この人には
手首を握られる感覚。
身体に伸し掛かる重さ。
耳の奥にこびりついた荒い息遣い。
目を開けると真っ暗。動悸と息切れで頭がぐるぐるする。これが寝起きのせいか、目眩のせいか分からない。
横を見ると、ぼんやりと光る幽子さんと目が合う。右手を握って心配そうに私を見ている。
「……ありがとう。幽子さん」
朝4時。出勤で起きる時間ではないし、日の出の時間でもない。
以前なら間違いなく起床時間まで寝直す時間に、身体を起こしてベッドから降りる。
寝汗でびしょ濡れの身体を流すために浴室へ向かい、途中にある洗濯機にパジャマと下着を放り込む。隣室に音が響きにくい造りのアパートだけど、スイッチは日が昇ってから入れる。
シャワーを浴びる。軽く洗えば済むのに、皮膚に何かが残っている気がして、少し長く流す。浴室から出て、ベッドに腰掛けながらタオルで髪の水気を取る。ドライヤーを使いたいけど音が大きいからまだ出来ない。
そろそろ日が昇るのか、幽子さんがカーテンを開けて窓辺に座る。その姿を、タオルで髪を乾かしながら眺める。
これがここ最近の朝。
準備は終わる。けれど、この朝はこれからも続くのかもしれない。明日も、明後日も。
余計なことを考えないように、今日の仕事を頭に並べる。出勤の準備を始めた。
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今日の仕事は全員で三十分ほど残業して終わった。
従業員の一人が「キリのいいところまで片付けて皆で帰ろう」と言っていた。職場の空気は『早く帰りたい』から『皆で終わらせよう』に変わっていた。
上司を横目で見ると、パソコンを見たままだが口元がにこやかに見える。こういう職場の雰囲気は、きっと上司が求めていたものなんだろうな。
他の従業員が帰ったあと、上司に声を掛けた。
「明日は出勤ですか?」
「いや、急ぎの仕事は片付いたし、本当に休むよ。……よし、そろそろ帰ろうか」
休日も出勤して仕事するほど真面目な上司。倒れられたら困るし、ちゃんと休んでくれるなら安心だ。
「あ、あの……少しお話してもいいですか?」
立ち上がった上司が、また椅子に座り直す。
「うん、いいよ。どうした?」
今まで誰にも話さなかった部屋のこと。言う必要のないことなのに、なぜかこの人には聞いてほしかった。
私は引っ越してから頃のこと、そして、あの夜のことを話した。
「あのとき私は、元カレが、その、えっと……行為に、至る前に、一緒に住んでる幽霊に助けられたんです」
最初の方は淡々と言えた。でも口に出すのが恥ずかしい内容になったら、俯きながら話した。上司は何も言わず、相槌を打ちながら聞いていた。
「頭がおかしくなったと思われるかもしれませんが」
「……うん、たしかに、信じにくいな。でもな」
?
「キミはいま、前と同じように働いてくれている。それが事実だ。キミが居てくれるから、僕は安心して仕事が出来るし、それで給料が貰えている。幽霊が助けたのはキミだけじゃないって、そう思うよ」
聞いてくれた上司にお辞儀をする。
……本当にこの上司は。
どこまで広い視野を持ってるのか。
上司の懐の広さを感じながら、二人で帰路についた。帰り道は、私が幽子さんのことを話し続けて。
「あ、ちょっと待ってて」
上司は途中のコンビニに寄ると、一分ほどで出てきた。
「これ、幽子さんのお供え用な」
小さな饅頭と羊羹を手渡された。
和菓子が好きだと言ったばかりなのに。本当に、優しい上司だ。
家まであと数分の距離を、笑いながら二人で歩いた。




