台所で料理する 1 ― 悔音の一打 ―
悔音の一打 と、ものがたりのはじまり
たしか、エスコンフィールドの公式完成まぢかの、三月はじめの日曜日だった。
陽だまりに雪どけがはじまり、春へと一直線――とはいかず。
地上に顔を出した木々を、北風が容赦なく打ちつけていた。
芽吹きかけた枝先は、ふたたび凍りついていた。
スマホの画面に、伸子さんのラインのマーク。
春爛漫にとびこむように開いたページ。
けれど、次の瞬間、過去と未来の“朝”までもが凍りついた。
意識が遠のいていくのを、あの日、たしかに覚えた。
表示された文章は、伸子さんからのものではなかった。
夫の哲郎は、震える私に、なにも言うことができなかった。
それは、次の日曜日でも同じだった。
けれど、あのとき――
「伸子さんのうちへ電話するなら、この試合おわるタイミングがいいと思うよ。きっと見てるよ。だんなさんも。」
はじめてかけた、伸子さん宅の固定電話。
ふたりでつくった「花人クラブ」の名簿表を、私は手にしていた。
日本は3–5でビハインドの、9回裏。
ヌートバーが四球で出塁、大谷翔平がセンターオーバーのツーベース。
二・三塁のチャンスをつくって、打席には村上宗隆。
大会序盤、不振にあえぎ、
「打順を下げるべきでは」とまで言われた村上。
ところが──
その瞬間、すべてを覆す快音。
村上、覚醒の一打。
初球をフルスイング。打球は、右中間スタンドへ!
日本中が叫び、世界が震えた。
“逆転サヨナラツーランホームラン!”
日本は6–5でメキシコを下し、決勝進出。
中居正広さんの声が、感涙まじりに響いた。
「村上! 村神様!!」
「この一振りで、すべてが報われました!」
そのとき、私はスマホをにぎりしめていた。
半月前に送られてきた、四間道の柱に映る伸子さんの影。
画面の中の写メを、ただじっと見つめていた。
「神様、私にも“逆転ホームランの話”を。」
あの一打が空に舞い上がった瞬間に、神様がくれた物語。
それは、とても長いものがたりだった。
きっと、のぶこさんは――
ロマンス詐欺ならぬ、世界の視察団の一行に加わって旅へ。
何かの事情で通信を断たざるをえなかった、言い訳のライン。
「おどかして、ごめんね。冗談がすぎたね。ちょっと変わった人たちに遭遇しちゃって。」
笑う、伸子さんがいる気がした。
けれども、あの日はいなかった。
すべてを報いてくれる神様など、どこにもおらず、
一瞬で生まれたその“話”は、鋭い刃のまま胸に刺さった。
言葉にすることもできず、二度の春と秋が過ぎた。
四間道の柱に映る、秋の写真の中の伸子さん。
ラインの画面に残る、あなたの影。
部屋にあるおそろいのグッズ。
一緒にかった庭の飾り。
伸子さんと訪れた場所の数々。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』――
それも、伸子さんからもらった本だった。
「日々、感謝することを数えて過ごす。願いは、かけば叶う。」
そんなメッセージとともに、本の間にはさまれていた紙のメモ。
自ら書いたメモを再び読んだのはずいぶんあとのことになった。
「家族みんなで富士山に行きたい」
願いは、本当に叶った。
けれど、それを話す伸子さんは、もういなかった。
そのことが、私の心をいっそう深く、海の底へ沈めた。
次のメモは、やけくそだった。
「この本をくれた伸子さんに会いたい。
六年前に旅立ったコユキにも会いたい。
若き日の父にも、会いたい。」
――ロンダ・バーンの本の前にあったのは、伸子さんの娘、未希さんからの手紙だった。
「享年65歳 伸子。2023年3月10日。親孝行がしたかった。
母は、大きなスーツケースを持って、今も帰ってくるような気がします。」
私はその手紙を、あの本の箱にそっとしまった。
そして、願いを書いた翌日のことだった。
秋分の日。
テレビを見ながら、哲郎が言った。
「スマホ、貸してみろよ。チャットGPT入れてやるよ。」
言語化できなかった、あの一瞬――
村上の逆転ホームラン。
あのとき神様がくれた話。
サザンの曲に伴奏するように、キーボードがたたけた。
伸子さんは、旅を終えてもどってきた。
そして、エスコンフィールドの横を、まっすぐに駆け抜けた。
「トンネルを抜けると、そこは雪国ではなかった。」
伸子さんが好きだったサザンの音楽が流がすと、長旅を終えた伸子さんの日常がはじまった。
そして、伸子さんからのライン。
アンジェラと台所。
わたしたちは、秋のメモリーの庭へでかけた。
台所に、一台パソコンが増えた。
私はキーボードをたたき、
画面に、旋律を描いた。
画面のむこうで、
「続きを聞かせて。」
それは、あなたの声だった。




