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お昼休憩の後の事務所で、私は燎火から、連絡が取れなくなった中途退校者の対応について教わっていた。
「できるだけ知らんぷりを決め込まれないよう、基本、相手が何らかのアクションを起こさざるを得ない方法で連絡を取ることになる。たとえば、電話は出なければそれまで、メールやメッセージアプリはブロックされてしまえばそれまでだから、連絡手段としては少し弱い。これは人間も妖怪も変わらねえな」
「でもほかに、連絡手段って……あ、郵便?」
住所がある妖怪もいる、って話だったっけ。
「そうだ。内容証明送ったり、簡易書留で『いついつまでにこれに返事をよこさないなら、退校届にサインしたものとみなします』と勧告したり」
「『サインしたものとみなしますがよろしいですか』とかじゃなくて、そんな一方的な言い方でいいの?」
本当はそうすべきなのかもなあ、と燎火は苦笑して、
「意思表示するのが面倒くさいって音信不通になってるようなやつ相手に、そこまで気を遣ってやる必要ねえよ」
「……なんだか私、なるべく面倒くさがらずに行動しようっていう気になってきた」
いいことじゃねえの、と燎火が笑って、コーヒーを入れに給湯室へ向かう。
その時、玄関のドアが開いた。
妖怪よりも目立つ金髪のボブが、踊り込んでくる。
「いや~、忘れ物しちゃったあ!」と入ってきたのは、果たして粕村さんだった。
ちょうど、カウンターで峰内さんが、派遣登録はしているけどなかなかマッチする職場がなくて悩んでいる女性の応対をしていた。
女性はどうやら妖怪のようで、深緑色のロングヘアの内側がなにやらもぞもぞと不規則にうごめいている。
粕村さんが、なぜかそこにふらふらと寄っていった。
「アレッ、君派遣社員? 大変だよね~、女性妖怪はなかなか正社員になれなくて」
「粕村! 横から、いい加減なことを言うな」
がたん、と峰内さんが立ち上がる。
女性はおろおろと峰内さんと粕村さんを見比べて、
「そ、そうなんですか? でも私、派遣のほうが自分としては働きやすくて……」
峰内さんがフォローする。
「正社員も派遣も、それぞれに特徴、メリットとリスクがありますから、希望される働き方をされればいいんですよ。それをお手伝いするのが我々ですから。……粕村、お前自分の仕事してろ」
「はいはーい」そう言った粕村さんはすっとかがみ込み、女性の横で耳打ちするように、「やかましいねー、このヒト」
「粕村ァ!」
気色ばんだ峰内さんに、事務所内が緊張する。……黒芙蓉支店長は外出していた。
峰内さんは相談者の前でそれ以上ことを荒立てることもできず、粕村さんに「行け」とだけ言って座った。努力して営業スマイルを浮かべ直したけど、こめかみには血管が浮いている。
粕村さんは自分の――例の――デスクの前に行くと、山積みの書類が見えていないかのように、引き出しからお菓子をいくつか取り出した。……あれが、忘れ物?
思わずそれをじっと見てしまっていた私のほうに、粕村さんがふいと振り向く。
「あれー有栖ちゃん、ぼくのこと見てた?」
粕村さんが、つかつかと私のほうにやってくる。そして、
「はい、どーぞ」
と、右手を差し出してきた。その手はこぶしに握られている。
いかにも、その手の中にあるものをあげる、と言わんばかりだ。
「……な、なんですか?」
「いいから、はい」
嫌な予感しかしなかったので、私は手を出すこともできず、三十秒ほどそのまま固まっていた。
お互いに向き合ったままの三十秒は長い。
でも、粕村さんは平気で、にこにことただ立ち続けている。
……これ、私が手を出さないと終わらないんだろうか。
根負けした私が、おずおずと手のひらを出すと、粕村さんがぱっと手を開いた。
なんとなく、さっき取り出していたお菓子をくれるのかな、と思っていたら、ただの紙ゴミの切れ端だった。
もとはお菓子の包装紙だったらしい鮮やかな色の紙片が、ぽとりと私の手の上に落ちる。
「……あの……?」
「あはははは! これが人間心理ってやつだよね! なにかを差し出されると、とっさに手を出しちゃうんだよね~! 勉強になったでしょ!?」
「いや、その前に思いっきりためらってましたよ、私……。なのに粕村さんが微動だにしないから」
すると粕村さんが大きくのけぞって、
「あっ、今ぼくのせいにした!? したよね!? 手を出したのは自分なのに! そんな他責志向じゃ社会で通用――」
その時、ぱしっ、と私の手の上のゴミが取り上げられた。
給湯室から戻ってきた燎火だった。汚そうにつまんだそれを、粕村さんの胸のあたりに投げつける。
粕村さんが舌打ちして、言った。
「あれーワンワンくん、人間同士のお話に割り込んでどうしたの? ぼくたちが若手同士で親睦を深めてるのが、長生きしてる犬妖怪さんには気に食わないのかな~?」
「なにが若手だ、三十過ぎてんだろお前。用が済んだならとっとと出ていけ。おっと、そのゴミは自分で捨てていけよ」
粕村さんが、心底きょとんとした顔になる。
「捨てる? ……ぼくが?」
「ほかに誰がいるんだ」
「へーえ……ぼくがゴミをねえ……」
気のせいか、二人の間の空気が、険悪さで濁っていくように見えた。
「そういえばワンワンくん、前にも、ぼくに事務所の窓を閉めるように命令したっけねえ……犬が人間の言うこと聞くのが普通なんだよ、世の中では」
「雨が降り込んでたから、お前の後ろの窓くらいお前が閉めろって言っただけだろ。そういやあの時、そういうのはお母さんがやるんだとか抜かして、スマホでゲームしてやがったなお前。自分で食い散らかしたゴミを捨てるのも、おかーさんがやってくれるのか?」
粕村さんの目がすわった。
「……ぼくのお母さんをばかにするのか?」
「お前の話をしてんだよ。どういう思考回路してんだお前」
「ふん! ぼくにしたら、君たちの思考回路のほうが理解不能だけどね~!」
粕村さんは私のパソコンに出されていた、中途退校者についての対処についての文面を見て続けた。
「こんな連中にいちいち手間取らされてさあ! 税金もらってあーだこーだするんじゃなくて、ぼくみたいに営業で稼いでみたらどうだい!」
「お前、今月の新規売上いまだにゼロだろ。毎日直行直帰して、なにしてるんだ?」
「内緒だよそんなの! だいたいそんなやつら、税金のおかげでただで訓練受けてんだから文句言わずにやることやれ~って脅かしてやれば一発でしょ! 連絡とってとかなんとか、まだるっこしいよ!」
「確かに訓練生は税金の恩恵を受けてるし、それで義務を果たさねえのはおれだって不快だ。けど、だからって罪悪感を盾にとって言うこと聞かせるようなことはしたくねえんだよ。罪を犯したわけじゃねえんだから」
つい、そこで口を挟んでしまう。
「燎火、前に税金使い込んで踏み倒してるようなものだって……」
燎火は斜め上を見て答えた。
「ようなものであって、使い込んだわけじゃねえ」
そんなことを言い合う私たちをよそに、粕村さんは、すっと目を細めて鼻を鳴らした。
「ふん。どうせ、なんとか奨励金とかいう金と、霊格が目当てなくせに」
霊格?
知らない言葉だな、と思った私を察して、燎火が説明してくれた。
「簡単に言うと、世のために人のためになり、人間との共存活動に前向きな個人や組織に国が与えてくれる信用の得点みたいなもんだ。これが高ければ高いほど、たとえばうちなら、職業訓練の受託が有利になる。土木系の会社なら、公共事業を落札しやすくなったりとかな」
「そうなんだ。あ、それなら職業訓練をやってるともしかして……」
「そう、就妖社の霊格が上がる。おかげでまた次の訓練が受託できる。上手くいけば好循環で回ってくれるんだよ」
「ふん!」と粕村さんが鼻を鳴らした。くせなのかもしれない。「好きなだけ霊格なんかを上げるといいよ。ぼくは営業で、リアルマネーをもたらす存在だからね~! そんな迂遠な仕事はしないんだよ!」
「いやだからお前今月まだ……っていうか入社してから一度もまともに予算達成したことねえだろ」
粕村さんが、かっと目を見開いた。それまでずっと目を細めていたので、急に目の面積が広がると、少し怖い。
「売上だけが営業のすべてじゃないだろ! そうやってやる気を削がれるから、ぼくの真価が発揮できないんだ! 君たちも他責志向で人のことばかり言ってないで、自分の仕事をしっかりやるべきなんじゃないのか! ねえ有栖ちゃん、違う!? いいこと言ったでしょ、これ!?」
「あ、それは、その通りですよね。はい、いいこと言ったと思います」
もちろん肯定するつもりで、そう言ったのだけど。
粕村さんは、目を大きく開いたままで、固まってしまった。
「……あの?」
「……」
「……粕村さん?」
さっきの返答は、相槌を打ったのと変わらないと、自分では思ったけども。
なにかまずかっただろうか。
「……上から?」
「え?」
「上から言った、今? はあ……新入社員の女が、ぼくに、上から……上からア!」
「きゃあっ!?」
いきなり大声になったので、つい悲鳴を上げてしまった。
粕村さんの目は、相変わらずらんらんと見開かれている。
「ぼくに、上から……上から、上からア……!」
「あ、あのっ?」
粕村さんはくるりと踵を返すと、社屋から出て行った。
燎火が、ぼそりと言ってくる。
「おれも最初、あれをやられた。あいつ誰のことも自分より下に見てるからな、上から目線に過敏なんだ」
「過敏というか……」
「粕村が毎日直行直帰しても、誰にも文句言われない理由も分かっただろう。いないほうがありがたいんだ。あの調子で、いいことは全部自分の力、嫌なことは全部他人のせい。そのくせ、人には他責志向だなんだと言い立てる。だからあだ名が、他責王子なんだとよ」
解けなくてもいい謎だった、気はする。
成人して十年以上経つ人に王子とつけたのも、そこはかとなくつけた側からの悪意が込められているのだろう。たぶん。
「でも、いいところもあるんでしょ? ここで、営業として採用されてるわけだし」
「……それなんだけどな。霊格の話しただろ?」
「え? うん」
「砕けた言い方をすれば、人間にとって都合のいいことをしてくれれば、霊格は上がる」
「さっきの話だと、そうだね?」
「たとえば、人間社会でほとほと手を焼き、周囲が弱りはてた上に困ったちゃん認定された人間を裏界で雇うとか」
燎火は私と目を合わせないまま、そう言った。
「それじゃ……もしかして」
「粕村は現世で勤めた三社で、管理職二人、同僚の社員を二人、パート・アルバイトを三人。ストレス過多や抑うつ状態に追い込んで、精神科通いや離職を余儀なくさせてる。思い込みが激しい上に、抱いた不満を直接的な行動で表すことをためらわない性格なんだ。難癖でさっきみたいな勢いで詰め寄られるから、周りは辞めるか病むかで、たまったものじゃない」
十人近くも……。
しょ……職場ブレイカーなんてものじゃないな……。
「うちでも最初はとても雇うつもりはなかったそうだが、当時の支店長――黒芙蓉さんじゃないぞ――が、霊格上昇による助成金目当てに入社させたんだ。本来ならあんな奔放な直行直帰なんて常識的にありえんのだが、その常識がねえおかげで、常時不在でいてくれて、うちは退職者も病院送りも出ない。会社的には助かってる」
「そんな悲しいWINWINを初めて見たよ……って、あれ!? でも黒芙蓉支店長、さっきもう直行直帰については厳格化するみたいなこと……」
燎火が、重々しくうなずいた。
「黒芙蓉支店長は、そういうところ厳しいタイプだからな……これは、明日から荒れるぜ……」
「社員が出社するだけで……?」
燎火は、床に落ちていたさっきの紙ゴミを拾い上げた。
「あっごめん、私が捨てるよ」
「いいんだよ。裏界も現世も、まともなやつから損をするのは同じか……やるせねえな……」
燎火が投げた紙は、軽い音を立てて、プラスチックのゴミ箱に吸い込まれていった。
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