帰路
あの夜から一週間が過ぎた。
朝、アパートの前に止まるパトカーにお辞儀をして、職場に徒歩で向かう。
職場に着くと、上司だけが席に座って仕事をしている。毎日始業一時間には出勤する、真面目な上司だ。
「おはようございます。一週間も休んでしまってすみませんでした」
「おはよう。電話でも言ったけど、ちゃんと口裏合わせてくれよ?」
「はい。あの……ありがとうございます」
今日から出勤することは昨日上司に電話で話した。そのときに言われたのが……
『職場の皆にはインフルエンザに罹ったことにしてある』
上司には元カレに襲われたことを話していた。
でもそれを職場の皆にまで知らせる必要はない、それが上司の対応でした。
「体調に気を付けてもらうのは当然だけど、もし本当に罹ったら『違うタイプのインフルエンザに罹った』って言えば良いからな? お、この話は終わり」
「えっ? あ……」
他の従業員たちが出勤してきて私に声をかけてくれる。
「最近流行り始めてるよね」
「無理しなくてもいいからね」
「今日は定時で終われるように頑張るよ!」
皆がそれぞれの持ち場に散っていく。上司に頭を下げてから、私も自席に戻った。
皆の優しさに泣きそうになるのを必死に堪える。これから仕事が始まるのに。
▼
夕方、定時を報せる音楽が流れる。
まだ繁忙期の最中なのに、今日の業務は全て終わった。終わるとは思っていなかった。
一週間ぶりの職場はなんだか休む前と雰囲気が違った。
従業員同士が頻繁に会話している。それは雑談ではなく、手が空いたからと言って仕事をフォローし合う会話。
私も声を掛けられた。事務作業をやったことのない人だったので、ホチキス留めや封筒詰めをお願いした。簡単な雑務だけど、その時間私は違う作業を進めることが出来た。
それは、職場が一つになっている雰囲気。
休んでる間に何があったんだろう。そう思いながら帰り支度をしていると、上司に声を掛けられた。
「休んでたときの業務で引継ぎしたい内容があるんだけど、少しだけいいかな?」
返事をして上司の席に向かうと、パソコンの画面を指差していた。
『皆が帰るまで、少し待ってくれ』
文字を読んで、無言で上司に頷く。
これは、このあと皆に聞かれたくない話をするということ。
何を言われるのか分からないまま、帰宅する従業員たちに挨拶をしていた。
職場に残るのが私と上司だけになり、上司のデスクの横に椅子を持ってきて座った。
「まずは、復帰してくれてありがとう。キミが居ると仕事の安心感が全然違うんだ。この一週間ずっと不安だったよ」
いきなりの言葉に驚いた。まさかそんなことを言ってもらえるなんて。すごく嬉しかった。
……これは持ち上げてから落とすやつか。まだ安心してはいけない。
「いえ、私の方こそ、ありがとうございました。あ……休んでる間に何かありましたか?」
「仕事に関しては何もなかったよ。職場に関しては、まぁ、少しな」
今日感じたあの雰囲気のことだ。一体何があったのか……
「キミが休んだ初日に朝礼で言ったんだ。『僕自身にも言うことだ。誰か一人に頼り過ぎるな。この職場は僕のものじゃないし誰かのものでもない。皆の職場だ』ってな」
…………
「今までキミに頼りすぎていた。職場全体も仲は悪くないが繋がりが弱い。それをどうにかしたくってな」
「……そうですね。今までずっと『そういうもの』って思ってましたし、麻痺してたのかもしれません」
「この職場の中で、僕はキミを半身だと思ってる。そのくらい頼りにしてる。まぁそれも良くないんだけどな」
……何というか、すごく、ムズムズする。嬉しいけど、逃げたくなるくらい恥ずかしい。
「私が出来ることなら全力でやりますし、大丈夫ですよ。頼ってください。あ、無理なときはちゃんと断ります」
「ははっ。ありがとう、そうさせてもらうよ。それでな……」
うっ、いよいよメインが来る。かなり持ち上げられたから落下ダメージすごいかも。
「今日から、帰宅するときは僕がキミを自宅まで送ろうと思ってる。迷惑なら断ってくれ」
…………え?
真下に落ちると思ったら変な方に飛ばされた。なにこれ?
「あ、あの……それはすごく申し訳なくて……」
「気を悪くしたりしないから嫌なら断ってくれ。でも遠慮なら、僕はキミを送る」
実際、夜の帰宅が怖かった。
警官のパトロールが増えたといっても、いきなり物陰からってこともありえるから。
上司の言葉に感謝しながら、送ってもらうことをお願いした。
上司の住まいは職場を挟んで私のアパートとは正反対の場所、そしてお互いに徒歩通勤。また同じ道を戻らせることになるのが、本当に申し訳ない。でも、私のアパートの場所を知っていて、それでも『送る』と強く言ってくれた。断る方が悪い気がした。
二人で職場を出て歩き始める。アパートが近くなって、その前に停まるパトカーも見えた。
上司はパトカーに近づくと、名刺を取り出しながら中の警官に声を掛けた。
「こんばんは。私はこの子と同じ職場の者です。帰宅は私が家まで送るようにしますので、今後よろしくお願いします」
そうか、顔合わせしておかないと上司が不審者と思われかねないからか。よく気付くなぁ。
警官との挨拶を終えた上司は、私の部屋のドアが見えるところまで一緒に来てくれた。
「それじゃ。お疲れ様」
「はい、ありがとうございました。お疲れ様です」
上司は挨拶を交わすと、私が玄関に入るのを見ずにすぐ帰った。人が居ると不安にさせると思ったからかな。本当に、よく気付く人だ。
胸が温かくなるのを感じながら玄関に入り、ドアクローザーに任せて閉める。
ドアノブを掴んで閉めることは、まだ出来ない。




