第1章:効率的な悪と智の防衛
都心から少し離れた、天井高三メートルの無機質なマンションの一室。天知咲良は、特注の低反発マットレスの上で、まるでエネルギーを蓄える展示品のように横たわっていた。高性能のセンサーとAIが稼働するこの室内は、彼女の肉体を最高の「省エネモード」に保っている。動かないこと。それが、彼女が時間とエネルギー、そして何より「面倒くさい」という感情の発生源を徹底的に排除するための、人生哲学だった。
「ねぇ、サクラ。まだ動かないのか? キミの脳はもうとっくに起動しているんだぞ。キミが動かないせいで、ボクの今日の活動エネルギーまで低下する。ボクの力が回復する時間を無駄にするな!」
心臓の奥底から響くのは、ヴァイスの声だ。傲慢だが、どこか子供っぽい響きを持つその声は、かつて世界を震わせた高位悪魔のプライドと、力を失い心臓に封じられた現在の苛立ちが混ざり合っている。
「ヴァイス、うるさいなぁ。私の身体は最高の省エネモードを維持しているの。あなたのわがままは無駄よ。本当にエネルギーが欲しいなら、私の血管を流れるカフェインでも飲んでいてね」
咲良は心中で皮肉を返しながら、ゆっくりと上体を起こした。寝室とリビングを隔てる壁は、彼女の覚醒と共に半透明の液晶に変化し、室温、外気温、今日のタスクリストが表示される。全てが、最小限の情報量に抑えられている。
部屋の隅の小型調理ロボットが、覚醒を検知して即座に冷凍パスタの加熱を終える。彼女の主食は、この10年間、一種類の大容量冷凍パスタ一択だ。味や栄養といった「感情と手間」の要素を排除した、彼女にとって完璧なソリューションである。
熱々のパスタ皿を手に取り、リビングのローテーブルに置く。
冷凍パスタの上には、市販の激辛ソースの瓶が、今にも空になりそうな勢いで傾けられた。真っ赤な液体が、元のミートソースの色を完全に塗りつぶし、パスタ全体が毒々しい赤に染まる。まるで、彼女の冷徹な世界に侵入した情熱の染みのようだ。
「馬鹿じゃないのか、サクラ!なんだその『液体』は!食事というより、兵器だぞ!キミの舌はとうとう、下等な悪魔の舌以下に成り下がったのか!ボクがキミの心臓にいるのに、こんな醜いものを摂取するなんて、ボクへの冒涜だ!」ヴァイスが、心臓の中で子供のように叫ぶ。
咲良は激辛パスタを前に、冷静な声で答えた。
「論理的な結論よ、ヴァイス。毎日同じ冷凍パスタを摂り続けた結果、私の味覚センサーの優先順位は極度に低下した。その結果、神経系を強制的に刺激し、脳に『食事をしている』という信号を送るには、これくらいの過剰な刺激が必要なの。これは、怠惰を維持するための不可欠なシステムエラーよ。放置すれば、食事そのものが面倒になるリスクがあるから」
ヴァイスは呆れたように息を吐く。
「ハッ、システムエラーだと? キミの言い訳はいつも天才的だな。だが、その愚かな食事がキミの命を縮め、ボクの独占期間を短くするなら、ボクは容赦なくそのソースの瓶を爆発させるぞ!キミの自由奔放さには、ボクの傲慢さが伴わねばならないんだ!」
咲良は激辛パスタを一口頬張る。口内に広がる灼熱の刺激は、彼女の冷え切った神経を一時的に覚醒させる。目一つ動かさずに、咲良はヴァイスに囁く。
「やってごらんなさい。あなたをここに封じたのは私だから。もし私が尽きても、あなたは消えちゃうでしょう?あなたの愛(独占欲)は、私のそばにいることに懸かっているんだからね」
論破され、ヴァイスは一瞬沈黙する。この論理的な矛盾こそが、彼の最大の枷であり、咲良の最大の武器だ。しかし、すぐに子供のような傲慢さが戻った。
「フン!わかってるさ!だからボクはキミの心臓で永遠にキミを監視し、独占しているんだぞ!ボクの愛は絶対だ!キミはボクのものだ。それを忘れるな!」
咲良は口端をわずかに上げる。それは、彼に対する難解な愛情表現だった。彼女がこの危険な悪魔を心臓に抱え、人間界で生きる唯一の理由は、この傲慢で独占的な、そしていまだに深く愛しているヴァイスとの「新しい日常」を維持するためだった。彼女のシステムは、この『傲慢な愛のシステム』こそが、自身の怠惰を維持する最高の防衛手段だと結論付けている。
激辛パスタを完食した咲良は、ローテーブルの端にある情報端末をタップした。彼女の本業は、最小限の労力で最大の報酬を得るための、デジタル世界の脆弱性を突いた効率的なコンサルティングである。
「ねぇ、サクラ。パスタの次は、ボクを楽しませる番だろう? キミのその優秀な分析力を使って、くだらない人間どもの醜聞でも検索して、ボクに披露しなさい」
「無駄なことはしない。私のシステムは、あなたのお遊びのためにあるのではないの。この怠惰を永続させるための収益を上げるために稼働しているのよ」
咲良はクライアント企業へ自作の監査プログラムを投入した。数秒後、ディスプレイには暗号化されたデータが流れ込み、彼女は装着したままの黒縁眼鏡をクイッと押し上げる。データ解析が進むにつれて、咲良の口元に皮肉な笑みが浮かんだ。
「おやおや、やっぱりね。この会社のマーケティング部門は、顧客データを利用し、意図的に競合他社のネガティブキャンペーンを仕掛けているわ。データフローのパターンが、悪魔的な強欲のパターンと酷似している。人間も、悪魔とやっていることは変わらないのね」
ヴァイスが煽る。「ハッ!人間も落ちたものだ。キミのある側面は、すぐにでもその不正を世間に晒すべきだと叫んでいるはずだが、どうする、サクラ?」
「晒さない。私が直接通報すれば、警察やメディアとの面倒な交渉が発生するでしょう。それは私のシステムを破壊する行為だから」
「フン!キミがその汚いシステムに関わるのはボクが許さない!さっさと解決しろ!その企業の人間がキミに媚びる姿など、ボクは見たくもないんだ!」
「もう、うるさいなぁ。すぐに終わらせるわ。最も効率的で、私に二度と面倒が降りかからない方法でね」
咲良は、不正なデータフローの証拠を圧縮し、クライアント企業の最も手強い競合他社の匿名通報窓口に送信した。
「……何? キミは、敵に塩を送ったのか?」ヴァイスは心臓の中で動きを止めた。
「違う。これは『怠惰を永続させるための、二重の防衛』なの。私がクライアントに直接警告すれば、彼らは私に謝罪し、今後も私を頼り、接触してくるでしょう。それは未来の面倒事になるから」
咲良は続けた。
「競合他社に渡せば話は別よ。彼らはこの証拠を法的手段ではなく、市場戦略的な手段――つまり、静かで徹底的な攻撃に使うわ。クライアント企業は公になる前に、この不正を自滅的に停止せざるを得なくなる。そして、彼らは『この情報がどこから漏れたか』を恐れ、二度と私に監査依頼を出さなくなる」
「……つまり、キミは、自分の手を汚さず、誰とも接触せず、未来永劫この企業との面倒を完全に断ち切るために、第三者に悪の証拠を渡した、というわけか?」ヴァイスの声には、驚愕と、奇妙な畏敬の念が混じっていた。
「そういうこと。システム・クローズ。私は一歩も動いていないの。完璧な怠惰の防衛よ」
咲良が満足そうに情報端末をオフにした直後、部屋の天井から「ドン、ドン、ドン」という不規則で重い振動が響き始めた。それは、普通の生活音とは明らかに異なる、不快で、理不尽な響きだった。
「何だこのノイズは!ボクの傲慢な静寂を破る愚かな人間どもか!」ヴァイスが怒鳴る。
「近隣からの騒音ね。上階からの振動を検出。継続性は低いけれど、不規則なパターンが私の静寂アルゴリズムを乱しているわ」
咲良は、この「面倒」を解決すべく、すぐに上階の住人特定と、管理会社への連絡準備を始めた。しかし、その振動を解析するにつれて、彼女の琥珀色の瞳に、危険な数値が流れ始めた。
「待て、サクラ。これはおかしい。振動の周波数が、人間の発する音ではない。これは、感情の周波数だ」ヴァイスの声が、初めて戦闘的な真剣味を帯びる。
「解析完了。これは、『憤怒(Wrath)』の血族が発する、未熟な『怒りの具現化』のノイズよ。このマンションのどこかに、彼らの血を引く者がいる。そして、その感情が暴走し、物理的な振動ノイズとなって空間を汚染しているのね」
咲良が最も嫌う事態だ。彼女の怠惰の箱庭に、血族の「非効率な情動」が侵入したのだ。
「フン。憤怒の末裔か。彼奴らは最も単純で、最も制御不能な悪魔だ。キミの怠惰のシステムに、彼奴らの暴走する情熱が混入するとは、最高の皮肉ではないか」ヴァイスが皮肉めいた笑いを浮かべる。
「皮肉はいいの。このノイズは、私の平穏を恒久的に脅かすリスクになるから」
咲良はローテーブルの端末を両手で挟み込んだ。彼女の指の動きは停止し、その思考速度は極限まで加速する。
「まさか、キミの『怠惰の防壁』を破るのが、こんな下等なノイズだとはな」ヴァイスは心臓の奥で深く息を吐いた。「だが、キミが本気になった証拠だ。サクラ、ボクの力が必要だろう?」
咲良は、端末の表面に、ヴァイスの意識をデータとして投影させた。琥珀色のインターフェースの中央に、青い炎のような光の粒子が集まり、かつてのヴァイスの姿を模した光の情報体が静かに現れた。
「ええ、もちろん。あなたの力は、このノイズを『論理の底』から破壊するために必要よ」
ヴァイスは、咲良の瞳に映るデータストリームを見て、懐かしむような声で語り出した。
「ハッ。キミが『智の悪魔』として、ボクが『傲慢の悪魔』として世界を支配していた頃を思い出すな。あの頃、ボクたちは『愛と独占』という名の、最も強大な悪の力を構築した。キミの『完全な知性』と、ボクの『絶対的な支配欲』。二つの悪魔が協力すれば、世界は一つの巨大なシステムとして『完璧な悪』へと再構築されるはずだった」
「ふふ。私があなたを封じ込めたのはね、世界を巻き込む争いからあなたを守りたかったから。そして、私が人間として生きる道を選んでも、永遠に一緒にいるためよ」咲良は、冷たい瞳の奥に微かな優しさを浮かべながら言った。「あなたを失うことこそが、私にとって最大の非効率だったの」
「フン。その行為こそが、キミの最も傲慢で、最も愛しい行動だ。ボクを独占するために、キミは人間という器を選んだのだからな」ヴァイスは優越感を滲ませる。
「昔話は終わり。ヴァイス、お願い。このノイズを理解して、無音化する手伝いをしてね」
咲良は端末上で、上階から発せられる『憤怒』のエネルギー波形を、視覚的な立体マップへと展開した。無数のデータが、天井を突き破って侵入してくるノイズ源(上階の住人)の心理状態と、そのエネルギーの連鎖を解析していく。
「キミの狙いは、物理的な破壊ではないな、サクラ。キミの戦闘は常に『概念の破壊』だ」ヴァイスが、咲良の思考を読み取り、説明役に回る。
「その通りよ。物理的な接触は、最も面倒で、最も非効率な手段だから。あのノイズ源は、自分の感情をコントロールできない『未熟な悪』に過ぎないわ。その存在自体を、私のシステムにとって無害な状態へと強制的に書き換える必要があるの」
「つまり、キミは、あの『憤怒』の根本的な原因を解析し、その論理構造を上書きする、というわけだ。さすがは『智の悪魔』。キミの手段は、最も冷徹で、最も効率的な『悪の代行』だ」
咲良の琥珀色の瞳に、無数のデータが流れ込み、上階の部屋の構造と、そこに渦巻く感情の波形をトレースし続ける。
「最も効率的な悪をもって、最も非効率な悪を消去する。それが、私の取るべき平穏への最短ルートなの」
咲良の指が、ローテーブルの端末上で一瞬のうちに数千行のコードを流し込む。彼女の琥珀色の瞳の奥に展開されたインターフェースでは、上階の住人の「憤怒」の波形が、まるでバグのように赤いコードブロックとして視覚化されていた。
「このノイズ源の情動データを書き換えるわ。ヴァイス、あなたから得た『傲慢の論理構造』をテンプレートにする」
端末の画面に、彼女が構築した新しいアルゴリズムが青い光で重ね合わされる。それは、上階の住人が抱える攻撃的な衝動を、他者に向けさせるのではなく、ひたすら自分自身に向けた「飽くなき自己満足」へと消費させるための、感情のバイパス回路だった。衝動のエネルギーを、熱狂的な収集癖や、誰にも見せない閉じた創作活動など、外部に影響を与えない利己的な行動へと強制的に誘導する。
「これで、上階の住人の『怒りの概念』は、システムを乱さない『無害な怠惰』へと変換される。究極の論理操作よ」
「実行」
「実行」の言葉と共に、咲良の指先から、ヴァイスの「傲慢の論理構造」を核としたデータパケットが上階の住人へと投射された。
一秒。
天井から響いていた不規則で重い「ドン、ドン、ドン」という憤怒の振動ノイズが、まるで電源を抜かれたかのように、唐突に、完全に途絶えた。静寂が、三メートル四方のこの箱庭に戻ってくる。
「ふぅ。これで一件落着ね」
咲良は眼鏡を外し、ローテーブルに置かれた冷え切ったマグカップを手に取った。中に入っているのは、朝から飲みかけの薄いカフェイン水だ。
「ハッ。見事なものだ、サクラ。未熟な憤怒のエネルギーを、無害な『自己愛の地獄』へと転嫁させたか」ヴァイスの声が、満足げに心臓の奥で反響する。「あの哀れな人間は、今頃、何を始めていると思う?」
咲良は解析データを端末に表示させた。上階の住人の行動パターンは、予測通り、外部に攻撃的な影響を与えるものから、内向的な消費活動へと急激にシフトしている。
「憤怒のエネルギーは、『限定版フィギュアの収集』と、『SNSでの完璧な自撮り写真の加工と投稿』という二つの無益なルーティンへと集約されたわ。前者は莫大な金銭的浪費を生むが、騒音には繋がらない。後者は、他人に見せびらかすことが目的ではない、ひたすら自己満足のための閉じた承認欲求の無限ループよ」
「人間という器の弱点を突いた、最も効率的な解決法だ。キミは自分の手を汚さず、彼奴らを社会的な『無害化』へと誘導した」ヴァイスは心底面白そうに笑った。「だが、サクラ。こんな下等な血族の末裔に、キミの貴重なシステムを使わせるとは、ボクへの傲慢な挑戦でもあるぞ」
「あら、ごめんね。でも、あなたの論理をテンプレートに使ったんだから、あなたは楽しかったでしょう?」咲良はマグカップのカフェイン水を飲み干した。「これで、再び私の最高の省エネモードに戻れるわ。今日はもう、動く必要はないわね」




