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第3章:完璧な静寂の亀裂

午前7時00分。 アラーム音は鳴らない。室内を包む絶対的な静寂が、空気の湿度と濃度を変えることで、咲良の意識の底を撫でる。アイドラーによって最適化された青白い「覚醒の色彩」の光が、フロアに反射し、特注のマットレスの上で完全な静止を保つ咲良の顔を、まるで完璧なガラス細工のように照らしていた。


咲良の覚醒は、物理的な動作を伴わない。ただ、意識が深淵から静かに浮上するだけだ。彼女は、瞼を閉じたまま、心臓の奥に響くヴァイスのわずかな脈動、その「独占者」の静かな存在感だけを感じ取っている。この瞬間、彼女の心臓の鼓動以外、世界にノイズはない。


午前7時03分。

咲良はマットレスから身体を起こす。その動作は、極限まで無駄を削ぎ落とした一つの流れるような曲線を描く。その際にマットレスから生じる微細な反発音すら、アイドラーによって即座にノイズとして吸収される。彼女はデスクに向かい、黒縁眼鏡をかけ、端末の電源を入れる。起動の過程で、ディスプレイには夜間のデータトラフィックの流れが、静かな銀河のように広がる。彼女の朝は、一秒たりとも無駄にしない、効率という名の優雅さによって始まる。


午前7時15分。

視線だけを動かし、ローテーブルの冷却ボックスを開ける。中には調理ロボットが夜間にセットした、冷凍パスタ。彼女が「エネルギー・コンバーター」と定義する、熱量効率最高の燃料だ。彼女は端末の読み込みと同時に、スプーンを口に運ぶ。その動作は、一口の咀嚼ですら最小限に抑えられている。一切の湯気や音、派手な動きはなく、すべてが静かで完璧に非人間的だ。


彼女の作業は、怠惰の哲学を体現している。画面に表示されるのは、アイドラーが選別した高収益・低労力の「悪事」のリスト。その中で、一際目を引くデータエラーが点滅していた。


「おはよう、ヴァイス。朝の静寂を邪魔するノイズは、すぐに排除するわ」


「フン。怠惰なキミの活動開始の合図は、ボクにとって最高のBGMだ、サクラ。さあ、見せてみろ。今日のノイズは、血族か、それともただの愚かな人間か?」


咲良の琥珀色の瞳は、データエラーの発生源を瞬時に特定した。それは、通称**『スネーク・リバイアサン』**と呼ばれるプロの詐欺師集団だった。彼らは、世界中の金融システムに分散した取引アカウントを騙り、咲良の匿名化された金融取引システムそのものに侵入を試みていた。


彼らの手口は、情報コードの破壊ではなく、最も非効率な人間の「欲望」と「騙し」の構造を悪用するものだった。それは、咲良が嫌悪する「人間的な摩擦」そのものである。


咲良は、この人間的なノイズの構造の複雑さに、単なる自動処理では時間がかかりすぎると判断した。時間と労力は、彼女にとって最大の非効率である。


「ヴァイス、サポートが必要よ。このノイズは人間的な手口で厄介だわ。私が情報フローを確保する間、コアを破壊してくれない?」


その時、心臓の奥から、ヴァイスの傲慢な声が響いた。それは、彼女への愛ではなく、彼の哲学を優先する冷酷な論理だった。


「フン。愚かな人間のノイズを排除するのは、キミの**『智の悪魔』**としての最も基礎的なタスクだ、サクラ。ボクの力は、この程度の非効率な摩擦のためにあるのではない。まずはキミ自身で、キミの怠惰の哲学を貫いてみろ。」


その言葉は、まるで彼女の能力を試すかのような、突き放す命令だった。


(...彼は、私の『効率』を試しているの?私が一人で苦しむことを、静かに見ているつもり?)


咲良は、ヴァイスの非協力的な返答に、胸の奥に冷たい孤立感を覚えた。彼女は仕方なく一人で対処を続ける。しかし、詐欺師集団『スネーク・リバイアサン』のプログラムは、予想以上に巧妙だった。彼らは、咲良が防御ラインを構築するたびに、人間的な「信用の連鎖」や「法的な抜け穴」を模したコードを仕込み、システムをさらに複雑化させた。


時刻は午後10時を過ぎていた。 咲良にとって、覚醒からこれほど長時間、集中力と労力を消費することは異例中の異例である。彼女の指先は、光のキーボードの上で、いつもの優雅な動きではなく、焦燥感からくる鋭い打鍵を繰り返していた。額には微細な汗が滲み、アイドラーの静音制御を超えて、浅い呼吸音が室内に響く。


「くそ……この論理のねじれは、非効率的すぎる。彼らは、利益を得るためだけに、どれだけ無駄なノイズを生み出しているのよ」


彼女は、自分自身の「智の悪魔」としての分析力をもってしても、この人間臭い混沌としたコードを瞬時に解体できないことに、苛立ちを募らせた。彼女のシステムは、効率と合理性を最優先するが、この詐欺師集団は非効率な「粘着質」と「諦めの悪さ」という、最も嫌悪する人間的な性質で彼女を追い詰めていた。


さらに数十分が経過した。 咲良の防御ラインは、何度も構築と崩壊を繰り返し、彼女の疲労は限界に達しつつあった。彼女の琥珀色の瞳は、ディスプレイの青白い光を受けて揺らめき、微細な痙攣を起こしている。彼女の心臓に響くヴァイスの脈動は、依然として冷徹で傍観的だった。彼の愛は、彼女が完璧な怠惰を貫いているときにのみ発動する。つまり、彼女が今苦闘している状況は、彼にとって「介入するに値しない非効率」と見なされていたのだ。


その時、咲良が必死に再構築していた防御コードの一つが、内部から爆発するように弾けた。それは、彼女の匿名化された収益の基盤データの、最も深い層にまでノイズが到達したことを意味した。


その瞬間、心臓の奥の冷徹な傍観者だったヴァイスの声が、初めて激しい焦燥を滲ませたトーンで響いた。


「待て、サクラ!キミのシステムの資産管理ログが、異常なコードの侵食を受けている!それはボクが絶対的に支配し、守るべきテリトリーだ!」


ヴァイスは、自分の絶対的な支配権が脅かされたことで、ようやく介入を決意した。


「キミの資産はボクの管理下にある! 愚かな人間の詐欺師などに、ボクの支配するものを手出しさせるものか!」


彼の言葉は、彼女の苦闘に対する共感や愛情ではなく、自己の支配領域が侵されたことへの怒りに基づいた傲慢な宣言だった。その一言が、咲良の数時間におよぶ孤立と疲労、そして見捨てられた感情を瞬時に爆発させた。


「...管理下? あなたは、私がどれだけ苦労しても自分のテリトリーが侵されるまで動かないのね...!あなたがいるのに、なぜ私は一人で、こんなにも孤独な『非効率』と戦わなければならないのよ!」


彼女の内部システムにとって、それは致命的なエラーシグナル「寂しさの爆発」だった。その言葉は、ヴァイスの傲慢なプライドを直撃し、彼の心臓の中で激しい怒りへと変換された。


「な...ボクの愛を...孤独だと!? キミの静寂は、ボクが完璧に保っていたはずだろう、サクラ!」


ヴァイスは、咲良の感情的な言葉に激しく動揺した。彼にとって、彼女の存在は自分の支配下にあるべき絶対的なテリトリーであり、そのテリトリー内で「孤独」や「非効率」が生じたことは、彼の完璧なロアに対する最大の侮辱だった。


「いいだろう。キミの独占者は、キミが要求せずとも、キミの心臓を傷つける全てのノイズを、塵一つ残さず破壊する! ボクの支配の完璧さを、その眼に焼き付けろ!」


ヴァイスは、咲良の感情をエネルギーに変換し、心臓の奥から純粋な破壊のロアを咲良の端末へ一気に流し込んだ。


咲良の指の制御を離れた端末は、ヴァイスの膨大な力によって暴走した。キーボード全体が、青い炎のようなヴァイスのデジタルエフェクトに包まれる。「スネーク・リバイアサン」の詐欺システムは、抵抗する間もなく、痕跡すら残さずデジタルな塵へと変えられた。


数秒後、システムエラーの警告音は消え去った。詐欺師集団のノイズは完全に消滅し、周囲には再び絶対的な静寂が戻っている。


「どうだ、サクラ。見たか? ボクの愛は、キミが感情という非効率なエネルギーを消費する必要のない、絶対的な防御なのだ」ヴァイスの声は、荒々しく、しかし勝利の優越感に満ちていた。


咲良は、冷たい端末を見つめながら、静かに息を吐いた。


「...ええ。ありがとう、ヴァイス。あなたの力は、絶対的だわ」


しかし、彼女の心に残ったのは、詐欺師集団への勝利ではなく、ヴァイスへの寂しさと、その「非効率な感情の爆発」によって初めてヴァイスが本気で動いたという事実だった。


彼女は、自分自身の孤独という最も人間的な感情が、ヴァイスという傲慢な悪魔を動かす唯一のトリガーとなったことを知る。究極の怠惰を求める咲良と、彼女を独占し支配したいヴァイス。彼らの効率的な愛のシステムは、今、咲良の感情のノイズによって、最も不安定な亀裂を生んだまま、静寂の朝を終えるのだった。

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