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出勤直後のルーティンワークをあわただしく片づけて、出張から戻ってきた燎火と訓練の進行についていくつかの打ち合わせをし終わると、時刻はもうお昼に近かった。
「B2教室のWEBデザイナーコースで、妖怪と人間が一人ずつ、先々週に就職して中途退校したんだが。参ったな」
「就職して中途退校って、『訓練期間中に仕事が決まったからもう来られません』ってことでしょ? なにかいけないの?」
「いや、就職が決まったこと自体は喜ばしい。そのための訓練だ。だが就職による中途退校者は書類――退校届と、就職内容についての報告書を出す決まりなんだ。これは、訓練の開始時と退校時に、生徒に口を酸っっっぱくして注意してある」
燎火の双眸が、ぎらぎらと鈍く光る。こころなしか、唸り声も聞こえてきた。
「あ、つまり、それを出してくれないんだ、二週間経っても? 電話やメール入れても?」
「そう。出さなくても、本人たちにはなんの不利益もない書類だから、徹頭徹尾無視を決め込めば、いずれ諦めるだろうと踏んでるのかもな。だがそれじゃこっちはいつまでも処理ができないし、電話やメール、書面での連絡を入れ続けるだけでも、業務上かなりの負担になるだろ」
前に聞いた、無断欠席者に対しては、電話、メール、メッセージアプリが今一つ有効な連絡手段にならないという話を思い出す。
「……本人たちは、出さなくても不利益がないの?」
「報告書類を出さなかったから罰金、なんて法律があるわけないからな。現世の職業訓練は少し違うようだが、裏界ではひたすら延々とにかくずっと待ち続けることになる。はっきり言って大迷惑だ。説明を受けて納得した上で訓練上の義務を果たさないってのは、税金使い込んだのを承知で踏み倒してるようなもんだろ」
私は首をかしげる。
「でも、どうして出してくれないんだろう? 書類って言ったって、紙で一枚か二枚でしょ?」
「そうだ。しかも別に難しい書面でもなんでもない。五分もあれば書き終わる。それを出してくれない理由としては――」
燎火が人差し指を立てた。
「一つ。単純に面倒くさい」
「それはシンプルな」
燎火の中指も立ち、ピースサインのようになる。
「二つ。就職が決まったというのは噓。ただ訓練に飽きたから辞めると説明するのが面倒だから、適当な理由づけをしただけだった」
「それこそむしろ面倒くさいような……」
「裏会の訓練の提出物ってのは、訓練生の『面倒くさい』との闘いなんだよ。とにかく面倒くさくなくしてやらないと、名前書くだけの書類すら出せない妖怪なんてざらだ。で、三つ目。出したいが、出せない状況に陥った」
これは、すぐにはぴんと来ない。
「ああつまりだな、妖怪同士の抗争に巻き込まれて倒されちまったとか、人間の退魔師――最近めったにいねえけど――に祓われちまったとかで、書類どころじゃなくなった場合だ。人間でも、そうだな、借金取りに追われて夜逃げしたとか。ま、かなりのレアケースには違いないんで、あまりこのパターンは見かけない」
「なるほど……。で、その二人はそのうちの……」
「どうも、二人して一つ目だ。二人とも退校する前、就職先の名前や事業所の場所まで口にしてたからな、それは本当なんだろう。世話が焼けるぜ」
私たちは、それぞれの仕事に戻った。
お昼休みまでの残り時間で仕上げられそうな仕事を頭の中でいくつかピックアップしていると、横で燎火が「げ」と言うのが聞こえた。
燎火は、玄関のガラス扉の向こうを見ている。
「どうかした、燎火?」
「……あいつが来る」
あいつ? と私もドアを見ると、透明な窓ガラスの向こうに人影が見えた。
金髪のボブ、細身の青いスーツ、黒いリュックサックを背負った、人間――だと思う――の男性。
年のころは三十歳くらいに見える。
訓練生ではない。
「あの人、職員なの?」
「ああ。残念ながらな」
「人間だよね?」
「ああ。我が社の誇る、他責王子だ」
タセキオウジ?
頭の中で、すぐに漢字変換ができず、私は燎火に訊く。
「豆腐小僧とか茨城童子みたいなこと? あ、でもそれだと妖怪か」
「そう、やつはまごうかたなき人間だ。他責王子ってのは、他人の責任の王子様と書くんだが……あいつのあだ名だよ。前の会社でつけられたって話だ」
「あだ名が、王子……」
「さらに言えば、あいつは今年で三十一歳。ここに入社して三年目の営業だが、別名は『永遠の入社半年』だ」
「……もしかして、あんまり褒めてないね?」
「ある程度売上を上げればすぐに階級も上がるうちの会社では、一年もあればたいていチーフに上がるんだが、あいつだけはいまだに無階級――ヒラのままだからな。営業としての実績は、推して図ってくれ」
ドアが開いた。
くだんの人物が、社内に入ってくる。
切りそろえられた前髪の下、彼の眼鏡のフレームは青く、細く、怜悧そうな印象を湛えている。
細められた目は、どこか神経質そうだ。身長はあまり高くないようだけど、痩せているせいで縦に伸びて見えた。
けれどそんな見た目とは、裏腹に。
「はいどおーも! みなさんお疲れ様でーす! 粕村最愛が参りましたよ!」
彼の声は、事務所を震わせるくらいのボリュームでフロア中に響いた。
……けれど。
「ど、どうもっ? お疲れ様ですっ」
立ち上がってそう答えたのは、私だけだった。
まだ出かける前の営業社員が何人も事務所にいるのに、彼――粕村さん?――のほうを振り向きもしない。燎火もだ。
すると、粕村さんはすたすたと私の前にやってきた。
「ああ、きーみが新入社員の有栖ちゃんか! ぼく粕村! よろしくね! 営業やってます!」
「よ、よろしくお願いします。あの、初めましてですよね?」
もう私が就職してから何週間か経ったので、ほとんどの社員とは顔見知りになっているはずなのだけど。
粕村さんの顔は初めて見る。
「そーだよう! まあ君たち内勤の給料はぼくたちが稼いであげるから、毎日そこに座ってパソコンやってるだけでも大丈夫だよ!」
「なっ……」
いきなりのぶしつけな発言に、絶句する。
けれど私の横で、燎火が立ち上がる音と、低い唸り声が聞こえた。
「寝言抜かしてんじゃねえぞ、粕村。お前の一ヶ月の売上なんて、お前の給料の総額より低いだろうが。訓練の付加奨励金の、何分の一だ?」
付加奨励金というのは、訓練生の就職率がいいと労働局から支払ってもらえる、ボーナスみたいなものだ。
もちろん、就職率が低ければもらえない。
燎火は毎回、一番高いグレードの付加奨励金を得ているというのは、黒芙蓉支店長から聞いている。
「あれ、いたのりょーちゃん。相変わらず犬っぽいね」
「お前こそ、いい加減煽り文句の語彙くらい増やしたらどうだ? それにそら、そこにあるアンケート用紙お前の課にいくやつだろ? 集計しておかねえと、お前らが困るんじゃねえのか? 先週から置きっぱなしだろ、だらしねえ野郎だな」
燎火が指さした、傍らのテーブルに乗っていたアンケートは、派遣社員の利用に関する聞き取り調査についてのものだった。
すると、粕村さんは両手で耳を抑えた。
「いや、分からないね! ぼくはなんにも聞いてないし知らない! 知らないからやりようがない!」
「そうだろうよ、お前毎日直行直帰してるもんな。うちはフレックスじゃねえぞ。ちゃんと出社して、自分の机くらい片づけたらどうだ」
事務所の一角にある、こんもりと書類の積もったデスクを、燎火が睨んだ。
……あれ、粕村さんのデスクだったんだ……。
ていうか、毎日直行直帰? この何週間か、ずっと? だから会わなかったんだな……。
「えー、なに偉そうに! ぼくの直行直帰は、ちゃんと支店長から許可を得てるんですー!」
そこに、ちょうど黒芙蓉支店長が通りかかった。
粕村さんがくるりとそちらを向く。
「あっ、支店長~! 言ってやってくださいよ、ぼくの直行直帰は支店長から許可されてますよねー!」
支店長が微笑む。
ただ、……どこか青白い顔色で。
「ああ、そうだな。確かにわたくしが許可した。必要であれば直行直帰して構わないと」
「ほらほらー!」と、粕村さんが、口の形をV字型にして得意そうに言う。
支店長はそれを意に介さず、静かに続けた。
「ただし、今言ったように『必要であれば』だ。お前、こうも毎日毎日、出勤時間である朝の九時から商談やコンサルティングをしてるのか? そんなのに対応してくれる得意先や登録者が、そんなにたくさんいるのか?」
びく、と粕村さんの肩が震える。
「し、……してますよ、もちろん」
「ほう。では、昨日と今日はどこに?」
「え、あ、あー。えーと、そう、……魔働社とか、……イビル不動産とかあ……」
「そうか。ではわたくしから、早くから商談に応じてくれた礼を述べておこう」
そう言ってスマートフォンを取り出した支店長に、粕村さんがずいと詰め寄る。
「あっあ、今忙しいんじゃないかなー! ちょっと後にしたほうがいいかもー!」
「その間に口裏を合わせてもらうわけか?」
「ぐぬうっ」
支店長の視線が鋭くなる。
「粕村お前、直行直帰の時にはちゃんと業務内容報告書を出せと言っているのに、まともに出して来ないよな。だからわたくしは、お前が毎日なにをやっているのかもよく分からんままだ。これではもう、直行直帰なんぞ認められんよ」
「は、はあー!? そりゃないでしょー!? 支店長がいいって言ったのにー!」
「だから、都合のいいところだけ切り取るな。直行直帰の社内規定が守れないのなら、お前にはその仕組みを使いこなせるだけの力がないってことだ。だから認めない。明日からは、事前申請のない直行直帰は禁止だよ。……というか、普通はそうだからね」
かつかつと高いヒールの音を立てて、支店長が自分のデスクに戻っていく。
「くうっ……勝手だよ、みんな……! 全部ぼくのせいにして……支店長って、すっごい他責志向だよね……!」
そう言って歯を食いしばっている粕村さんに、燎火が半眼で告げる。
「本気でそう思ってそうなのが、お前の凄いところだけどな。その調子じゃ、今月の売上も微々たるもんだろ。うちの営業は歩合制だぞ、生活できんのか?」
ふん、と粕村さんが鼻を鳴らした。
「ぼくは親元だからね。基本給が百パーセント自分のお金になるから、ばっちり生活できるんだよ。親元の営業は、みんな似たようなものでしょお」
「いばることじゃねえだろ。それに営業で二年目の湯谷、あいつも同じく親元だけど、売上は課内トップクラスだぞ。家に金入れて貯金もしてるらしいし。全然似たようなものじゃねえじゃねえか」
粕村さんがくなくなとかぶりを振る。
「はあ……ぼくに割り当てられたエリアが、不利過ぎるんだよなあ……」
「いや、お前の営業エリア、別名『金の生る木』って言われるくらいの優良な――」
そこで、ピイピイという控えめな音が、事務所の壁掛け時計から鳴り響いた。
「あっあーお昼お昼―! それじゃぼく、外に食べに行ってくるねー! 今日は直帰しまーす! 明日からだめってことは、今日はいいんだもんねー!」
そう言い残して、粕村さんは走り去った。燎火が「今日もだろ」とあきれ声で突っ込む。
あっけにとられる職員一同と、こんもりと書類が乗ったままのデスクを残して。
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