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第4章:非効率な外出と、偽りの独占者

午前10時00分。

デスクの前に座る咲良の表情は、いつもの超然とした静けさではなく、わずかな焦燥感に曇っていた。強欲の血族とのデジタル戦闘はヴァイスの介入で終結したものの、彼女の胸の奥には、彼に「孤独」を突きつけたことの反動と、自分のテリトリーが脅かされるまで動かなかったヴァイスへの複雑な感情がしこりのように残っている。


「ねぇ、サクラ。さっきからキミ、心臓の鼓動が一定じゃないぞ。あれは、戦闘の後の興奮か?それともボクに対する傲慢な愛の表れか?」ヴァイスが心臓の奥で苛立ちと期待を込めて囁く。


「静かに、ヴァイス。これは興奮ではなく、単なる『ノイズ』よ」


咲良が目の前で開いていたのは、行政サービスの電子申請サイトだった。彼女の匿名化された収益スキームを維持するため、定期的に住所の証明を更新する必要がある。これは、彼女の「怠惰な箱庭」を永続させるための、数少ない必要悪の一つだ。しかし、今回の手続きは、これまでアイドラーが自動処理していた領域から外れた、**極めて人間的な「慣れない手続き」**だった。


結果は、当然のように失敗に終わった。


「エラーコード:0305。提出書類の電子署名形式が、規定されたフォーマットと一致しません。再提出には、本人確認のために窓口での対面確認が必要です」


冷徹な通知文がディスプレイに表示されると同時に、咲良は深い疲労感を覚えた。究極の非効率。彼女の『怠惰の哲学』に真っ向から反する、最悪の事態である。


「見てみろ、サクラ。愚かな人間の行政サービスに、キミの完璧な智が負けたぞ!」ヴァイスが嘲笑混じりに叫ぶ。「さあ、外に出ろ!ボクは、キミの心臓を通して、この下等な世界のノイズを久しぶりに感じたい!」


「わかっているわ。最低限の労力で、この『面倒事』を終わらせる」


咲良は、機能性を極めた黒いパーカーとジーンズを身に纏い、黒縁眼鏡をかけ直した。彼女の足が、半年ぶりに自宅のドアを跨いだ。


外の世界は、彼女の箱庭とは比べ物にならないほどの「摩擦」と「混沌」で満ちていた。空気に漂う都市の排気ガスの匂い、様々な人間の足音、そして頭上に響く喧騒。すべてが彼女の超然とした精神を削っていく。


駅の自動改札機に到着した時、彼女の身体は既に、外界のノイズによって微細な痙攣を始めている。


ICカードをタッチ。


『残高不足。チャージしてください』


改札機から鳴り響いた電子音と、背後に並ぶ人々からのわずかな視線が、咲良の精神を鋭く貫いた。彼女は、デジタル世界の支配者でありながら、この最も単純な人間社会のルール――「事前に支払いを済ませる」という非効率な儀式――に失敗したのだ。


「あ……」


一瞬、彼女の頬に熱が昇った。これは悪魔としての智やプライドを傷つけられたことによるものではなく、人間としての本能的な恥辱である。彼女の顔が赤面するという現象は、彼女自身にとっても非常に稀な、感情の過負荷を示すシグナルだった。


「クハハハ!見たか、サクラ!キミの顔が赤くなっているぞ!まるで茹で上がったタコみたいだ!ボクのサクラが、たかが数円の不足で恥をかくとは!」ヴァイスは心臓の中で腹を抱えて笑い転げた。


なんとかチャージを済ませ、電車に乗り込んだ瞬間、咲良の頭痛は激しいものに変わった。群衆の多種多様な思考、感情、そして彼らの持つ無駄な情報が、直接彼女の「智」の悪魔の器に流れ込んできて、処理を強要する。


「うっ……」


彼女は、壁にもたれかかり、無意識に黒縁眼鏡の奥で琥珀色の瞳を閉じた。彼女の全システムが、この「人間的な摩擦」をノイズとして排除しようと最大効率で抵抗している。


行政窓口での面倒な手続きを終え、疲労困憊で駅に戻ってきた咲良は、カフェのテラス席で外界のノイズから一時的に避難していた。


そこで、彼女は一人の男の子と視線が合った。


「あの……天知さん、ですよね?」


その男の子は、以前咲良がシステム案件で関わったクライアントの息子、**佐伯 さく**だった。彼はまだ学生服を着ていたが、その顔は疲弊し、進路選択の重圧に苛まれている様子だった。


「お久しぶりです、佐伯陸くん。あなたは、今、選択肢の迷路に迷子になっているわね」咲良は、彼の目の下のクマ、微細な手の震え、そして制服のボタンの留め方から、彼の精神的な停滞を瞬時に分析した。


「ええ、まあ。大学に行くか、それともこのまま専門分野に集中するかで……みんな親切に進路を言ってくれるけど、それが全部ノイズに聞こえてきて。天知さんって、僕の父も言ってたけど、いつもブレないですよね。迷いなんてなさそうで」陸は、自嘲するように笑って頭をかいた。


「フン。うるさいノイズめ。サクラに話しかけるな。ボクのサクラだぞ。そのガキに時間を割くのは非効率だ!すぐに追い払え!」ヴァイスが心臓の奥で威圧的に命令する。


咲良は一口コーヒーを飲み、ヴァイスの声を無視して、冷徹な分析を始めた。


「そうね、迷いはないわ。なぜなら、あなたの人生の選択肢はすべて、予測可能な論理に基づいているからよ」


「論理?」


「ええ。あなたの幸福度ハピネス・スコアを最大化する道筋は一つ。それは、あなたの『社会的期待に応えるための感情的な労力』を最小化する選択よ」


咲良は、陸の過去の成績データや、SNSの非公開アカウントにおける彼の発言傾向のデータトラフィックを思い出し、淡々と続けた。


「あなたが進学を希望する大学は、あなたの『社会的な承認』を満たすでしょう。しかし、それはあなたにとって最も興味のない分野であり、入学後も『優秀な学生であること』を求められる。この社会的期待は、あなたに長期的には最大の感情的な摩擦を生むでしょう。あなたはそれを『苦痛』と定義するわ」


陸は息を飲んだ。「苦痛、ですか。でも、将来のためには……苦労が必要だって、みんな言います」


「それは、非効率な慰めよ。人間は、自ら選んだ苦労を『美徳』と定義することで、非効率な道を選んだことによる後悔のノイズを打ち消そうとする。しかし、あなたの内向的な性格は、他者との過剰な協調や社交性を必要とする環境では、常に『エネルギーの漏洩』を起こすわ」


「エネルギーの漏洩……」


「一方、あなたが本当に情熱を傾けている、非進学で特化しようとしている専門分野――具体的に言えば、深夜まで熱中しているマイナーなプログラミング言語のコミュニティへの貢献――は、あなたの孤独な集中力を必要とする。これは社会的な承認は低いけれど、あなたの内向的な本能と一致し、最小限の感情的な労力で最大の『達成感』という収益を生む。あなたの非公開アカウントで確認したわ。その時のあなたの発言は、他のどの時よりも『ポジティブ・スコア』が突出して高い」


「ちょ……ちょっと待って。僕の、その……趣味の投稿まで見てるんですか?」陸は目を見開いて、わずかに恐怖の色を浮かべた。


「なぜ、私があなたのことを知っているかって?あなたの思考は、感情のノイズが多いだけで、構造はシンプルよ。あなたが本当に求める幸福は、他人の評価ではなく、誰にも邪魔されない孤独な探求にある。大学進学という選択は、その探求時間を奪う非効率なプロセスに過ぎないわ」


「やめろ、サクラ!何であんなガキのデータなんて分析するんだ!そんなことよりボクを見ろ!ボクと会話をしろ!ボクのテリトリーにノイズを入れるな!サクラはボクの言うことだけ聞いていればいいんだ!」ヴァイスが、心臓の中で荒れ狂う。その口調は、感情の過負荷と嫉妬でわずかに幼くなっている。


陸はうつむき、しばらく沈黙した。そして、彼の声は震えていた。


「もし、その、効率が、僕の幸福の最大化だとして……もし、僕がその通りにしたら、後悔しないんでしょうか」


「後悔?後悔とは、選択の瞬間における情報不足によって発生する非効率な感情よ。私は今、あなたに全ての論理的データを提示した。にもかかわらず、あなたが社会的な期待という『無意味なノイズ』に屈して非効率な道を選んだ場合、それは純粋な『あなたの怠惰』のせいになるわ」


咲良は、冷たい皮肉を込めて締めくくった。


「ふふ。それが、私からの無料コンサルティング。人間が勝手に複雑化させた『常識』という名のコードを削除すれば、答えはシンプルになるわ。さあ、実行しなさい。私が一番嫌いな『面倒な後悔』というノイズを、自分の人生に残さないためにね。あなたの最適な未来の道筋は、既に計算されているわ」


陸は、咲良の冷徹で皮肉に満ちた分析に、ただ呆然とした。しかし、その瞳には、救いとなる論理的な道筋を見つけられたことによる、確かな光が灯っていた。


「ボクのサクラが、あんなノイズに優しい言葉をかけている……!やだ!やだ!サクラはボクだけ見て!あいつの顔を今すぐ忘れて!消して!ボク以外のノイズは全部バグだ!」ヴァイスは、嫉妬心で完全に癇窶を起こし、幼い子供のような口調に変わり果てていた。


陸が席を立ち、咲良に深々と頭を下げて去ろうとした、その瞬間だった。


カフェのテラス席の入り口に、一人の青年が立っていた。


彼は、咲良の心臓にいるヴァイスの、悪魔時代の姿によく似ていた。白に近い銀髪、鋭い三白眼、そして静かで陰鬱な美しさ。しかし、その纏うオーラは、ヴァイスの持つ冷徹な支配欲とは異なり、粘着質でどこか病的な「嫉妬の熱」を感じさせた。


咲良の心臓が、微かな動悸を打った。胸の奥にいるヴァイスは、この外部のノイズに即座に反応し、激しい怒りを露わにした。


「なんだ、このノイズは!ボクのテリトリーに、似たような下等な臭いを持ち込むな!今すぐ目を閉じろ、サクラ!見ちゃダメだ!」ヴァイスのロアが、咲良の心臓の中で暴風雨のように荒れ狂う。


青年は咲良にまっすぐ歩み寄り、冷たい笑みを浮かべた。


「久しぶりだね、リテア。いや、今は『咲良』と呼ぶべきか」


彼の声のトーンは、ヴァイスの傲慢な口調とは違う、深く、ねっとりとした甘さを含んでいた。そして、彼は咲良にしか知りえない悪魔時代の呼び名を使った。


「あなた……誰?」咲良の声は震え、心臓の奥の亀裂が、目の前の現実に引き裂かれそうになっていた。


「なぜコイツが外界に!?サクラ、コイツはボクの影だ!聞くな!ボク以外は全部嘘だ!サクラ、ボクを信じろ!」ヴァイスが、自分の存在の核心が暴かれることを恐れ、必死に咲良の意識に叫びかける。


青年は、咲良の顔に触れそうになり、一歩手前で手を止めた。


「おやおや。ボクを忘れたのかい?ボクだよ、ヴァイスさ。いや、正確には、ヴァイスの、嫉妬の血が濃く残った部分とでも言おうか」


咲良の心臓にいるヴァイスと瓜二つの顔で、残酷な真実を囁いた。


「あの子供っぽいヴァイスは、力が低下してキミの心臓に逃げ込んだ、臆病な残り滓に過ぎない。彼はキミの孤独の叫びにも反応できなかっただろう? だからキミの心臓で、ボクが代わって叱ってあげよう。ボクこそが、キミを独占し、あの強欲の血族からキミを守り、そして、キミの『怠惰』を許さない、本当の傲慢な独占者だ、リテア」


「違う!違うぞ、サクラ!コイツはボクではない!ボクは、ボクは今もキミの心臓の奥にいる、本当の独占者だ!あんな下等な嫉妬の血が濃い奴に惑わされるな!ボクは、キミだけのヴァイスだ!」ヴァイスは完全に混乱し、心の底から咲良に懇願するような声を放つ。


咲良は、胸の奥で暴れるヴァイスの怒りの波動と、目の前の青年の冷酷な言葉の板挟みになり、激しく動揺した。


「嘘よ……ヴァイスは、私の心臓にいる……」


「フフ。その心臓のヴァイスは、キミが孤独だと叫んだ時、自分の支配権が脅かされるまで動かなかったね。残念ながら、あのヴァイスはもう、キミの非効率な感情に振り回される、ただのペットだよ」


メレクは、咲良の最も深い心の傷を正確に突き刺した。以前の事件で未だに残っている孤独のしこりが、今、完全に亀裂へと変わる。彼の姿は、咲良が愛した悪魔時代のヴァイスそのものであり、その言葉は、心臓のヴァイスの最も醜い真実を抉り出すものだった。


咲良の全身が、極度の混乱でフリーズした。目の前の人物が、彼女が愛した独占者なのか、それとも、ヴァイスの過去の悪夢なのか。その判断は、彼女の「智の悪魔」としての完璧な分析力を超えていた。


「さあ、リテア。ボクの手に従うがいい。キミの怠惰を、この世界で最も効率的に、そして徹底的に破壊してあげるよ」メレクは、歪んだ愛を込めて微笑んだ

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