ガラスの恋
初めて交わした口づけは、甘酸っぱい痛みを伴うものだった。
僕はどこかで、こんな日がくるのではないかと思っていた。だけど、それをフォルトゥーナに伝えることができなかった。彼女を泣かせたくなかったのだ。
「ビイェ! どこにいるの? ねえ、ビイェ」
その結果がこれだ。泣きわめく彼女をただ抱きしめることだけが、今の僕にできる唯一のことだった。
フォルトゥーナはいつだって感情豊かだ。笑ったり怒ったり拗ねたりと、くるくると表情が変わる。それでもこんな風に泣いたことはなかった。彼女はとにかく涙を流さない子だった。生まれたときから親に冷遇されていたせいなのかもしれない。悲しみの感情がすごく希薄だった。
その彼女がこんなにも悲しんで泣いている。そのことに胸が痛んだ。
「ティナ、泣かないで。ティナ」
「なんで、なんで……ビイェが消えちゃった……どこにもいない……なんで」
フォルトゥーナの周りには相変わらず〝彼〟が飛んでいる。その姿が、僕には見えている。つまり、そういうことなんだろうと、僕は悟った。
「ティナ、落ち着いて聞いて。彼は消えたわけじゃない。非常に残念なことなんだけど……ティナが彼を見ることができなくなったんだ」
「え……」
フォルトゥーナはその事実に驚き、目を見開いた。大きな目から、大粒の涙がこぼれ落ちている。
「ティナは僕のように視える人じゃない。彼だけが特別だった。だからもしかしたらこういう日が、いつかくるんじゃないかと……そう思っていた」
そう。これはよくあることだ。子どもの頃に見えていたものが大人になったら見えなくなる。そんな実例は、本当によくあることだった。ただ、こんな急に別れが訪れるとは誰も思っていなかったけれど。
「……なん、で……」
「それはわからない」
「シリィには見えてる?」
「……そう、だね」
「声は聞こえる?」
「聞こえるよ」
「私は……もう一度、見ることはできないの?」
僕は〝彼〟に視線を向けた。〝彼〟は静かに首を振った。
「無理みたい」
フォルトゥーナはその場に崩れ落ちた。
彼女は、彼がいる世界しか知らない。彼がいなくなった世界がやってくるなんて想像もしていなかったはずだ。彼女は今、どういう気持ちなのだろうか。
「ティナ……」
フォルトゥーナの叫びに似た泣き声が、熱い夏の風に流されて遠くまで響いていた。
僕は泣きじゃくるフォルトゥーナを抱きしめたまま、目の前にいる男を睨みつけた。彼は困ったように笑いながら「ごめんナ」と言った。
彼は知っていたのだ。いつかこんな日がくることを。彼は知っていたのだ。僕だけに〝彼〟が視える日がくることを。
その日、彼女は日暮れまでずっと泣いており、あたりが暗くなってきたことに気がついてようやく泣き止んだ。
「帰らないと、みんな心配しちゃう……」
「目が真っ赤だから、どのみち心配するかもね」
「え、嘘……」
「大丈夫、僕に泣かされたことすればいいよ」
そのまま伝えたら、家族は僕に不信感を抱くかもしれないけど、そのくらいで済むなら僕にとっては些細なことだった。
家に戻ったら、案の定家族の目は厳しかったけど、僕はそれを甘んじて受け入れた。
*
結局、夏のバカンスが終わる三日前までフォルトゥーナは我が家にいた。それ以上の滞在は日程的に無理だったこともあるし、フォルトゥーナも学校を休むつもりはないようだった。
「それに下手に休んで両親に何か言われるのは面倒だもの」
「あの人たち、なんであのまま放置されているんだろうね?」
「特別害がないからじゃない? あの人たち、ろくでもない人間だけど散財癖はないのよね。お金には執着してないのよ。色恋にはおぼれているみたいだけど。国家転覆だとか、犯罪だとか、そういう大きな事を成せるような人じゃないの。つまり、取るに足らない小者というわけね」
時々、情緒不安定になって泣き出してしまうフォルトゥーナだけど、学校が始まる前日にはいつもの調子を取り戻しつつあった。彼のことはいまだに諦めていないようだが、視る力は後から備わることはないし、何より彼がそれを望んでいなかった。
「どうしてティナに姿を見せないんだ?」
「見せないンじゃない。魔法が解けたダケだ。だから見ることも見せることもできなくなった」
「じゃあ、あえて視せていたということ?」
「そうだ」
「なんでそんなこと……」
彼はすごく遠くを見つめて、大きく息を吐いた。そしてしみじみとこうつぶやいた。
「アンタが視える人で良かった」
その真意はわからない。わからないけど、僕も今ほど〝視える人〟で良かったと思ったことはなかった。
「視える、と言っても光の玉みたいなものだったんだけどね」
嫌味を込めてそう言うと、彼は肩をすくめた。その顔が妙に鼻につき、僕は「別にアンタの顔なんて見たくなかったのにね」とひとりごちた。
「今までは俺が意図的にそうしてたンだ」
「そうだと思っていた」
自慢じゃないが、僕が視えるのは幽霊だけじゃない。むしろ、幽霊は副産物みたいなものだ。精霊や妖精などの姿を視ること僕のギフトだった。
「アンタはうすうす気がついていると思うが……」
「君はティナの古い知り合いなんでしょ? ティナは覚えていないようだけど」
「前世の記憶を持って生まれンのは稀だからな。仕方がないサ」
彼はこれまでに何度こんな思いをしてきたのだろうか。きっとこれが初めてではない気がした。なぜなら、彼の顔には強い諦めが見えたからだ。
「君はそれでいいの?」
「イイも悪いもない。これが俺の選んだ生き方だ。かつて、天才魔導士だった俺がネ。そういう魔法をかけたんだゼ」
俺はレールから降りたんだ、彼はそう言った。
そこで僕は小さな子供のころに見た、ルノー伯爵家のファミリーツリーの存在を思い出した。〝彼〟の姿が見えるようになってからずっと思っていた、「どこかで見たことがある」と。その答えを、見つけたかもしれない。
「俺のことが視えなくなったティケのこと、頼むナ」
「わかってる。わかっているけど、一つだけ確認させてほしい」
「なンだ?」
「君はこれからもティナの側にいるわけ?」
「当たり前だロ」
「つまり、この先ずっと僕は君に見られている、というわけだ?」
「まあ、そうなるナ。例えばティケとシリウスが破廉恥なことをしていても俺はそれをばっちり見ていることになる」
それはなんていう罰ゲームなんだ? 僕のプライベートはどこへ消えたんだ? 嫌すぎる。
「そこは気を利かせて席を外してほしいところだけど」
「冗談に決まっているだロ。俺だって見たくないゼ。だけど、俺は最期までティケを見守るのが生きがいなんだ。それは許してくれ」
強く手を握りしめ、今にも泣きだしそうな顔をした彼の心からの叫びに僕は静かにうなずいだ。
「アナタはひどく不器用な人だね」
でもその愛の強さは、嫌いじゃない。
*
親愛なるビイェへ
こういう日が来ること、ビイェは知っていたんでしょう?
教えてくれればよかったのに。そしたら私は覚悟だって出来た。
突然の別れはあまりにもツラいよ。きちんとお別れだって言いたかったよ。
だって生まれたときからずっと一緒にいるんだよ。
何か一言くらいあったって良かったじゃない。
悲しいよ。淋しいよ。ビイェに会いたいよ。
でもね、やっと、やっとね。前を向いて歩けるようになったよ。
シリウスとね、色々と調べたの。それでね、分かったの。
だから似ていてんだね、ビイェとシリウスは。
同じではないけど、ルーツは感じたよ。
ビイェが視えなくなった理由も分かった。分かったけど、言うね。
きっとビイェは笑うと思う。そしてそれは違うって言うと思う。
でもね、私の気持ちは私のものだよ。
ビイェの魔法ではそうではなかったのかもしれないけど、
誰がなんと言おうとね、
私の初恋はアナタでした。
アナタのことが大好きです。
これは間違いなく恋だと、胸を張って言える。
いつか、またアナタに出会えると、私たちは信じてる。
だから、それまでバイバイ。
シリウスと二人で、いつまでも待ってるから。
*
私は羽ペンを置くと、窓を開けた。部屋に舞い込んできた風は、秋の匂いがする。
いつの間にか終わっていた夏を想うと胸が痛い。すごく遠い記憶なようで、ごく最近の出来事なのだ。忘れらないし、忘れたくない。彼は間違いなくそこに存在していた、私の大切な人だった。
その人を思って手紙を書いた。
何日もかけて、何度も書き直して、やっとの思いで書き終えた手紙をもう一度読み返し、ようやく封蝋で閉じた。
その封筒をいつもビイェが座っていた窓辺に置いた。
きっと、彼は読んでくれる。そう思って…──




