青天の霹靂
仕事が繁忙期に入り、休日出勤しなくてもいいように残業で仕事を片付けていた。三六協定が厳しいので時間制限付きで。
時間はもうすぐ22時。もう遅いし今夜もシャワーか。そう思いながら帰路についてアパートが見えてきたとき、アパートの前に人影が見えた。
住んでるアパートは6部屋。人影があっても不思議じゃない。そう思っていると向こうから声を掛けられた。
「よぉ、久しぶり」
……この声って、まさか。
何年も前に別れた彼だった。どうやって私のアパートを知ったのか気になるが、それより重要なのは……
「なんでここにいるの?」
彼の浮気が原因で別れたのに、何でいま私の前にいるのか。顔を見たくないし声も聞きたくない。出来るだけ距離をとって聞いた。
「仕事が変わってなくて良かったよ、何日か前から職場で張ってて家も分かったしな。彼女とは別れたんだ。お前とやり直そうと思ってよ」
意味が分からない。自分から離れておいてまたやり直そうって何なんだ。何年も前のことを蒸し返すな。
「どうせ彼女に振られたんでしょ。アナタが向こうを選んだから別れたのに今更戻ってこないで」
「そんなこと言うなよ。また仲良くやろうぜ」
「何も言う事ないから。もう来ないで」
彼を置いてアパートの階段を上がる。早く部屋に入りたいのに玄関の鍵がすぐに刺さらない。
ようやく鍵を開けて中に入り、ドアを閉めようとして──
右手首を掴まれた。
閉じかけのドアの隙間から見えたギラついた目に鳥肌が立つ。
ヤバい。そう思ったときには彼も玄関を入ってきた。正面から抱きつかれて身動きが出来ない。足が絡んで背中から床に倒され、頭もぶつけて思考と呼吸が一瞬止まる。そのまま彼に伸し掛かられた。
「なぁいいだろ! お前が好きなんだよ!」
後頭部の痛みとどうにも出来ない悔しさ、気持ち悪さに涙が出る。上に乗って腕を押さえられて、荒く息遣いする悍ましい顔が目の前にある。目を閉じて顔を背けることしか出来ない。
覆い被さっていた彼が身体を浮かし、その指がブラウスのボタンに触れた瞬間──
ゴーーン!
轟音と共に私を押さえつけていた重さが消えた。目を開けると、彼が玄関のドアに背中を預けて座り込んでいる。両手で覆う鼻から血がぼたぼたと垂れていた。
四つん這いになりながら部屋の奥まで逃げる途中、白いものが顔の横をすれ違っていった。
部屋のドアに辿り着いて振り返ると……
宙に浮かんだフライパンの柄が彼を何度も突き続け、その頭上には、帰宅に合わせてセットしていた湯気が立ち昇る白米が浮かんでいて。それが彼の頭に、押しつけられた。
「ぐぁ、……あっ! あちぃぃいぃぃ!」
彼は玄関を飛び出して逃げて行った。
それを呆然としながら見ていて、フライパンが落ちる音で我に返った。
「え、えっと、110番……」
スマホを取り出して、息切れしながら警察に通報する。
巡回中の警官を向かわせるから、それまで電話を切らないようにと言われた
力が抜けて下ろした手のスマホからは私を心配する声が微かに聞こえる。
そんな中、涙でぼやけていた視界が、急に桜色一色になった。
「……幽子さん……ありが…とう……」
スマホから聞こえる声よりも。
座り込む私を抱きしめる存在が。
嬉しかった。
泣いたのは痛みからか、恐怖からか、悲しさからか。それとも、嬉しさからか。
よく分からなかった。
▼
暫くして駆けつけた警官に少し事情を説明して、私は救急車に乗せられた。事情が事情なのと、頭をぶつけたので病院で検査することを勧められたからだ。
彼はと言うと、近くの公園で頭を洗っているところを警察に確保されたらしい。頭にごはん粒をたっぷり付けた特徴の人物はそうそう居ないと、警官が笑いながら教えてくれた。
私を元気付けようとしてくれたのかもしれない。笑顔を返したかったけど、口の端が少し上がっただけだった。
検査の結果、異常はなかった。
深夜、警官に付き添われて自宅に戻ると、玄関から部屋まで5メートルのキッチンルームで、落ちた血の跡や指紋の採取が行われていた。炊飯器も写真を撮られていた。
病院へ向かう前、室内の証拠確保を進めていいか聞かれていたことを思い出す。
警察への事情説明もあるから明日は出勤できないかもしれない。深夜で気が引けたが上司に電話をかけた。
繁忙期に休んでしまうことを謝ったら怒鳴られた。
仕事より身体を考えろと。
仕事のことは気にするな、と。
必要なことがあったら、内容も時間も気にせずすぐ言え、と。
ベッドに腰掛けた太ももに涙が落ちる。
……今日は、泣いてばかりだ。
電話を切ったあとハンカチで目を押さえて俯く私を、警官は何も言わず待ってくれた。少し落ち着き、まだ鼻の奥に涙が残るものの鼻をすすりながら、事情を話し始めた。
過去のことは、問題なく言える。問題なのは──
あのときに起きたことを信じてもらえるのか。
嘘を言う必要は何もない。でも、本当のことは、きっと信じてもらえない。
幽子さんに声をかけても今は全く姿を現してくれないし、物を動かしてもくれない。
もしかしたら不動産屋さんにも面倒をかけるかもしれない。でも、嘘を言えば私が面倒なことになる。
息を吸う。そして、あの瞬間に起きたことをそのまま話した。
「……分かりました。明日またお話を伺うことになると思いますが、今日は休んでください。もし不安なら『状況保全』ってことにして1人残すことも出来ますよ」
通報から駆けつけてずっと付き添ってくれた女性警官に話をして、そして、全員に帰ってもらった。
静けさだけが残った部屋に、幽子さんが姿を現す。何も言わず心配そうな表情で私に寄り添ってくれる。
時間はもうすぐ4時。
ベッドに横になっても、目を閉じるとあの瞬間の記憶が蘇る。眠りたくても眠れない。
ふいに感じた右手を優しく握られる感触と、右手首を擦られる感触。
余計なことを考えないように意識を右手に集めて、目を閉じた。
▼
次の日の午後、警察署に出向いた。家からずっと『おはじき』を右手に握りしめて。
昨夜の出来事を説明したあと、警官が彼の容疑を話してくれた。
住居侵入、暴行、傷害、不同意性交等未遂の4つ。
物的証拠も供述も揃っていて、あとは私が被害届を出せば立件し、逮捕が確定するらしい。
どうでも良かった。
彼と関わりたくない。顔も、声も、名前も思い出したくない。私が願うのはただ一つ。彼が今後絶対に私の前に現れないこと。
それを話したところ、それで決まった。
彼が私に近づかないという誓約書を書かせること。
もし近づいたら即検挙という警察からの警告。
それと、自宅付近のパトロールを強化するというものだった。
手続きを終えて警察署を出る。
空を見上げれば曇天、日が差すのか雨が降るのか分からない空模様だった。
誓約書が、彼を抑えてくれるのか。
もし次に現れたら、私は無事でいられるのか。
私の決断が正しいのか分からない。
あのときに起きた不自然な反撃。彼がそれを不気味に思って、近づく気をなくしてくれたらと願った。
掌に握ったおはじきは、汗ばんで熱を帯びていた。




