引っ越し先
「本当にここでいいんですか?」
正面の椅子に座る男性に問われる。もう何度も聞いた言葉に返事をするのも面倒臭い。でも私を心配しての言葉だと分かるから怒ることも出来ない。
「いいんです! くぅ~っ!」
サムズアップしながら顎をしゃくれさせて返事をすると、男性は苦笑いを浮かべながら書類を取り出した。
自分でも似てないってわかってます。でも男性の罪悪感がにじむ表情を何とかしたかったから身を削ったんです褒めて欲しいです。
良かった、ようやく決まりそう。安心できるかまだ分からないけど……
男性から差し出された契約書を読んでいても、私の頭の中には別のことがチラついていました。
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職場の移転が決まったのは半年前でした。移転先は今の住まいから通うにはキツくて、思い切って自宅も職場近くに引っ越すことを決めたものの『物件の予約』なんて当然出来ず、目星を付けていた物件は移転の三ヶ月前には埋まっていました。
職場の引っ越しまでに新しい住まいを決めないと片道二時間半かけて通勤することになってしまう。仕事をこなしながら休日は移転先近くの不動産屋を何軒も訪ねても、残っているのはファミリータイプの物件ばっかり。一人でそんな部屋に住んだら無駄に高い家賃を払うことになるし、きっと寂しさも増すと思う。
職場の移転まで残り二か月。良い物件が見つからなくて焦りと諦めの気持ちが強くなってきた頃、たまたま目に入った小さな不動産屋にその物件はありました。
……ごめんなさい正直に言います。お店の前の貼り紙を30分眺めていたら中の男性に声をかけられて、それから店内のカウンターで物件資料を1時間眺めていたら渋々出してくれました。粘るつもりはなかったけど一人じゃ持て余す広さの高額物件に踏ん切りが付かなかったんです。
出された資料に書かれていたのは一人暮らし向けの1K間取りの物件でした。バス・トイレ別でエアコン付き、駅からは遠いけど職場には近い。何より──
家賃が安い!
今の部屋より少し広くて家賃は今の半分。田舎というほど寂れていない地域でこれは……そういう物件?
聞いてみると、やっぱりそうでした。
この部屋には、女の幽霊が出るらしい。
……どうしよう、困った、幽霊は怖い、今まで実際に体験したことないけど……。
毎日二時間半の通勤をするか、給料の七割近くの家賃を払って広い部屋に住むか、それとも……。
しばらく悩んだあと、頭に浮かんだことを聞いてみました。
「あの、この部屋に住んでた人たちって……どんな理由で出て行ったんでしょうか?」
「えっ? だから幽霊が出るからで……」
「えっと、住んでた人が何か怪我をしたとか、病気になったとか、そういうのって聞いたことないですか?」
「そういうのは……聞いたことないな。みんな気持ち悪がって引っ越した人ばっかりだったよ」
「……このお部屋、見せてもらえませんか?」
「!? いやいや、こっちが言うのも変だけど、ここはやめておいた方が……」
「どこか決めないとヤバいんです。お願いします」
「……分かりました。今からでもいいですか?」
男性の問いかけに頷いて、早速その部屋を見せてもらうことにしました。
幽霊のいる部屋と分かってて見に行くなんて自分でも信じられない。でも、通勤時間が長くなれば眠るためだけに帰ってくることになるし、高い部屋に住んで使えるお金が減れば食費を削らなきゃいけない。大好きなお風呂の回数も減っちゃう。今でさえロボットみたいに働いてるのに、そんなことになったらきっと心が死んじゃう。
男性の運転する車で内見する部屋へ向かう。男性はその部屋の幽霊を見たことがなく、幽霊を見たのはその部屋に住んだ人だけらしい。どんな部屋かよりも、もしかしたら起きるかもしれない『顔合わせ』に緊張する。
幽霊は怖いから関わりたくないと思ってたけど、人生っていろいろあるのね。
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到着したのは二階建ての建物で各階に三部屋ずつ、計六部屋の普通のアパートでした。男性に案内されて二階へ上がり一番奥のドアの前に立つ。男性が私を見て頷いたあと、鍵を差してドアを開く。
玄関に入って最初に目に入ったのは下駄箱の上に置いてあるお札と数枚の小銭。普通の見た目の部屋なのに、それがあることでこの部屋が普通ではないことを突き付けてくる。ドアを入っただけで普通の世界から異世界に来てしまった気がして全然落ち着かない。
どうしよう……
ドキドキしながら部屋の中を一通り見学しても、部屋としては何も問題なかった。
問題なのは幽霊が出るらしいことだけ。まだ見えてないけど。
別の部屋がすぐ見つかるとは限らないし、引っ越しもあるからスケジュール的に余裕もない。
今までに住んでいた人たちが危ない目に遭っていないことを私も期待していいのか分からない。でも、部屋に入ったときから今まで何も感じないし、物音も嫌な気配もしない。もし霊感がなくて気付かないなら住んでしまっても……。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
男性に声をかけて見学を終わらせ、一緒に外へ出る。部屋の中にいたときから緊張して心臓の鼓動が速く呼吸も浅くなっていた。いま考えていることが正解か分からなくて、その緊張はまだ続いてる……
男性がドアに鍵をかける音が聞こえたとき、いよいよその言葉を口にした。
「私、この部屋に住もうと思います」
男性と一緒に事務所に戻って契約の手続きを始めました。
別のことに意識を邪魔されながら、差し出された契約書を読んでゆっくり記入していく。
これから慌ただしくなる引っ越し準備の不安と、引っ越し後から始まるかもしれない何かの不安を感じながら。




