高らかな君の声は純粋な希望に満ちている
「何か楽しいことないかなー」
「楽しいことって例えば何?」
「知らない。」
「それは残念ね。」
体重を背もたれに乗せて後ろ足二本だけで椅子を立たせながら、知佳は退屈そうに溜息を吐き出した。
その隣に座っていた櫻は、机に頬杖をついたまま同じように退屈そうな表情で知佳を横目に見る。
拗ねたように唇を尖らせると、知佳は一つずつ指を折りながら不満を並べ始めた。
「みんな出かけてるし。」
「うん。」
「美味しいものも、無いし。」
「うん。」
「テレビもラジオも、つまんないニュースばっかりだし。」
「うん。」
「楽しいことなんて、ありゃしない。」
「うん。」
知佳の細い指が折られる度に、櫻はやる気の無い声音で相槌を打った。その様子に知佳は眉間に皺を寄せる。
指を元に戻し今度は腕を組むと、相変わらずの拗ねた唇で櫻の方に向き直った。
「出来ればもっと、気の利いたことを言って欲しい。」
「うん。」
「今から”うん”禁止ね。」
「そう。」
櫻の返答に知佳は眉間の皺を深くするが、ぼんやりと宙を見つめたままの相手の姿に諦めの溜息を吐いた。
組んでいた腕を解いて椅子の重心を元に戻す。カタン、と木の椅子が床を打つ音が響いた。
「…お友達の…風と雷だっけ、はどうしたの。」
「私を置いて二人で仲良く遊びに出かけて行った。」
「そう。」
「櫻さんがさ、何か楽しいこと考えてくれればいいんだよ。」
「そうねぇ…。」
知佳にそう振られ、櫻は頬杖をついたまま思案顔になる。櫻の沈黙に、知佳は期待の眼差しを向けていた。
しばしの思案の後、櫻は唐突に席を立った。近くの棚に歩み寄り、何やらゴソゴソと中を漁っている。
何事かと知佳も立ち上がり傍へ歩み寄ると、丁度櫻が棚から知佳へと向き直った。
その手には、クレヨンと画用紙。
怪訝な表情の知佳に、櫻はにっこりと微笑んだ。
「童心に帰ってみましょうか?」
知佳はその提案にきょとんとした表情を返していたが、我に返るとすぐに櫻から二つを受け取った。再び椅子に腰掛け、机の上でクレヨンの箱を広げる。
その内部を確認した知佳は、またも眉間に皺を寄せた顔で背後の櫻を振り返った。
「赤が無い。」
「無いと駄目なの?」
「りんごを描こうと思ったんだよ。」
「(なんでりんごなの…)りんごは赤じゃなきゃ駄目なの?」
「…。」
櫻の返事に知佳は思案気な顔になる。
しばらく赤の欠けた箱を見つめた後、水色のクレヨンに手を伸ばした。画用紙にぐりぐりと色を塗りたくり、円形のそれに茶色でヘタを描き足す。
「水色のりんご?」
「水色のりんご。」
クレヨンを箱に戻しながら、知佳は得意そうに頷いた。
真白な画用紙の中央に鎮座する空色のりんごを見下ろして、満足げに微笑む。
「こんなご時世だもの。水色のりんごがあったっておかしくない。」
「そうね。」
知佳は再び大きく頷くと、おもむろに両手を高く掲げた。
そしてまるで見えない聴衆に向かって演説でもするかのように、高らかな声音で語りだした。
「そもそも”りんごは赤い”という固定観念が人を駄目にするのである。
だから人種差別は無くならない。
戦争だって無くならない。
地球は平和にならない!」
「昨日の夜、ロードショーでやってた戦争映画を夢中になって観てた人の台詞とは思えないわね。」
「だってあの映画はおもしろかったんだよ。」
「そう。」
櫻の揚げ足に反論すると、知佳は掲げていた両手を机上に降ろした。
もう一度こっくりと頷くと、再び演説を始める。
「世界は一つじゃないんだよ。だから
黄色いりんごだって
白いりんごだって
黒いりんごだって
虹色のりんごだってあっていいじゃないか!」
声高らかに宣言しながら、知佳は右手をクレヨンの箱に突っ込み、持てる限りのクレヨンをその手に取った。
そしてそれらで水色のりんごの表面に色を塗り重ね始める。様々な色を浴びたりんごは、黒でも灰色でもない、形容し難い色へと変貌していった。
「ただいまー。」
部屋のドアを勢いよく開けながら、風と雷の二人が帰宅を告げた。
手にしていた手土産の袋を示そうとして視線を室内の様子へとやった風は、中途半端に差し出した腕のままで動きを止めた。その様子を怪訝に思った雷も風の視線を辿り、その異様に気付いた。
机の上に広げられた画用紙と色とりどりのクレヨン。画用紙の中には、形容し難い色を纏った、あからさまな毒りんごが描かれている。
そしてそれを満足気に眺めている知佳。その知佳の様子を眺めている櫻。
「……何の儀式ですか。」
逡巡の末、風は問いを二人の女へと向ける。
画用紙を眺めていた知佳は、視線を上げるとにっこりと微笑んだ。
「地球の未来の話をしていたのだよ。」
「はあ…」
満面の笑みで答える知佳。
風からの戸惑いの視線を向けられた櫻は、優しく微笑みながらゆっくりと頷いた。
「本当よ?」
「はあ…」
風は救いを求めるように雷の方を振り返るが、同じように真意を理解出来ずに居る彼は肩を竦めて見せるだけだった。