<第二章 社内外の問題児は大変です>1
午後二時。
パソコンコースの教室の中は、おおむね静かだった。ただ、キーボードの小さな打鍵音だけが間断なく響いている。
このクラスの訓練は昨日で二ヶ月目を終え、いよいよ今日から最後の月だ。今日は、表計算ソフトの小テストの日だった。
妖怪には、手の作りがキーボードを使うのに適していなかったり、そもそも手と呼べる部位がない種類もいる。
そういう場合は補助器具を貸し出すなど、できる限りの対応をする。
幸いこのクラスの生徒たちは――生島さんを含め――順調にカリキュラムを消化していて、今日のテストも全員合格点を取れそうだった。
みんなのノートパソコンの画面には、カラフルな棒グラフや円グラフが次々に現れていく。
滝じいさんと目くばせしあって、私は巡回に来た3A教室を出た。
事務所に戻ると、燎火も、ほかのクラスの巡回から帰ってきたところだった。
「有栖、お疲れ。今のところはどの教室も平常運転だな」
「うん。このまま終了日までいくといいね」
「でもなあ、生徒の起こすトラブルって、慣れて気が抜けてきた頃に起きるからな。A3は二ヶ月過ぎたところか、たぶんなにか起こるぞ」
「そ……そういうものなんだ」
燎火は紙コップの中のコーヒーをくるくると回し、
「ま、生徒のトラブルは、相応の対処をすればいいだけなんだが、もう一方はなかなかたちが悪い上に年中無休で起こりうる。有栖、なにかあったらおれか支店長に言えよ」
「もう一方っていうと……前にも言ってた、社内の人からの?」つい小声になる「でも、そういう人たちってなにがそんなに気に入らないの?」
燎かもさすがに声を潜めた。
「理由は人それぞれだが、前にも言ったろ、本業側から見るととにかく目障りだからって敵視する職員て珍しくねえんだよ。訓練の評判がよければいいほど、本業が職業訓練に浸食されているように見えるらしい。裏界で、人妖混成のある予備校が介護職の職業訓練やってたら、そこの訓練担当じゃない人間職員が演習用の介護ベッドに唾吐いてたらしいからな」
「なんで!?」
「もともと受験勉強するために作られた教室の隅に、ビニールシートをかけて片づけられていたとはいえ、ベッドなんて代物があるのがむかついたそうだ。とにかく、論理的な理由なんかねえに等しいってことだな」
そう言われると、お手上げになってしまう。
「これは、おれが入社した時に黒芙蓉支店長に言われたんだ。お客や取引先みたいに社外に問題児がいても、職員てのはそれなりに善処できる。その場合は会社だって一緒になって対応してくれる。だが、社内での迫害に耐えられる人間は多くないし、えてして孤立しがちだ。その上残念ながら、裏界は現世より感情的に極端なやつが多いからな」
「……今のところ、そんなに現世と違いがあるとは思わないけど……」
相変わらず、職員からちょっとした嫌味を言われることはあるけれど、これは現世でも大差ないはずだ。
「今はまだそうでも、妖怪はそもそも常識が人間と違うし、現世ではまともでも、裏界にくるとたがが外れる人間もいる。そういう連中のターゲットになるのは、決まって立場や気が弱いやつだ。たとえば、自分より人のことを考えがちな新人の女性職員とかな」
「うっ。い、いや、私そんなに人がいいわけでもないけど」
「だといいがな。なんにせよ、ストレスってのは積み重なるもんだ。加害したほうは次の日にはなかったことにしがちだが、やられたほうは解消なんてなかなかできずに堆積していくもんだろう。なにかあれば、早めに報告しろよ。この『先輩』に」
燎火が親指で自分を指した。
おどけたふうだけど、話の中身が真剣なものなのは分かる。
それから私たちは、それぞれのデスクワークに取り掛かった。
今行われている訓練の日誌と出欠簿の確認、その数値化したデータの整理、訓練生一人ずつの就職活動の進捗記録とそれぞれの対策、などなど。
それに現在進行中のものだけではなく、すでに終わった訓練の後処理や、これから行う訓練の申請準備。
職業訓練は税金で運営されるため、私たちは例の妖怪機構に訓練実施の申請書類を提出し、公的に認定を受ける必要があるんだけど、この書類がまた多いうえに細かく、締め切りも厳しい。
一度申請時期を逃すと、一シーズンを棒に振ってしまうこともある。
現世ではどうか分からないけれど、裏界の職業訓練は、とにかく書類の作成や対応に手間がかかるものなのは、よく分かった。
それに、細かいことでも当局に確認を取らずにいい加減にやっていると違反行為になってしまいかねないので、こまごまとした連絡の取り合いで、瞬く間に一日が過ぎて行ったりもする。
燎火によれば、生徒から、「講師はともかく事務局の人って、昼間なにしてるの?」なんて軽口を言われることも少なくないらしい。
そう思われるのも無理はないのかもしれない。けれど見えないところでは、妖怪機構や現世の労働局を含め、関係各所への連絡や各種の確認、そして膨大な書類作成と、毎日なにかしらの締め切りに追われている。
なので、まともに働いていれば、フルタイムの勤務の中で暇な時間というのはほとんどない。ほかの多くの仕事と同じだ。
この日も、十六時に各クラスの訓練が終わり、掃除と後片づけをすると、すぐに退社時間になってしまった。
「支店長すみません、三十分残業させてください」
「いいともゥ! 三十分だね!」
黒芙蓉支店長が、右腕を振り上げた謎のポーズで許可を出してくれるのを見てから、すぐに自分のパソコンに向き直る。
明日の朝一番で妖怪機構と話を進めるのに必要な書類を、できれば今日中に仕上げてしまいたかった。
メールでの提出締め切りは明日のお昼の十二時までだったけど、大部分を完成させた上で、朝にいくつかの確認さえすれば提出可能な状態にしておきたい。
事務仕事は、なにか一つ先延ばしにすると、そのせいでほかの業務の進行速度まで鈍ってしまうことがある。
だから、一人でパソコンの中でできるデスクワークこそどんどん前倒しで、終わりそうな仕事から次々に終わらせないといけない。
こういうことは、内勤の仕事だとよくある。前の会社で、研修の時にそう教わった。
そのための状況判断能力が、内勤には重要なのだとも。
あれは正しかったのだなあ。
就業時間を十五分も過ぎると、社内の人影はまばらになった。
静まり返っていく事務所で、わき目も降らずにキーボードを叩いていると、思ったよりも早く書類が仕上げられた。
目を細めて画面の中の文字列を追い、間違いがないかチェックする。申請書本体に、その数倍の数の添付書類がいるけれど、その過不足も確認しておく。
どうやらよさそうだ、と大きく息をついて、椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
「んっ……」
「おっと、危ないな」
「わっ!? すみません!」
すぐ後ろに、職員の峰内さんが立っていた。
確か、自己紹介された時に聞いた年齢は四十二歳。身長は百八十センチほどの、体格のいい人間の男性だ。光沢のあるオールバックの髪に、長く伸ばしたもみあげがトレードマーク。
燎火の言う「本業」の人で、就妖社の派遣業で営業社員をしており、職業訓練業務とはほぼ縁はない。そのため、今まで挨拶以上の会話を交わしたことはあまりなかった。
そんな峰内さんのお腹に、もう少しで私の後ろ頭がぶつかるところだったのだ。
……でも、今の感じだと、まるで峰内さんが、後ろから私にほとんど寄り添うくらいの位置にいたような……?
「古兎さん、まだ残業なの?」
「あ、もう終わるところです」
「昨日も残業してたよね? どうしてそんなに、たびたび遅くなるのかな?」
「え? ちょうど、締め切りの近い書類が重なっていたので」
「でも、昼間ずっとパソコンやってんでしょ? ちょっとくらい重なったって、残業が続くのはさあ。なんでそんなに遅いんだろう? なにやってたの?」
「? ですから、事務仕事を」
「事務仕事はみんなやってるじゃん」
「……そうですね?」
「みんなやってることが残業の理由になるなんて、変じゃんなあ?」
会話が嚙み合わない。
疲れた頭で、私がしている返事は峰内さんの意図からずれてるんだろうなとは思ったのだけど、峰内さんが頭の中で決めているらしい「正解の返答」がなかなか分からない。
少なくとも――
みんな事務仕事をしていれば、その中の一人が事務仕事で残業になるのはおかしいとお思いですか?
でも、人それぞれの事務仕事の量と内容、締め切りは異なるんですから、時には残業になってもなにもおかしくないですよね?
――という、危うく口から出そうになった反論は、全然正解ではないのは分かる。
疲れてくると、攻撃的になっていけない。
でもなんとか早めに、この状況から逃れたい。残業中にこんな言い合いをしているのは、それこそ不毛だし。
などと考えていたら、黒芙蓉支店長が助け舟を出してくれた。
「峰内イ! 古兎さんの邪魔ァするんじゃない! 事務仕事って言ってもいろいろあってなあ、お前みたいに定型のフォーマットにカタカタと決まり文句打ち込むもんばっかりじゃないんだよ! ほらほら仕事終わったなら帰った帰った!」
「ぐっ……」
唇を噛む峰内さん。
「あ、あの、峰内さんの事務作業も、もっといろんなことしてますよね! 営業の後の事務作業って大変でしょうし!」
「いや……確かにおれは、規定の欄に数字と単語を打ち込むくらいしかしてない……あなたに比べりゃあね……」
急に素直になった峰内さんに、何事かと思ったら、彼の目は、私の積み上げた分厚い申請書類の束に向けられていた。
本当は全部メールで済むといいんだけど、妖怪機構はまだまだ紙での提出が必要な書類も多いのだ。
ぞっとした様子で、峰内さんは身を引くと、「じゃあ、お疲れ」と言い残して帰っていった。
私も支店長にお礼と挨拶をして、帰り支度をする。
「すまないね、古兎さん。支店長として教育が行き届かず、恥ずかしい限りさ。こんな時に限って燎火のやつもいないし」
「いえ、私だっていつまでも燎火に頼っていられないですから」
今日は、燎火は出張しているため出社していない。
「妖怪のわたくしが言うのもなんだが、人間にもいろんなのがいるもんだよなあ。峰内は仕事はそこそこできるんだが、どうもがさつでいけない」
「さっきみたいなのは、少し困っちゃいますね」
「軽蔑しちゃうか?」
「そ、そこまでは。支店長の言う通り人間もいろいろで、それでもみんな、どこかしらいいところがあるものですから。一部だけ見て軽蔑なんてしないですよ」
「おお。古兎さんはおおらかだなあ~」
「そんなそんな」
「ははははは」
「あははは」
なんて言っていた、翌日。
私は、少しどころではなく困ることになるのだった。
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