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第百話 私が選んだ人生

 王宮の門をくぐった瞬間、私たちを迎えたのは、静寂だった。


 誰もいないからではない。


 むしろ、逆である。


 大臣。貴族。騎士。侍従。侍女。


 数えるのを諦めたくなるほどの人々が、広間の両側にずらりと並び、一斉に頭を下げている。

 人が多すぎて、誰も声を発しないことが、かえって不気味だった。


「おかあさま。」


 リアムが私の手を引いた。


「みんな、どうしたの?」


「陛下のお帰りを、お迎えしているのよ。」


「りあむも?」


「はい。リアムにも挨拶をしています。」


 ヴィルヘルムが答えた。


 リアムは少し考えた。

 そして、木彫りのウサギを胸に抱いたまま、深々と頭を下げた。


「ただいま。」


 広間が、さらに静かになった。


 どうするのだろう。

 王の子供から「ただいま」と言われた場合、どう返すのが正解なのか。


 王宮礼法の授業でも、そのような事例は習わなかった。


 やがて、最前列に立っていた老大臣が、震える声で答えた。


「お、お帰りなさいませ。」


 その言葉を皮切りに、広間中から声が上がった。


「お帰りなさいませ、リアム殿下!」


 リアムが目を丸くする。


「うさぎも。」


 老大臣は一瞬だけ固まった。


「ウ、ウサギ様も、お帰りなさいませ。」


 ウサギに敬称がついた。

 この先が不安である。


「エーベルハルト様。」


 私は後ろに控えていた彼を振り返った。


「はい。」


「ここには、何人いるのですか。」


「おおよそ百二十名ほどです。」


「最低限のお迎えでは?」


「最低限でございます。」


 ……この人の最低限は、やはり信用してはいけない。


 歓迎の挨拶が一通り終わると、私とリアムは居住区画へ案内された。

 ヴィルヘルムの私室に隣接しているという。


 嫌な予感はしていた。

 しかし、実際に扉が開かれた瞬間、予感よりも現実の方が大きかった。


 広い。

 とにかく、広い。


 寝室。応接室。書斎。衣装部屋。浴室。リアムの子供部屋。

 さらに、何に使うのか分からない部屋が三つ。


 港町の家が、少なくとも十軒は入りそうである。


 窓辺には、私が持ってきた小さな鉢が置かれていた。

 広大な部屋の中で、そこだけが妙に慎ましい。


 リアムは早速、子供部屋を走り回っている。


「おかあさま、べっど、おおきい!」


「走ると転びますよ。」


「うさぎの、べっどもある!」


 見ると、リアムの寝台の横に、木彫りのウサギ専用らしき小さな寝台まで用意されていた。


 私はヴィルヘルムを見た。


「……私は知りません。」


「まだ何も聞いていません。」


「しかし、疑っている顔でしたので。」


 顔に出ていたらしい。

 侍女長が、少し誇らしげに説明した。


「こちらは、王妃の間として代々使用されてきた区画でございます。」


「王妃の間。」


「はい。」


 私はヴィルヘルムを見た。

 彼は視線を逸らさなかった。


「私はまだ、王妃になるとは答えていません。」


「はい。」


「それなのに、ここへ?」


「ほかに私の私室と直接つながっている部屋がありませんでしたので。」


「それが理由ですか。」


「最も重要な理由です。」


 悪びれる様子がない。


「この部屋を整え始めたのは、いつですか。」


「五年前です。」


 私は目を閉じた。


 深呼吸する。

 怒ってはいけない。


 いや、怒ってもよい気がする。


「私が姿を消す前ですね。」


「はい。」


「私がここへ来ると決める前です。」


「はい。」


「私があなたと結婚するかもしれないとすら、考えていなかった頃です。」


「私は考えていました。」


「あなたの考えは聞いていません。」


「はい。」


 侍女たちは、見事なほど無表情を保っている。

 しかし、全員が耳を澄ませていることは分かった。


 私は眉間を押さえた。


「条件があります。」


「はい。」


「私の許可なく、この区画へ入らないこと。」


「はい。」


「家具や使用人を勝手に増やさないこと。」


「はい。」


「リアムの生活を、王宮の儀礼より優先すること。」


「はい。」


「港町と森の家へ、私が望んだ時には帰れるようにすること。」


「はい。」


「私が王妃になるかどうかは、私が決めること。」


「もちろんです。」


「返事が素直すぎて、信用してよいのか不安です。」


「すべて守ります。」


 その目は真剣だった。


 少なくとも、以前のように私のためだと勝手に決め、勝手に先回りするつもりはないのだろう。


 ……部屋は先回りして作られていたが。

 そこは五年前の罪として、いったん保留にしておこう。


「びる。」


 リアムが、隣室へ続く扉の前で呼んだ。


「ここ、びるのおへや?」


「はい。」


「いっしょね。」


「はい。」


 ヴィルヘルムが、見るからに嬉しそうな顔をする。


「ただし、勝手に入ってきてはいけません。」


 私が言うと、すぐに表情を引き締めた。


「はい。」


「びる、だめ?」


「扉を叩いてからです。」


「とんとん、する?」


「そうよ。」


 リアムは早速、開いている扉を拳で叩いた。


「とんとん。びる、いる?」


「います。」


「はいって、いい?」


「もちろんです。」


「私はまだ、許可していません。」


 王と王子が同時にこちらを見た。

 どうして私が悪いような空気になるのだろう。


 何とか部屋の問題を片づけ、少し休めると思ったのも束の間だった。


 ヴィルヘルムの執務室へ顔を出すと、机の上に書類の山があった。


 山。

 比喩ではない。


 机の向こうに座るヴィルヘルムの顔が、半分隠れている。


「これは何ですか。」


「滞在中に保留となった案件です。」


 エーベルハルトが答えた。


「この量を、どうするのですか。」


「今夜中にできるだけ処理します。」


 ヴィルヘルムが当然のように言った。


「しません。」


「しかし。」


「移動で疲れているはずです。今夜は眠ります。」


「急ぎの案件があります。」


「全部に至急と書いてあります。」


 赤い文字で、至急。

 最重要。

 緊急。

 早急なご判断を。

 即時のご裁可を。


 世の中には、こんなにも急ぐことがあるのだろうか。


 私は一番上の書類を取った。


 王都南部の橋の補修について。


 読む。

 長い。

 非常に長い。


 橋の歴史から始まり、周辺の景観、過去の補修記録、使われた石材の産地まで記載されている。


 肝心の補修費用は、最後から二枚目に小さく書かれていた。


「結論が遠い。」


 私は次の書類を取った。

 同じ橋について、今度は財務局からの報告である。


 さらに次。

 建設局。


 もう一つ。

 王都管理局。


「同じ橋について、三つの部署から別々の書類が来ています。」


「管轄が異なりますので。」


 若い事務官が、おそるおそる答えた。


「管轄が異なっても、橋は一つです。」


「はい。」


「三つの部署で協議し、結論を一つにまとめてください。」


「しかし、これまでは……。」


「慣例を守るために、王が同じ橋について三度判断するのですか。」


 事務官が黙った。

 私は書類を捲りながら、それらを四つの山に分け始めた。


「これは王の決裁が必要。こちらは担当大臣に委任。これは情報不足ですので差し戻し。こちらは緊急性がありません。」


 老大臣の一人が、戸惑ったように声を上げた。


「王宮に着かれて、すぐにご決断が可能なのですか。」


 私は書類から顔を上げた。


「私は今まで、自分の能力について過信したことも、疑念を持ったこともありません。私ができると言えば、できます。」


「し、しかし……。」


「盤上の読みで私に勝てるのは、あそこに座っている方くらいです。」


 私はヴィルヘルムを指した。


 突然指を差されたヴィルヘルムは、一瞬目を丸くした。

 そして、ふっと笑った。


「確かにそうですね。」


「嫌味ですか。」


「いえ。事実ですので。」


 時間ができ次第、チェス盤を運んでもらおう。


 絶対に鼻柱を折ってやる。


 私は心の覚書に、そう書きつけた。


「それから、今後の報告書には、最初に結論を書いてください。」


 私は橋の書類を持ち上げた。


「理由は三点まで。詳細な資料は必ず別紙として分ける。誰が作成し、誰が確認したか、決裁ルートは表紙に記載。複数の部署が関係する場合は、協議した上で一つにまとめること。その際も、とりまとめ部署として責任者の名前を記載すること。」


 事務官が、書き留め始める。


「王にしか判断できないことと、王でなくても判断できることを分けなければなりません。何もかも王へ回すのは、慎重なのではなく、責任を押しつけているだけです。」


 何人かの大臣が、気まずそうに目を逸らした。


 当たりらしい。


 私はヴィルヘルムを見た。


「あなたもです。」


「私も?」


「育成の観点や予定外の不在となった場合の備えとして、最高責任者がなんでもかんでも抱え込む構造はいずれ組織の崩壊を招きます。自分でやるのが一番早くて正確だとしても、です。部下へ任せ、間違いがあればまた仕組みを直す。まず心を入れ替えてください。」


「はい。」


「食事は抜かず、三食必ず食べる。」


「はい。」


「通常の執務を深夜まで行わない。」


「はい。」


「一週間に半日は、予定を入れない。」


「はい。」


「一日一回はリアムと食事をする時間を確保する。」


「はい。」


「予定を変える時は。」


「報告、連絡、相談をします。」


 よろしい。


 理解が早い。


 私は満足して頷いた。


「では、空いた時間はすべてレベッカとリアムのために使います。」


「すべて使う必要はありません。」


「そういう意味ではなかったのですか。」


「違います。」


 王の業務を減らすより、王の執着心を適切な量に調整する方が難しいかもしれない。


 その日のうちに、書類の山は半分以下になった。


 本当に今夜中に王が判断しなければならないものは、わずか十二件。

 残りは各部署へ返され、王の決裁が必要な理由を明記した上で、再提出することになった。


 エーベルハルトは、整えられた机を見つめていた。


「何か問題がありますか。」


「いえ。」


 彼は目元を押さえた。


「陛下が、本日中に眠られる可能性が見えてきたことに、少々感動しております。」


「今まで、どのように働いていたのですか。」


「聞けば、レベッカ様は激怒されるでしょうから。」


 エーベルハルトは、目線を泳がせた。


 相当ひどかったらしい。


 私はヴィルヘルムを見た。


「……今後、改善します。」


「必ずです。」


「はい。」


 よい返事である。


 その後も私は、王宮で手持ち無沙汰になることはなかった。


 国外から届く書簡の翻訳。

 旧エルセリア領からの報告書の確認。

 若い事務官たちへの語学指導。

 資料室に積み上げられた記録の整理。


 そして、カルラから届く大量の課題の添削。


 五枚以上と伝えた反省文は、十三枚あった。

 なぜこんなに増えたのだろう。


 最後には、


『先生がいなくなって寂しいという気持ちについて』


 という、今回のハンカチとは何の関係もない文章まで付け加えられていた。


 私は細かな訂正を入れた後、最後に、


『よくできました。ただし、今後はハンカチを落とさないこと』


 と書いた。


 数日後、カルラから、


『善処します』


 という返事が届いた。


 誰の影響だろう。

 ……あまり考えたくない。


 私が王宮の仕事に関わり始めると、当然、反対する者もいた。


 公爵令嬢という地位は戻されたにせよ、正式な役職もない女性が、王の執務に口を出すべきではない。

 王妃でもない者が、王宮の仕組みを変えるべきではない。


 そのような声は、私の耳にも入ってきた。


 だが、私は気にしなかった。


 正確には、気にはなったが、止まるほどの理由にはならなかった。


「私は、役に立つからここに置いてもらおうとしているのではありません。」


 ある晩、ヴィルヘルムへ言った。


「はい。」


「王妃になるために、能力を証明しようとしているわけでもありません。」


「分かっています。」


「私が、やりたいから、やっているのです。」


「はい。」


「迷惑なら、言ってください。」


「迷惑ではありません。」


 ヴィルヘルムは書類から目を上げた。


「……ただ。本心としては、何もしなくて良いからずっと私が気配を感じられる場所に居てほしいという思いがあります。もちろん、お願いではありません、ただの願望です。」


「思っていても口に出さないでください。重いです。」


「すみません。」


「褒めていません。微笑まないでください。」


「はい。」


 しかし、その言葉に少し安堵したことは、言わないでおいた。


 能力があるから必要とされる。

 役に立つから居場所を与えられる。


 私はずっと、そうでなければ愛されないと思っていた。


 けれど、ここでは違う。


 働いてもよい。

 働かなくてもよい。


 王妃になってもよい。

 ならなくてもよい。


 私が決めるまで、ヴィルヘルムは待つと言った。


 だから私は、自分のやりたいようにやりながら、自分の望むことを考えることができた。


 王宮へ来て三か月ほど経った頃、私はマーサからもらった種をまくことにした。


 庭師たちは、王宮の庭の中でも最も日当たりのよい一角を用意してくれた。


 完璧に耕され、石一つない、柔らかな土だった。


「これでは、私がすることがありません。」


 私が困ったように言うと、庭師長は青ざめた。


「も、申し訳ございません。」


「謝らなくてよいのです。ただ、少しだけ未完成の場所をいただけませんか。」


「未完成を?」


「はい。自分たちで耕します。」


 庭師長は、王宮へ来てから最も理解し難いものを見る顔をした。


 それでも、私の希望どおり、小さな一角だけ手を入れずに残してくれた。


 リアムには小さな鍬を。

 ヴィルヘルムには大人用の鍬を持たせる。


「陛下もなさるのですか。」


 庭師長が尋ねた。


「家族行事ですので。」


 ヴィルヘルムは真剣だった。


 国王が土を耕すことが家族行事なのかは分からない。

 しかし、本人がそう言うなら、そうなのだろう。


 ヴィルヘルムが鍬を土へ入れる。


 動きは力強い。

 しかし、雑だった。


「そこ、雑です。」


「はい。」


「根が残っています。」


「はい。」


「腰が高いです。」


「はい。」


 五年前、マーサに言われた言葉を、そのまま返す。


 少し離れたところで、エーベルハルトが口元を押さえていた。


「何か?」


「いえ。陛下へそのような指導ができる方が現れたことに、感動しております。」


 この人は最近、よく感動している。


 ストレスが減れば、毛髪の寂しさも少しは解消されるのだろうか。


 ……やめよう。私は美容師でも医師でもない。


「おかあさま、できた!」


 リアムが鍬を持ち上げた。


 土には、小さな穴が一つ開いている。


「上手よ。」


「うさぎも、する?」


「ウサギには見ていてもらいましょう。」


 木彫りのウサギを、畝の前へ置く。


 リアムはその横に、小さな匙も置いた。


「うさぎ、かんとく。」


「適任ですね。」


 ヴィルヘルムが頷く。


 こうして王宮の完璧な庭に、不格好な畝が一つ生まれた。


 種をまく。

 土をかぶせる。

 リアムが水をやる。


 勢いがよすぎて、畝だけでなく、ヴィルヘルムの靴まで濡れた。


「びる、ごめんね。」


「問題ありません。」


「問題があります。水をやりすぎです。」


「びるにも、みず、いる?」


「人間は足から水を吸いません。」


「そうなの?」


「そうよ。」


 子育てには、想像もしなかった知識を教える機会がある。


 ヴィルヘルムは濡れた靴のまま、畝を眺めていた。


 その横顔は穏やかだった。

 王宮へ来た頃より、顔色もよい。


 食事を取るようになった。

 眠るようになった。

 部下へ仕事を任せるようになった。


 そして、できる限り、私とリアムと一緒に食事を食べるようになった。


 完璧ではない。

 時には深夜まで仕事をする。

 予定を詰め込み、私に叱られる。

 食事中に書類へ手を伸ばしかけ、リアムに取り上げられる。


 それでも、少しずつ変わっていた。


 私も同じだった。


 数週間後。


 畝から、小さな芽が出た。

 何の芽かは、まだ分からない。


 けれど、柔らかな双葉が、朝の光を受けていた。


「出ましたね。」


 隣でヴィルヘルムが言った。


「はい。」


「マーサへ報告を。」


「もちろんです。」


 私は芽の前にしゃがみ込んだ。


 土の中に埋めた小さな種が、時間をかけ、根を伸ばし、ようやく地上へ顔を出した。


 急かしても、芽は出ない。

 水を与えすぎても、枯れてしまう。


 できることをして、信じて待つしかない。


 ヴィルヘルムも同じなのかもしれない。


 彼は、ずっと私を待っていた。


 ……いや。


 正確には、四年間、国を越えて捜し回ったので、静かに待っていたとは言い難い。


 しかし、少なくとも私が戻ってからは、私の答えを急かさなかった。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


 私は立ち上がった。


「決めました。」


 彼の表情が変わった。


 普段なら何事にも動じない男が、息を止めたのが分かった。


「あなたと結婚します。」


 ヴィルヘルムは動かなかった。


 瞬きもしない。


「聞こえましたか。」


「はい。」


「返事は?」


「もう一度、言っていただけますか。」


「嫌です。」


「では、記録を残しても。」


「事務官を呼ばないでください。」


「エーベルハルトだけでも。」


「駄目です。」


 私はため息をついた。


 しかし、笑っていた。


「ただし、条件があります。」


「何でも。」


「いつも言っていますが、簡単に何でもと言わないでください。まずは内容を聞いてから判断するのです。」


「はい。」


「まず、一人で何もかも背負わないこと。」


「はい。」


「無理に働かず、健康に気を配ること。」


「はい。」


「リアムを、政治の道具に使わせないこと。」


「誓います。」


「私の仕事を尊重すること。」


「もちろんです。」


「家族で食事をする時間を、できるだけ守ること。」


「はい。」


「そして、私への執着は加減すること。」


「…………は、い。」

 

 最後だけ大分間が開いたが、まあよしとする。


 誓約書はないけれど、この人のことだ。


 全力で約束を守ろうとしてくれる。


 それはもう、信じられる。


 ヴィルヘルムは国の最重要課題を決断する時よりも真剣な顔で、私の前に跪いた。


「レベッカ。」


 彼が私の手を取る。


「償うためではありません。」


 その指が、僅かに震えていた。


「あなたと一緒に生きたい。嬉しい時も、苦しい時も、あなたとリアムのそばにいたい。」


 澄んだ碧眼が、真っ直ぐに私を見上げる。


「私と結婚してください。」


 覚悟していたはずなのに、胸がいっぱいになった。


 今度は、誰かに決められた婚姻ではない。

 家のためでもない。

 国のためでもない。

 認められるためでも、見捨てられないためでもない。


 私が選ぶのだ。


「はい。」


 私は彼の手を握り返した。


「一緒に生きましょう。」


 ヴィルヘルムは立ち上がると、私を抱きしめた。


 強い腕。

 けれど、苦しくはない。


 あの日、港で抱きしめられた時とは違う。


 もう、私が消えることを恐れているだけの腕ではなかった。


 私と未来を歩こうとする人の腕だった。


「おかあさま、おとうさま。」


 声がして、私たちは同時に振り返った。


 リアムがヴィルヘルムを「おとうさま」と呼び始めたのは、王宮へ来て二か月ほど経った頃だった。


 朝食の席で突然そう呼ばれたヴィルヘルムは書類を落とし、その日は一日中、傍目から見ても隠せないほど機嫌がよかった。


 私たちを呼んだリアムは、ウサギを抱いて不思議そうにこちらを見ていた。


「なにしてるの?」


「相談です。」


 ヴィルヘルムが答えた。


「だっこ?」


「はい。」


「おとうさま、りあむも!」


 当然のように両腕を広げる。

 彼はリアムを抱き上げ、私たちは三人で抱き合った。


 ウサギも挟まっている。


「いっしょね。」


「はい。」


「ずっと?」


 ヴィルヘルムが、私を見た。

 私は小さく笑った。


「できるだけ長く、いっしょよ。」


 リアムは満足そうに頷いた。



 結婚式は、私の想像より、はるかに大がかりなものになった。


 ヴィルヘルムは小さくてもよいと言った。

 エーベルハルトも、できる限り簡素にすると約束した。


 ……誰も信用しなかった私が、やはり正しかったのだ。


 王都中に鐘が鳴り響き、街道には花が敷かれ、国内外から大勢の貴族が集まった。


 これが簡素なら、盛大な式とは一体どのようなものなのだろう。


 私はこの国の言葉の定義を、一度しっかり見直した方がいいのかもしれない。


 カルラも、父親とともにやって来た。


「先生!」


「カルラさん。」


「課題を持ってまいりました。」


「結婚式に?」


「先生から、期限は守るようにと。」


 正しい。

 正しいが、花嫁の控室へ二十枚の反省文を持ってくる生徒は、世界中を探しても彼女くらいだろう。


「あと、お祝いです。」


 カルラは、美しく刺繍されたハンカチを差し出した。


 細い紐がついている。

 今度は落とさないように、ということだろう。


 素晴らしい。自慢の生徒である。


「素敵ですね。」


「これでもう二度と落としませんから!」


「ハンカチ以外には付けなくて大丈夫ですか。」


「先生。」


 カルラは頬を膨らませた。


 その後ろで、マーサが笑っている。


「似合ってるじゃないか。」


「ありがとうございます。」


「ちゃんと自分で決めたんだね。」


「はい。」


「なら、いい。」


 マーサはそれだけ言うと、私を強く抱きしめた。


 式の会場には、ローレンスも、アンナも、港町でお世話になった人々もいる。


 私は、一人ではなかった。

 こんなにたくさんの人たちに波をもらって、ここまで進んで来れたのだ。


 ずっと。

 気付かなかっただけで。



 私はヴィルヘルムと結婚し、王妃となった。


 けれど、それで私が別の人間になったわけではない。


 畑にも出た。

 翻訳もした。

 若い事務官たちを指導し、長すぎる報告書を差し戻した。

 カルラの課題も添削した。


 しばらくして、やっと身辺が落ち着いてきた頃。


 私はヴィルヘルムと久しぶりにチェス盤を囲んでいた。


 リアムは最近少しずつ、一人で眠れるようになっていた。


 これからは少しずつこうした夫婦だけの時間が持てるようになるかもしれない。


 初回は、やはり私が負けてしまった。


「もう一度です。」


「夜も遅いので、また明日にしましょう。」


「逃げるのですか。」


「睡眠時間を守るように言ったのは、レベッカです。」


 自分の働き方改革に足元をすくわれた。悔しい。


 次は絶対に勝つ。


「……それに、そろそろチェスの駒ではなく、あなたに触れたい。」


「正直すぎませんか。」


 私は赤らんだ頬を隠すように、彼の唇に口づけた。


 ……決めた。

 負けた腹いせに、思いっきり恥ずかしがらせてやる。



 夜も更け、彼の腕の中で心地よい疲れに微睡んでいる時、ふっと思い出した。


 ヴィルヘルムから微かな寝息が聞こえるのを確認し、枕の下を探って、一冊の本を取り出す。


 ――最近、王都で私とヴィルヘルムを題材にした書物や演劇が流行しているらしい。


 そう侍女から聞いて、早速買ってきてもらったものだ。


 昨日読もうと思って枕の下に置いて、忘れていた。


 表紙を確認する。


 本の題名は、『公爵令嬢の悲劇と華麗なる復活』。


 まあ、妥当といえば、妥当なのかもしれない。


 悲劇もあった。

 たしかに復活もした。


 華麗だったかは、少し疑問だ。


 ……しかし、前世で日本のサブカルチャーに親しんでいた私からすれば、いささか題名のパンチが弱いのが気になる。


 もっとこう。


 気持ちにぐっと寄り添うような。


 中身が気になるタイトルがいい。


 私は本を閉じ、隣を見た。


 ヴィルヘルムから静かで規則的な息遣いが聞こえる。


 眠っていても、憎らしいほど整った顔。


 そして、眠っている間すら逃がさないとでもいうように、私の腰をしっかりと抱いていた。


 ――断罪したくせに、とんでもない執念で追いかけてきた人。


 ――何度も何度も追い返しても、翌日には現れた人。


 柵を直し。

 屋根を心配し。

 いつの間にか私の心を掴み。

 国境も越えて。

 私を捜し続けた人。


 彼の恋煩いが実に十年以上に渡っていたと聞いた時には、その執着心と根性に恐れをなしたほどだ。


 彼の嫌味なほど整った鼻先をそっと撫でる。


 ――彼との恋愛物語。


 いや、単なる恋愛というにはあまりにも複雑で遠回りだった。


 何度も怒り、泣き、絶望し、立ち直ってはまた泣かされ。


 ……どうせなら彼に対する意趣返しになるような題が良いだろうか。


 私はこれまで、論文や手紙は嫌というほど書いてきた。


 小説や演劇は書いたことがない。


 でも、もし。


 もしも、これから私が彼と自分の物語を描くとしたら。



 そうだ。


 私が作者なら、タイトルはこう名付けよう。



『私をざまあしたやつがなぜか執着してくる。』  完。

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