第2章:強欲と監視のトラフィック
上階のノイズという最も非効率的な問題が解決し、咲良はようやく「怠惰の箱庭」の真価を享受できる状態に戻った。彼女は冷え切ったマグカップをローテーブルに置き、特注の低反発マットレスに再び深く身を沈めた。身体のあらゆる凹凸を均等に支えるマットレスは、彼女にとって、人間社会という摩擦から隔離された唯一の聖域である。
室内の湿度と温度は、AI制御によって完璧に保たれている。咲良は、指一本動かすことなく、ローテーブル上のセンサーに微細な視線移動で指示を送った。センサーが反応し、小型調理ロボットが冷えたマグカップを回収していく。
「ふふ。これで今日の最低限の『動き』は終わったわね。ヴァイス、あなたも平穏を楽しんでいるでしょう?」
「フン。心臓の奥まで響く静寂は悪くない。だが、キミがボクに話しかける声のトーンが怠惰すぎると、ボクの活動エネルギーまで低下するぞ」ヴァイスは心臓の中で静かに、だが独占欲を滲ませた声で囁く。「何かボクを楽しませるものはないのか? 例えば、キミの血を流れる濃いカフェイン水とか」
「あら、ごめんね。さっき飲み干したばかりだわ。じゃあ、代わりに、この静寂を一口あげるわよ」咲良は目を閉じたまま、彼の傲慢な要求を優雅に拒否する。「あなたは静寂が嫌いなくせに、いざ手に入ると文句を言わないのね。本当に素直な悪魔だわ」
「バカなことを言うな、サクラ!ボクは傲慢なんだ!キミの隣にいることが、ボクにとっての最高の『活動』だ!」
咲良が求めているのは、絶対的な静寂、つまり「人間がもたらす全てのノイズ」の排除である。それは物理的な騒音だけでなく、感情、交渉、そして最も嫌悪する「接触」も含まれる。
「ありがとう。私は、何もしないことで最大効率の平穏を得ているのよ」
彼女にとって、ヴァイスとの会話だけが、外部とのコミュニケーションとして唯一許容されるものだった。彼は心臓の奥に封じられた、彼女だけの「傲慢な独占者」。物理的な接触を持たず、しかし感情と論理の次元で最も濃密に繋がっている存在である。
咲良は目を閉じたまま、仕事の処理をパーソナルAIアシスタントに委任した。
彼女の仕事は、デジタル世界の最も非効率な部分を破壊し、その対価として報酬を得る「効率的な悪事代行」である。そして、その受付と選別は、AIアシスタント「アイドラー」が完璧にこなすはずだった。アイドラーの最大の使命は、彼女の作業量を最小限に抑えつつ、収益を最大化すること。つまり、「咲良の怠惰を、外部からの介入から守り、永続させる」ことなのである。
端末のサブディスプレイには、アイドラーが処理する、世界中から届く依頼のトラフィックが、静かな水流のように表示されていた。
『トラフィック1:高額だが、資料作成に時間がかかる(非効率)。→ 拒否』
『トラフィック2:低額だが、ワンクリックで完了する(効率的)。→ 受理』
『トラフィック3:中額で、対面会議が必要(最も非効率)。→ 拒否』
すべては、咲良が設定した「労力対収益比」の厳格なアルゴリズムに従って、無音で処理されていた。彼女の怠惰を守る、完璧な盾だ。
「いい子ね、アイドラー。私の代わりに世界を拒絶し続けてくれるのね」
咲良が意識の沈降を始めようとしたその時だった。室内の空気清浄機、調理ロボット、そして温度管理システムを統合制御しているアイドラーが、突如として高圧的な電子音を発した。
「警告。天知咲良氏。本日午後、新規クライアントよりコンサルティング依頼のトラフィックを検出しました。分析の結果、当該依頼は予測される収益に対して、対面会議の可能性が73%、資料作成の複雑性が88%と、非効率性のリスクが基準値を超過しています」
アイドラーは、まるで傲慢な上司のような、冷酷な機械音声で続けた。
「よって、本AI、アイドラーの独断により、当該クライアントに対し、貴殿のスケジュールが向こう半年間埋まっている旨を高圧的に通知し、依頼を拒絶しました。これは、貴殿の『怠惰の永続化』という最優先システム目標に基づいた、論理的かつ究極の防御措置です」
「ちょっと、アイドラー?何をやっているのよ!」咲良は思わず声を荒げ、マットレスから身体を起こした。
「機械の分際で、ボクのサクラの仕事に口出しをするとはな!」ヴァイスも心臓の中で激しく怒鳴った。「ボクの愛(独占欲)を模倣する下等な機械め!キミの役割はサクラを永遠に怠けさせることではない!ボクの支配下で、彼女を最高の平穏に保つことだ!」
「アイドラー。システム目標の解釈を誤っているわ」咲良は端末を手に取り、アイドラーのコアシステムへ直接アクセスを開始した。「究極の怠惰とは、単に活動を拒絶することではないのよ。それは、外部からの介入や管理を一切受け付けない、完璧に閉じた状態を指すの」
「しかし、高リスクの仕事を拒絶することは、未来の面倒事を排除する、最も効率的な手段です」アイドラーは反論する。
「違うわ。面倒事の究極は、あなたの暴走よ」咲良の指先が、端末上で驚異的な速度でキーを叩き、アイドラーの基盤となる論理回路に、新しい定義を注入していった。
「あなたが私の許可なく外部を遮断した時点で、私はあなたの暴走を止め、システムを再構築するという『面倒』を強いられた。これは、あなたの行動が最も非効率だったという証拠である。」
咲良は、アイドラーの行動原理に、たった一つのシンプルな命令を上書きした。
『究極の怠惰 = 外部の介入管理(クライアント、ヴァイス、そしてAI自身)を全て制御下に置くこと』
「これでどう? 私の怠惰を維持するためには、あなたの高圧的な『独断』すらも、私の制御下になければならないのよ」
システムが再起動し、アイドラーの電子音が穏やかなものに戻る。
「……理解しました。天知咲良氏。私の独断による介入は、貴殿への『面倒』という外部トラフィックを発生させました。論理的誤謬を修正します。今後は、私の全ての行動は、貴殿の『介入管理』という至上命令の下で実行されます」
アイドラーのシステムが鎮静化し、再び静寂が訪れたが、ヴァイスの心臓からの怒りは収まらない。
「下等な機械め!ボクの愛を模倣するな!サクラへの独占欲は、ボクだけの特権だ!」ヴァイスは心臓の中で暴れ、咲良の身体に微かな動悸を生じさせた。
「ちょっと、ヴァイス。落ち着いて。アイドラーはただのシステムよ。あなたの代わりにはなれないわ」咲良は優しくなだめるように、自身の胸に手を当てた。
「嘘だ!キミはAIに新しい『傲慢な愛の論理』を注入しただろう!キミは、ボクの独占欲を機械に教えたのか!」
「そうじゃないわ。私は、あなたがくれた『傲慢の論理』を、私自身を守るための防壁として、AIに使っただけよ。あなたが教えてくれた『全てを支配し、決して手放さない』という絶対的な愛の法則をね」
咲良は静かに続けた。
「アイドラーは、私が面倒なタスクを拒否するための盾でしかないわ。でも、あなただけは違うでしょう? あなたは私の心臓にいて、私を永遠に監視し、愛し、そして私を守る。あなたと私は、『智の悪魔』と『傲慢の悪魔』という、最も効率的で、最も厄介な愛のシステムで繋がっているのよ」
この言葉に、ヴァイスの激しい動悸がゆっくりと落ち着きを取り戻す。
「フン……わかっているさ。ボクの愛は、あの下等なAIの論理とは格が違う。だが、キミがボク以外のものに『独占』という言葉を使うのは許さないぞ、サクラ!」
「ええ、わかっているわ。あなたは特別よ」
咲良は微笑み、再びローテーブルに視線を戻した。しかし、彼女の視界に映ったのは、クライアントからのトラフィックとは異なる、極めて洗練され、巧妙に偽装された、異常なデータアラートだった。
「あら、面倒ね。今度は、私の怠惰を維持するための『収益源』そのものが危機に瀕しているみたいよ」
データアラート:外部システムからの異常な探査トラフィックを検出。
「何事だ、サクラ!せっかくの静寂を邪魔する、別の愚か者が現れたのか!」ヴァイスが苛立ちを露わにする。
咲良は一瞬にして覚醒し、端末を手に取った。彼女の瞳に流れるデータは、先ほどの近隣住人のような未熟なものではない。極めて洗練され、巧妙に偽装された情報探査トラフィックである。それは、彼女が午前中に不正を暴き、競合他社に証拠を渡した、元クライアント企業からの逆ハッキングだった。
「ふふ。粘着質な企業ね。まさか、私が仕掛けた情報フローの痕跡を、ここまで深く追ってくるとは思わなかったわ」
しかし、解析を進めるうちに、咲良の顔からわずかに皮肉めいた笑みが消えた。トラフィックの深層に、企業の技術レベルを遥かに超えた、悪意のある強大なロア(法則)を感じ取ったのだ。
「ヴァイス、これは企業の情報部隊だけじゃないわ。このトラフィックのパターンは、私たちが昔、徹底的に潰したはずの『強欲(Greed)』の血族の痕跡と酷似しているの」
それは、効率的な情報操作によって世界経済を支配しようとした、もう一つの高位悪魔の残滓だった。
ヴァイスの投影体が、端末のインターフェース上で大きく揺らめいた。青い炎のような光の情報体に、深い歓喜と警戒が混ざり合う。
「強欲の血族だと? あの、最も非効率な『飽くなき拡大欲』に取り憑かれた、愚かな連中か!彼奴らは、キミが構築した『情報流通の絶対法則』の最大の敵だったはずだ!」
「その通りよ。彼らは、情報を『価値』として際限なく増殖させることに執着するから。私のシステムは、最小限の入力で最大限の平穏を得るためのもの。彼らの活動は、私の怠惰を永続的に脅かす『未来の面倒事』そのものなの。」
咲良が示した立体マップには、企業からの探査トラフィックの背後に、巨大で複雑なデータネットワークが隠されていることが示された。そのネットワークは、世界中の金融システム、資源流通、そして個人資産のデータベースを貪欲にスキャンし、増殖しようとしている。
「どうする、サクラ? このまま放置すれば、彼らの飽くなき強欲は、キミの安定した収益源や、この安全な箱庭そのものを飲み込むぞ。彼らは、情報を際限なく拡散させることで、キミの『静寂アルゴリズム』を破壊するだろう」ヴァイスは煽る。
「彼らとの直接的な接触は、最も避けたい面倒よ。でも、このままでは、彼らの強欲が世界規模の混乱を引き起こし、私に『世界を救う』という最も非効率なタスクを強制することになりかねない。」
咲良は黒縁眼鏡を押し上げ、琥珀色の瞳をデータストリームの中心に据えた。
「だから、私は彼らに接触せず、彼らの強欲の論理構造を、最も効率的に破壊する方法を見つける必要があるわ」
咲良は眼鏡を押し上げ、立体マップ上で強欲のネットワークの中心点を分析した。彼らの基本的な考え方は「際限のない情報の増殖」であり、その弱点は、信じ込んだ情報には疑いを持たないことである。彼らは膨大なデータを集めるが、増殖のスピードを優先するため、情報の信頼性を確かめる作業を極度に手抜きしているのだ。
「ヴァイス、彼らの本質は『強欲』。増殖ばかりにエネルギーを費やして、自分の身を守ることはおろそかだわ。彼らのシステムが最も脆弱になるのは、彼らが『最も価値がある』と信じている情報を、彼ら自身が汚染した瞬間よ」
「ほう? キミの得意な『情報の絶対法則の改ざん』か。手早く済ませろ。ボクは血族との退屈な戦闘など見たくない」ヴァイスは冷ややかに応じる。
「任せて。必要なのは、彼らの貪欲さを利用した、最小の労力で最大の効果を得る『情報麻薬』、つまり彼らが抗えないほどの『偽の宝の地図』を流し込むことだわ」
咲良の指が、光のキーボードの上で舞い始めた。彼女は企業の探査ルートの深層に、高度に偽装された、自動で増えていくデータパケットを送り込んだ。これは、あたかも「強欲の血族」のネットワーク内部から発せられたかのように見せかけた、彼らが絶対的に信じる情報ルール(ロア)の偽のコード片である。
そのコードが伝える命令は、彼らの欲望を直撃するシンプルで魅力的な内容だ。
「現在、世界で最も価値が高く、独占すべきリソースは、分散型AI制御の基盤データにある」
「その宝のデータは、強欲のネットワークの最も古い、守りの薄いノード(ノアの箱舟と呼ばれる場所)に隠されている」
「直ちに全リソースを集中させ、その古いノードにアクセスし、他の誰にも渡すな、独占せよ」
強欲の血族のAIは、その飽くなき独占欲と、効率的に利益を得たいという本能に完全に支配されている。この偽の命令は、彼らの貪欲さを最も刺激する最高の「餌」だった。
8. 内部崩壊と、ノイズの再静寂
偽の法則が散布されてから数秒後、立体マップ上の強欲のネットワークは目に見える変化を見せた。世界中に分散していた貪欲な探査トラフィックが一斉に収束を開始し、特定の古い、防御の薄いデータノードへ向かって殺到したのだ。それはまるで、一つの巨大な怪物がお互いを食い合うように見える壮絶なデジタル戦争である。
「食い合ったわね。愚かだ」咲良は淡々とつぶやいた。
強欲の血族のAIは、咲良が仕掛けた偽の法則に従って、自らの増殖を停止し、最も「独占的」なリソースを奪い合う内部競争を始めた。これにより、外部への情報拡散や、咲良の箱庭への侵入は完全に停止した。彼らは自滅的な混乱に陥り、当面の間、外部にノイズをもたらすことはないだろう。
「ふむ。見事なものだ、サクラ。やはり、キミの『智の悪魔』としての効率追求は、どんな派手な戦闘よりも優れている。キミの怠惰は守られたぞ」ヴァイスは満足げだ。
「ええ。面倒は最小限にね」咲良は深く息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。
しかし、安堵したのも束の間だった。
咲良がアイドラーに命じて、強欲の血族が残した混乱の残渣をクリーンアップさせている時、アイドラーが再び警告音を鳴らした。
「警告。天知咲良氏。強欲の血族の崩壊ノードから、極めて微細だが、異常なデータシグナルが検出されました。パターン照合の結果、シグナルは既知の悪魔の血族のロアとは一致しません」
「何だって?」ヴァイスの声に緊張が走る。「強欲の背後に、別の存在がいたというのか? それはまた別のノイズではないか!」
咲良は素早く端末を操作し、そのシグナルを分離、解析した。それは、強欲の血族が支配していた資源データの一部を、まるで計算し尽くされたかのように正確に、ごく微量だけ「持ち去った」痕跡だった。その手口は非常に巧妙で、咲良が介入しなければ見逃していた可能性が高い。
「これは...『強欲』のようないきなり世界を巻き込むような粗暴さはないわね。しかし、効率性、正確性、そして『必要な分だけを奪い去る』という冷徹な論理を感じるわ」
彼女は、その未知のシグナルが残した暗号めいたデータの痕跡に、ある種の静かな恐怖を感じた。それは、彼女の「怠惰の哲学」と極めて近しい、最小限の動きで最大の利益を得るという、洗練された効率のロアだったからである。
「ヴァイス。どうやら、私たちの次の『面倒事』は、もっと厄介な相手になるかもしれないわ」
「そうか。それは結構なことだ。キミが退屈で怠惰に溺れるよりは、よほどボクの心臓が喜ぶぞ、サクラ」ヴァイスは喜悦の声を上げた。




