強い声が高い位置から降って来た。
同時に思いっきり尻を蹴飛ばされ、息が止まりそうになる。
何をどう受け入れろっていうんだ。これは現実なのか。俺はやっとのことで起き上がりそのまま座り込んでしまった。
まるで時代劇だ。何かの撮影か?それならいつの間にこんな所へ連れて来られたんだ。
―なんかのドッキリ?な分けないよな。
「ねっ、これなんすか?俺なんでここにいるんすか?で、あんた誰。」
人の良さそうなオッサンが俺の質問を無視して、そのはしからあれやこれやと指図する。それから何度も、大丈夫かと問う。さっき俺の耳元で囁いたのと同じ声だ。
先をケバケバに潰した割り箸と塩を渡され歯を磨く。ほつれた前髪を撫で付け、袴を着ける。高校まで部活で剣道をやってたのが役に立った。でも手甲脚半がうまく着けられない。オロオロしてたら、オッサンが手伝ってくれた。
「どっか具合でも悪いのか、健司。」
しかしなんでこのオッサンは、俺の名前知を知っているんだ。俺はオッサンの顔をまじまじと見つめる。
が知らない顔だ。窪んだ眼が親切そうに俺を見ている。
「すいませんが、ここは何処ですか。」
状況が飲み込めないので、思わず敬語が口からこぼれでる。
「小石川の伝通院だ。」
草鞋が履けない。オッサンの履くのを見よう見まねで履く。親切そうなオッサンの顔色が心なしか変化したように見えた。
そうしているうちに、俺は少し冷静になった。それが悪かった。背筋に悪寒が走った。冷や汗をかくというのはこういう事をいうのか。指の先まで痺れて、俺はこの時初めて茫然とした。
--もしかして、今は江戸時代?
オッサンが俺を憐れんでいるようだ。
「すいません。聞くんですが、今って何年すか。テンボウ?アンセイ?」
--お願いだ。ヘイセイと言ってくれ。
声が掠れる。オッサンは答えない。
「とにかく健司、ここでじっとしていろ。すぐ戻って来る。」
--おい、オッサン。独りにしないでくれ。
追いかけようとして右肩を誰かに掴まれた。
振り向くと海賊みたいに黒い眼帯をした男が立っている。
「なんだ。健司。どうかしたのか。」
「あの・・。あんた誰。」
「おいおい、どうなっているんだ。かんべんしろや。皆、集まっているから、お前も早くこいや。」
眼帯の男が俺の腕を引っ張る。
「オッサンにここ動くなって言われてるから。」
「オッサンって・・・。」
眼帯の男の表情が険しくなる。
「あっ、オッサン。」
「オッサンって平間君のことか。健司、どういう了見だ。平間君をオッサン呼ばわりするとは。」
「おい、先生を連れて来たぞ。平山さん。健司の様子が少しおかしいんでな。」
平間と呼ばれるオッサンが声高に言う。
見るとオッサンの後ろを身長のでっかい偉そうな男が眉間に皺を寄せてどかどかと歩いて来る。
--すげえ。
迫力に驚いて、俺は二三歩後退る。
「さっきは尻を蹴飛ばして悪かったな、健司。具合が悪いのなら早く言わんか。」
―クッ。こいつか。俺の尻を蹴飛ばしたのは。まだ尾底骨の辺りが痛いじゃねえかよ。
そのセンセイと呼ばれている男が、俺の額に手を当てた。大きいがひやりと冷たい掌だ。
「熱があるわけじゃなさそうだな。腹は下ってないか。」
俺は首を振った。
「俺が誰か判るか。」
俺は首をかしげる。判らないから仕方が無い。江戸時代に知り合いなんかいない。
センセイはそのいかつい指で俺の顎を持ち上げた。
「俺が解らんというのか。では、自分の名前は。」
「野口健司。」
「歳は。」
「十九、いや数えで二十歳。」
数え歳というのがあるのを何故か聞いて知っていた。
「生まれた所は。」
「東京。」
そう言って、しまったと思う。
「トウキョウ?何を言ってるんだ、健司。俺達はこれから京へ上るんだぞ。それは解っているか。」
―そんな。聞いてないぞ。俺はまた首を振った。センセイが大きな溜息をついた。
「仕方無い。重助、すまんが健司を水戸へ送り届けてくれんか。」
―ちょっと待った。
俺、東京生まれ。江戸時代の水戸へ返されても困る。
「京へ行きます。足手まといにならないようにしますから。連れてって下さい。」
俺はセンセイの顔を必死で見据えた。真剣なこの眼を見てくれ!見捨てないでくれよ。センセイ。オッサン。
そして、自分の言ったことの重大さにおののいた。
東京から京都まで歩いて行くんだぜ。
--オーマイガッア!
やるっきゃないのか、俺。
朝起きて、いきなりオリンピック会場に引っ張り出され、フルマラソンを今から走れと言われてるようなもんだ。違うか?事態はもっと深刻なはずに決まっている。
見渡せば、ざっと二百人は居るだろう。侍、侍、時々変な奴も混じっている。
時代劇なんかじゃないんだぜ。本物だぜ。それに俺だってこの髪、鬘じゃない。刀も本物だ。腰がひっぱられるように重い。
二本も差せば結構腰にくる。背中には荷物。懐にもなんだかだと細かい物が入っている。慣れない着物は窮屈だ。
俺のセンセイは、オッサンや眼帯男から芹沢先生と呼ばれている。どうやら俺、健司もその取り巻きの一人らしい。
点呼が始まる。眼帯野郎は、平山五郎。オッサンは、平間重助。覚えたぞ。
「土方歳三君。沖田総司君。山南恵助君。永倉新八君。藤堂平・・」
ちょっと待った。これって何。もしかして新選組!俺、タイムスリップしちゃったわけ?いや違う。野口健司。名前と外見が同じで全く違う奴と、中身が入れ代わってしまっている。
物理的にどう考えればいいんだ。じゃあ平成に居る俺はどうなっている。いや、そんなことは今はどうでもいい。落ち着け。なんとか切り抜けなければ。先のことを考えるのはよそう。
確かテレビで新選組の時代劇やってたのをおふくろが必死で見てたっけ。話の流れを思い出せ。あの俳優なんてったっけ。土方歳三やってたの。今はそんなこと関係ない。本物がここに居るんだし。
すらりと背の高いすっきりとしたイケメンだ。かっこいい。このなかでも飛び抜けている。
「で、三番隊小頭を務める芹沢です。よろしくお願い致します。」
センセイが頭を下げた。
「それでは出立致します。」
芹沢センセイの声が響き渡る。朝の冷たい空気が震え、隊列がざわりと動き始めた。俺も歩き始めた。とりあえず、後戻りはできない。
京へ向けて。一塵の風が落ち葉を舞い上げて強く吹いた。男達の歩調に合わせて土埃が立つ。
俺の何かが始まる。確かな物は何ひとつない始まりだ。
頼るものはない。覚悟?そんなものが俺の心にあるというのか。
あるならば、引きずり出して来よう。
いつもなら困難は笑ってごまかしやりすごす。でもひきつった頬では笑えない。
今更ながら、身体の芯が震えて来る。
神や仏があるというなら教えてくれ!俺は何のためにここに居るんだ。いったどういう必然なんだ。
--おやじ。おふくろ。
俺はここにいる。
文久三年。幕末だ。笑っちゃうぜ、全く。眼の前が涙で霞んで来る。
--泣くな!健司!歩け!京都まで。
答えは多分そこにある。