余命一年の王子様と、嘘つき令嬢
第一王子セリウス・ノクティスは、自分が十八歳の誕生日に死ぬことを知っていた。
それを知らされたのは、十七歳の誕生日の夜だった。
王城最奥。
誰も立ち入ることを許されない「星見の間」。
そこには、国王と神官長、そしてセリウスだけがいた。
「……そうですか」
話を聞き終えたセリウスは、静かにそう言った。
驚きはなかった。
むしろ。
納得した。
生まれた頃から、自分は病人だった。
誰よりも強い魔力を持ちながら、誰よりも弱い身体。
突然動かなくなる手足。
理由もなく襲ってくる激痛。
年々失われていく感覚。
医師たちは『魔力病』と呼んだ。
だが。
それは病ではなかった。
「殿下は、『世界の楔』なのです」
神官長は泣いていた。
「千年前、世界を滅ぼしかけた呪いを封じるため、初代国王は自らの命を捧げました。そしてその日から、王家には代々、呪いをその身に宿す者が一人生まれるようになったのです」
セリウスは黙って聞いていた。
「その者は……十八歳の誕生日を迎えた時、命を落とします」
静かだった。
部屋の中は、驚くほど静かだった。
「つまり」
セリウスは笑った。
「私は、生まれた時から死ぬことが決まっていたのですね」
国王が目を伏せた。
「……すまない」
「父上」
セリウスは首を横に振った。
「謝らないでください」
むしろ。
安心した。
これでようやく、自分が弱かった理由が分かった。
「私が死ねば、世界は救われるのですね」
神官長が嗚咽した。
「……はい」
「ならば」
セリウスは窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
「悪くない人生だったのでしょう」
そう。
その時は思った。
あと一年。
静かに生きて。
静かに死ぬ。
それで終わり。
そのはずだった。
◇
「セリウス殿下!」
翌週。
王城の庭園に、元気な声が響いた。
セリウスは読んでいた本から顔を上げた。
そこには、一人の少女が立っていた。
栗色の髪。
大きな瞳。
そして。
今にも泣きそうな顔。
「……誰だ」
「ミリア・フォルテスです!」
少女は勢いよく頭を下げた。
「本日より、殿下のお話し相手を務めさせていただきます!」
「お話し相手?」
「はい!」
元気だった。
だが。
目が真っ赤だった。
「……君」
「は、はい!」
「泣いていたのか」
「な、泣いてません!」
「目が赤い」
「これは……その……」
ミリアは焦った。
とても焦った。
「花粉です!」
「冬だぞ」
「……」
沈黙。
そして。
「うぅ……」
泣いた。
セリウスは、一瞬目を丸くした。
そして。
気づけば。
笑っていた。
「あ……」
ミリアが固まった。
「殿下……笑いました……」
セリウスも驚いていた。
自分が。
笑った。
いつ以来だろう。
「……君が面白いからだ」
「面白い!?」
「少なくとも、退屈はしない」
ミリアは涙を拭いた。
そして。
泣き顔のまま笑った。
「良かったです!」
その笑顔を見た時。
セリウスはまだ知らなかった。
この嘘が下手な令嬢のために。
自分が、生きたいと願うようになることを。
ミリアは、本当に毎日やってきた。
雨の日も。
雪の日も。
強風で庭園への扉が閉ざされた日でさえ。
「今日は図書室でお話ししましょう!」
と、なぜか先回りして待っていた。
「……なぜいる」
「偶然です!」
「嘘だな」
「はい!」
即答だった。
セリウスは笑った。
最近、笑うことが増えた。
ミリアといると、不思議と身体の痛みを忘れた。
いや。
痛みは消えない。
ただ。
痛み以外のことを考えられるようになった。
「殿下!」
「何だ」
「今日はお菓子を作ってきました!」
ミリアは得意げに包みを差し出した。
開ける。
黒かった。
「……これは」
「クッキーです!」
「炭ではなく?」
「クッキーです!」
セリウスは一枚摘まんだ。
硬かった。
石のようだった。
「……食べられるのか」
「たぶん!」
「たぶんか」
セリウスは口に入れた。
苦かった。
そして硬かった。
だが。
目の前の少女は、期待に満ちた目でこちらを見ていた。
「……どうでしょう!」
「……」
「……」
「……まずい」
ミリアは崩れ落ちた。
「やっぱりぃ……!」
その姿があまりにも面白くて。
セリウスは、声を上げて笑った。
ミリアはぽかんとした。
「殿下……?」
「……はは……」
止まらなかった。
笑うということが、こんなにも楽しいことだったとは。
知らなかった。
「……ありがとう」
思わずそう言うと。
ミリアは、今度は泣きそうな顔になった。
「え?」
「ありがとう」
セリウスは、もう一度言った。
「久しぶりに、楽しかった」
ミリアは。
今にも泣きそうな顔のまま。
とても嬉しそうに笑った。
「……はい!」
◇
春になった。
その日。
セリウスは、朝から右手の感覚がなかった。
何度握っても。
何度動かしても。
自分の手ではないようだった。
「……来たか」
神官長の言葉が脳裏をよぎる。
――春には、右手の感覚が失われます。
分かっていた。
分かっていたのに。
怖かった。
人は。
自分の身体が少しずつ死んでいくことを、簡単には受け入れられない。
扉が開いた。
「殿下!」
ミリアだった。
今日も。
笑っていた。
「今日は庭のお花が綺麗なんですよ!」
「……そうか」
「あれ?」
ミリアが首を傾げた。
「元気がないです」
「そんなことはない」
「あります」
セリウスは苦笑した。
「君は、人の顔を見るのが得意だな」
「はい!」
得意げだった。
だから。
少しだけ。
本当のことを話した。
「右手の感覚がなくなった」
ミリアの笑顔が止まった。
「……え」
「痛くもない」
セリウスは、自分の右手を見つめた。
「触っている感覚もない」
ミリアは何も言わなかった。
言えなかった。
「怖いな」
その言葉は。
思っていたよりも、小さな声だった。
「私は」
初めてだった。
誰かに。
怖いと打ち明けたのは。
「……怖い」
ミリアは。
俯いた。
肩が震えていた。
泣いている。
そう思った。
だが。
次に顔を上げた時。
彼女は笑っていた。
とても。
下手な笑顔だった。
「大丈夫です!」
声が震えている。
「絶対に治ります!」
嘘だ。
そんなことは。
二人とも知っている。
それでも。
ミリアは笑った。
「だって!」
涙を堪えながら。
笑った。
「私、諦めませんから!」
セリウスは。
なぜだか。
泣きそうになった。
「……そうか」
「はい!」
「君は」
セリウスは笑った。
「本当に、嘘が下手だな」
ミリアは。
今度こそ泣いた。
ぽろぽろと。
子どものように。
泣いた。
それでも。
最後まで。
笑おうとしていた。
◇
夏。
セリウスは、味覚を失った。
最初は違和感だった。
紅茶が薄い。
菓子の甘みが分からない。
料理の味付けが変わったのかと思った。
だが。
違った。
ある日の昼食。
セリウスは、何も感じなかった。
甘いも。
辛いも。
苦いも。
何も。
「……そうか」
分かっていた。
神官長から聞かされていた。
――夏には、味覚が失われます。
だから。
驚かなかった。
驚かなかった、はずだった。
◇
「殿下!」
その日も、ミリアはやって来た。
両手いっぱいの籠を抱えて。
「見てください!」
テーブルの上に、次々と皿を並べる。
クッキー。
ケーキ。
サンドイッチ。
スープ。
果物のタルト。
「……これは」
「全部、私が作りました!」
得意げだった。
そして。
少しだけ。
怯えているようにも見えた。
「今日は、何の日だ」
「何の日でもありません!」
「ではなぜ」
「食べてください!」
有無を言わせない勢いだった。
セリウスは、サンドイッチを口に運んだ。
何も。
感じない。
ケーキも。
スープも。
タルトも。
何も。
ただ。
飲み込んでいるだけだった。
「……どうですか」
ミリアが聞いた。
その声は。
震えていた。
セリウスは、答えられなかった。
「……殿下?」
答えなければ。
そう思った。
だが。
嘘はつけなかった。
「……分からない」
ミリアの顔が、固まった。
「全部……?」
「ああ」
「甘いのも……?」
「ああ」
「しょっぱいのも……?」
「ああ」
「……全部?」
セリウスは頷いた。
長い。
長い沈黙だった。
そして。
「……っ」
ミリアが、顔を覆った。
「ごめんなさい……!」
泣き声だった。
「私……!」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「私、治るって言ったのに……!」
セリウスは目を見開いた。
「ミリア」
「嘘つきなんです……!」
彼女は泣いていた。
自分のことのように。
いや。
自分のこと以上に。
「殿下が苦しいのに……!」
その姿を見て。
セリウスは初めて思った。
ああ。
この人は。
本当に。
私に生きてほしいのだ、と。
「……ミリア」
彼女の名を呼ぶ。
ミリアは泣いたまま顔を上げた。
「何も感じなかった」
セリウスは言った。
「だが」
少しだけ。
笑った。
「嬉しかった」
「……え?」
「こんなにたくさん作ったんだろう」
ミリアは固まった。
「……はい」
「何時間かかった」
「……朝の四時から」
セリウスは、思わず笑った。
「馬鹿だな」
ミリアの目から、また涙が溢れた。
「……はい」
「本当に」
「……はい」
「馬鹿だ」
そして。
セリウスは、初めて自分から手を伸ばした。
左手で。
ミリアの頭を撫でた。
「ありがとう」
ミリアは。
声を上げて泣いた。
◇
その日の帰り際。
ミリアは、扉の前で立ち止まった。
「……殿下」
「何だ」
「約束しませんか」
「約束?」
「来年の春」
ミリアは笑った。
泣き腫らした目で。
必死に笑った。
「一緒に花畑を見に行きましょう」
セリウスは。
答えられなかった。
来年の春。
自分はいない。
知っている。
分かっている。
だが。
ミリアは待っていた。
その。
下手な笑顔で。
「……そうだな」
気づけば。
そう答えていた。
「行こう」
ミリアは。
ぱっと顔を輝かせた。
「はい!」
その笑顔を見た時。
セリウスは。
初めて。
生きたいと思った。
来年の春を。
見てみたいと。
心の底から。
◇
秋。
セリウスは、歩けなくなった。
最初は、ほんの少しの違和感だった。
立ち上がる時に、力が入らない。
階段が辛い。
長い廊下を歩くだけで息が切れる。
そして。
ある朝。
足が、動かなかった。
ベッドから起き上がろうとして。
そのまま床に崩れ落ちた。
痛みはなかった。
ただ。
絶望だけがあった。
「……そうか」
床に座り込んだまま。
セリウスは笑った。
分かっていた。
分かっていたのに。
涙が出そうだった。
◇
「殿下!」
その日も。
ミリアはやって来た。
だが。
車椅子に座るセリウスを見た瞬間。
彼女の顔から血の気が引いた。
「……あ」
声が震えていた。
「足が……」
「ああ」
セリウスは笑った。
「終わったらしい」
「終わったなんて言わないでください!」
珍しく。
ミリアが怒った。
怒鳴った。
目に涙を浮かべたまま。
「まだです!」
「……ミリア」
「まだ終わってません!」
彼女は泣いていた。
でも。
怒っていた。
「絶対に!」
言葉が詰まる。
分かっているからだ。
絶対に治らない。
そんなこと。
最初から。
知っていたから。
それでも。
「……絶対に」
ミリアは。
最後まで言い切った。
「絶対に、終わりじゃありません」
セリウスは。
その顔を見ていられなかった。
◇
その日の夜。
王城の庭園で。
セリウスは一人だった。
車椅子の上で。
月を見ていた。
「……来年の春」
来ない。
分かっている。
花畑には行けない。
約束は守れない。
ミリアは。
きっと泣くだろう。
その時だった。
「殿下!」
聞き慣れた声。
振り返る。
ミリアだった。
息を切らしている。
「何をしている」
「迎えに来ました!」
「迎え?」
「はい!」
ミリアは笑った。
「約束を守りに」
意味が分からなかった。
「来年の春だろう」
「待てません!」
「……は?」
「来年の春まで待てません!」
ミリアは。
なぜか得意げだった。
「ですから!」
その時。
庭園の向こう側で。
ぱあっと。
光が灯った。
そして。
また一つ。
また一つ。
無数の灯りが。
夜の庭を照らした。
セリウスは。
目を見開いた。
「……これは」
花だった。
一面の。
花。
春の花。
桜色の花。
黄色い花。
白い花。
見たこともないほど。
たくさんの花が。
夜の庭を埋め尽くしていた。
「……どうして」
ミリアは。
少し恥ずかしそうに笑った。
「庭師さんたちにお願いしました」
「……全部?」
「はい」
「今日?」
「はい!」
セリウスは。
言葉を失った。
馬鹿だ。
本当に。
この子は。
「……馬鹿だな」
ミリアは笑った。
「はい!」
「大馬鹿だ」
「はい!」
「来年まで待てばよかっただろう」
その時。
ミリアの笑顔が。
少しだけ崩れた。
「……待ちたくなかったんです」
小さな声だった。
「もし……」
震えていた。
「もし、来年見られなかったら……」
そこで。
言葉が止まった。
初めてだった。
ミリアが。
"その先"を口にしようとしたのは。
「……だから」
彼女は。
泣きそうな顔で笑った。
「今年、見ましょう」
セリウスは。
花を見た。
そして。
ミリアを見た。
この一年。
彼女はずっと。
嘘をついてきた。
絶対に治る。
大丈夫。
まだ終わりじゃない。
全部。
嘘だ。
でも。
この花だけは。
嘘じゃなかった。
この人は。
本当に。
自分を生かそうとしている。
気づけば。
セリウスは泣いていた。
「……殿下?」
ミリアが慌てた。
「どこか痛いんですか!?」
セリウスは首を横に振った。
「違う」
違った。
ただ。
嬉しかった。
どうしようもなく。
嬉しかった。
「……ありがとう」
ミリアは。
一瞬だけ。
泣きそうな顔をした。
そして。
いつものように笑った。
「どういたしまして!」
その笑顔を見て。
セリウスは思った。
ああ。
私は。
この人を愛しているのだ、と。
◇
冬。
雪が降り始めた頃。
セリウスは、自分の死が近いことを悟った。
朝、目が覚める。
だが。
窓の外の景色が、ぼやけて見えた。
「……そうか」
ついに来た。
神官長から聞いていた。
――最後は、視力が失われます。
覚悟していた。
はずだった。
だが。
怖かった。
もう。
ミリアの顔が見えなくなる。
そのことが。
何よりも怖かった。
◇
「殿下!」
その日も。
ミリアはやって来た。
いつも通り。
明るい声で。
「今日は雪が綺麗ですよ!」
「……そうか」
「はい!」
セリウスは、ぼやける視界の中で、彼女を見た。
輪郭が曖昧だった。
髪の色も。
表情も。
分からない。
「……ミリア」
「はい」
「こっちへ来てくれ」
珍しい言葉だった。
ミリアは目を丸くした。
だが。
すぐに近づいてきた。
「どうしました?」
セリウスは、震える手を伸ばした。
指先が。
彼女の頬に触れた。
温かかった。
「……良かった」
「え?」
「まだ、分かる」
ミリアは何も言わなかった。
「顔は見えない」
セリウスは笑った。
「だが、お前だと分かる」
ぽたり。
何かが手の甲に落ちた。
涙だった。
「……泣いているのか」
「泣いてません」
即答だった。
セリウスは。
少しだけ笑った。
「嘘だな」
「……はい」
今度は認めた。
そして。
声を殺して泣いた。
◇
その夜。
セリウスは眠れなかった。
死が怖かった。
初めてだった。
これまでは。
受け入れていた。
自分は死ぬ。
それで世界が救われる。
それでいい。
そう思っていた。
なのに。
「……嫌だ」
口から漏れた。
死にたくない。
もっと。
もっとミリアと話したい。
笑いたい。
春を見たい。
花を見たい。
生きたい。
その時だった。
「殿下?」
扉の向こうから。
声がした。
ミリアだった。
「……どうした」
「眠れなくて」
「私もだ」
扉が開いた。
ミリアは、ゆっくりと部屋に入ってきた。
そして。
ベッドの横に座った。
「……殿下」
「何だ」
「手を」
セリウスは。
黙って手を差し出した。
ミリアは。
両手で。
大切そうに包み込んだ。
温かかった。
「……ミリア」
「はい」
セリウスは。
初めて。
本音を口にした。
「死にたくない」
沈黙。
長い。
長い沈黙。
そして。
ミリアは。
泣いた。
声を殺して。
泣いた。
「……はい」
それだけだった。
「……生きたい」
セリウスは言った。
「もっと……」
苦しかった。
「もっと、お前といたい」
ミリアは。
もう。
笑えなかった。
ずっと。
嘘をついてきた。
大丈夫。
治る。
絶対に。
でも。
今だけは。
嘘がつけなかった。
「……私もです」
震える声だった。
「私も……」
涙が止まらない。
「もっと……」
嗚咽。
「もっと、一緒にいたいです……」
セリウスは。
初めて。
ミリアの前で泣いた。
その夜。
二人は。
朝まで手を繋いでいた。
◇
そして。
十八歳の誕生日が来た。
外は雪だった。
セリウスには。
もう何も見えなかった。
何も感じなかった。
ただ。
一つだけ。
分かるものがあった。
「……ミリア」
「はい」
手の温もり。
「いるか」
「います」
「……泣いているか」
「泣いてません」
セリウスは。
笑った。
「最後まで……」
息が苦しい。
「嘘つきだな」
ミリアは。
ついに泣き崩れた。
「嫌です……!」
震える声。
「嫌です……!」
「……ミリア」
「まだ死なないでください……!」
嗚咽。
「絶対治るって……!」
涙。
「私……!」
震える。
「まだ……!」
もう。
笑えなかった。
「まだ諦めてません……!」
セリウスは。
静かに笑った。
ああ。
そうか。
この人は。
最後まで。
自分のために。
嘘をついてくれるのか。
「……ありがとう」
ミリアが顔を上げた。
「君の嘘に」
救われた。
その言葉を。
最後に。
セリウス・ノクティスは。
息を引き取った。
◇
「……殿下?」
返事はなかった。
ミリアは、震える手でセリウスの頬に触れた。
温かい。
まだ。
まだ温かい。
「……殿下」
呼ぶ。
返事はない。
「セリウス様」
返事はない。
「……セリウス」
その名を呼んだ瞬間。
全てが終わったのだと、理解してしまった。
「嫌……」
ぽろりと。
涙が落ちた。
「嫌です……」
神官長が。
国王が。
侍従たちが。
部屋へ駆け込んできた。
誰もが泣いていた。
誰もが分かっていた。
世界は救われた。
そして。
一人の王子が死んだのだと。
「……嫌です」
ミリアは、セリウスの手を握った。
冷たくなっていく。
少しずつ。
少しずつ。
この人が。
遠くへ行ってしまう。
「起きてください……」
返事はない。
「だって……」
涙が止まらない。
「だって……約束したじゃないですか……」
春になったら。
一緒に花を見ると。
もっと話すと。
もっと笑うと。
「私は……」
声が震える。
「まだ……」
息ができない。
「まだ、好きって言い足りません……」
誰かが泣いた。
誰かが顔を覆った。
でも。
ミリアは。
セリウスから手を離せなかった。
「私……」
嗚咽。
「まだ、諦めてません……」
ぽたり。
涙が。
セリウスの手の甲に落ちた。
「絶対に治るって……」
また。
涙が落ちる。
「絶対に、一緒に生きられるって……」
また。
涙が落ちる。
「私……」
ミリアは、泣きながら笑った。
いつものように。
下手な笑顔で。
「まだ……嘘をやめてませんから……」
その時だった。
部屋が。
光った。
「……え?」
誰かが息を呑んだ。
窓の外から。
空から。
大地から。
無数の光が舞い上がってくる。
暖かい。
優しい。
春の日差しのような光。
それは。
真っ直ぐに。
セリウスの身体へと降り注いだ。
「これは……!」
神官長が震えた。
「まさか……!」
千年前から。
世界の楔として生き。
世界のために死んでいった。
全ての王たちの。
全ての命の輝き。
その想いが。
今。
一人の王子へ返されていた。
光が。
セリウスを包む。
冷たかった手が。
少しずつ。
温かくなっていく。
「……嘘」
ミリアは。
泣くことも忘れていた。
そして。
ゆっくりと。
セリウスの指が動いた。
「……っ!」
誰かが叫んだ。
国王が立ち上がった。
神官長が泣き崩れた。
そして。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
セリウス・ノクティスは目を開けた。
「……ミリア」
その声を聞いた瞬間。
ミリアの世界は止まった。
「……え」
涙が止まった。
呼吸も止まった。
「……どうして」
セリウスは、ぼんやりと天井を見上げた。
そして。
ゆっくりと。
ミリアを見た。
見えた。
見えていた。
栗色の髪も。
泣き腫らした瞳も。
全部。
「……見える」
セリウスは呟いた。
「ミリアが……見える」
ミリアは。
泣いた。
笑った。
また泣いた。
「……嘘」
震える声。
「そんな……」
セリウスは、自分の手を見た。
動く。
足も。
身体も。
痛みはない。
恐怖もない。
ただ。
生きている。
「……私は」
声が震えた。
「生きているのか」
その言葉を聞いた瞬間。
ミリアは。
堪えていた全てを失った。
「馬鹿……!」
泣きながら。
セリウスに抱きついた。
「大馬鹿です……!」
ぽかぽかと。
胸を叩く。
「心配したんですよ……!」
泣く。
笑う。
また泣く。
「……はい」
セリウスは。
そっと。
ミリアを抱きしめた。
温かい。
生きている。
彼女も。
自分も。
「……ミリア」
「……はい」
「ありがとう」
ミリアは顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだった。
「何がですか……」
セリウスは笑った。
初めて。
本当に。
心の底から笑った。
「君が」
優しく。
愛おしそうに。
「世界で一番、下手な嘘つきだったから」
ミリアは。
一瞬だけ呆然とした。
そして。
声を上げて泣いた。
笑いながら。
泣いた。
その一年後。
二人は結婚した。
後に人々は語る。
世界を救った王の隣には。
世界で一番、嘘が下手な王妃がいたのだと。
そして。
その王は、生涯。
ただ一人の女性だけを愛し続けたのだと。
【あとがき】
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
『余命一年の王子様と、嘘つき令嬢』は、「絶対に叶わないと分かっていても、大切な人のために嘘をつき続けることはできるのか」というテーマから生まれた物語です。
セリウスは、自分の死を受け入れていました。
けれどミリアだけは、最後まで諦めませんでした。
「絶対に治ります」
その言葉は、誰よりもミリア自身が嘘だと知っていました。
それでも彼女は、その嘘をつき続けました。
そしてセリウスは、そんな彼女の嘘に救われ、生きたいと願うようになりました。
最後に奇跡が起きたのは、世界を救った王子へのご褒美でもありますが、何よりも「最後まで諦めなかった二人」へのご褒美だったのだと思っています。
少しでも、セリウスとミリアの一年が皆様の心に残っていたら嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




