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翌日、事務所の掃除当番だったので一通りの清掃を終えると――なお、やっぱりこの会社では、掃除の仕方はなかなかに細かくマニュアル化されていた――、私と燎火はA3教室を見に行った。
教室の後ろのドアに開いたガラス窓から中を見ると、生島さんは懸命にタイピングに打ち込み、ちゃんと授業を受けていた。滝じいさんも、進行がしやすそうだ。
燎火が小さな声で、やったな、と言ってくる。私も、うん、と小さくうなずいた。
事務所に戻ると、デスクワークに取り掛かる。
燎火にコーヒーを入れて持っていこうかと思ったけど、小休止でのコーヒーブレイク以外の時は自分の分だけ入れるようにしよう、とやんわり断られた。
それに燎火いわく「戦闘能力で人間を上回るおれが有栖にコーヒーを入れてやるのは親切だが、逆におれが入れてもらうのは気が引ける」らしい。
腕力が親切の基準になるっていうのは、私としては違和感があるのだけど、ここは燎火の価値観を尊重することにした。
妖怪は妖怪の基準のもとに、いろいろ考えているものなんだ。
……まあ、戦闘能力云々については、燎火だけかもしれないけど。そういえば彼は昔から野良の妖怪とけんかすることは多くて、強い弱いに関しては結構こだわっていたほうだったな。
お昼休み、燎火と二人で会社の屋上に出た。
人間はみんなお昼に食事をするけど、妖怪の職員は、お昼ご飯を食べるかどうかはまちまち。
この日の屋上には、私たちだけしかいなかった。
つるつるに磨き上げられた明るい色の木製ベンチがあるので、燎火と並んで座る。
飲み物は、コーヒーではなくお茶にした。
聞いた話では、ドリップバッグのコーヒーよりもこのお茶のほうが一杯当たりの単価が高いらしい。
給湯室には、適温で入れられるように湯温計まで置いてあるし、蛇口に浄水器がついているのにミネラルウォーターのボトルも冷蔵庫に完備されている。
黒芙蓉支店長からは「好き好んでいい茶を買っているんだから、何杯でも飲むがいい!」と言われているけど、私は一日に一杯までにしていた。
私はサンドイッチ、燎火は丸く握ったおむすびの昼食を済ませ、くだんのお茶を飲んでいたら、生島さんの話になった。
「生島さんな、人間に愛着が湧いて現世で人間として過ごしてきたんだが、長く努めてきた工場が業績不振で、リストラ寸前で早期退職したらしい。上司が、少しでも手元に金が残る形で辞めさせてくれたんだとよ」
「そうなんだ……。他人事とは思えないなあ……」
もっとも、働いた期間も仕事の重さも、私とは大違いなのだろうけど。
「その時リストラ対象に挙がった理由の一つに、ベテランなのにパソコン一つまともに使えないってのがあったそうだ。それもあって、ハローワークでここの訓練を勧められたと。次の就職で、役に立つといいよな」
「うん。最近、どんな仕事でも、PCで基本的な入力くらいできないとって感じだもんね」
「ところで、有栖。生島さんと、子供――子狸か?――の頃の話なんてしたのか?」
したというか、私が生島さんのことを聞いただけなのだけど。
そう答えると、燎火が、それでかと微笑んだ。
「生島さんな、会社を辞めて、人間社会での地位も立場もなくして、毎日やることもなくなって、穴倉の中で震えてた子供のころみたいに無力になったと思ったんだってよ。だから、つい無理を言って甘えちまったのかもしれんとさ。有栖に、そう謝っておいてくれって言われた」
「謝ることなんてないのに……」
それは本当にそう思う。誰だって弱気になることがあって、そういう時に、自分ひとりの力で立ち直るのは意外に難しい。
生島さんが悪いほうに行かなくて済んだなら、よかった。
下手をしたら、最初はあの程度のレジスタンス――だかなんだか――でも、その後どんどん悪化してしまったかもしれないのだから。
「これが、燎火が言ってた、小さな奇跡ってことなのかな……。もしそうなら、これからも、時々でも起こしてみたいな」
裏界の、曇っているのに明るい空を見上げながら、そんなことを口にした。
隣にいる燎火が無言だったので、恥ずかしいことを言ってしまったから絶句されているのかと思って、そちらを見た。
燎火も私を見ていた。
「ど、どうしたの?」
風が吹く。
「見とれていただけだ」
「え? なに、風でよく聞こえな」
「よおくぞ言ってくれた、古兎さああああん!」
いきなり後ろから、そんな叫び声がした。
「きゃああっ!?」と悲鳴を上げながら振り向くと、私たちの背後にメートルほどのところに、黒芙蓉支店長が立っている。手に木の板の束――ハリセンを持って。
「な、なにかっ!? 私なにか言いましたっけ!? というかいつからそこに――」
私の後半の質問については、支店長はまったく耳に入っていないようで。
「奇跡! その通りだよ、そのささやかな奇跡の積み重ねが見たくて、わたくしたちはこの仕事をしているんだ! 正直言って裏界の訓練校には、どうしようもない生徒はわんさか来る! カスタマーハラスメントのおかげで、事務も講師も離職が珍しくない! だが、誰かがやるべき仕事なのだ! たとえ会社の内外から、あるべからざる迷惑行為を受けても!」
こぶしを握って勢いよくまくし立てられる支店長の言葉に、私は少し聞きとがめるところがあった。
「会社の……内外、ですか? 外はともかく、なんで内から……?」
その疑問に答えてきたのは支店長ではなく、隣に座っている燎火だった。
「これは裏界だけでなく、現世でもそうなんだけどよ。職業訓練てやたら運営に手間がかかる割に、それだけで会社がやっていけるような、ざくざく儲かる仕事じゃねえんだ」
「それは……原資が税金だもんね。あんまり儲かるようじゃ、おかしいのは分かるよ」
「だろ。だからたいてい、ほかに本業を持ってる会社が、空いてる建物とか会議室とかを利用して開講するんだよ。就妖社なら派遣業で、おれだってもともとはその営業だ」
まだ、私のかしげた首は戻らない。
「それが……なんで問題になるの?」
「本業側に勤めてる人間に、職業訓練の仕事をしてる職員を見下すやつがちらほらいるんだ。自分の仕事は会社のメイン、訓練はサブ。そういう意識がある。本業に誇りを持ってるやつほど、職業訓練なんて会社にとって不要で、手間と人手ばかりかかる不愉快な部署だと見ることもある。うちもそうだったぜ。だいぶよくなったけどな」
「それは燎火の働きぶりのおかげだねえ! 理不尽な冷遇に対して仕事で見返すとは、労働者の鏡だよ!」と、ようやく目の焦点がこちらと合った支店長が手を差し伸べながら言う。
「燎火も……そんなふうに見られてたの?」
燎火は肩をすくめた。
「んー、職業訓練の部署に移ったことを左遷扱いだと見られることが多かったし、嘲笑や陰口くらいはよく叩かれてたな。おれは腕っぷしが社内でも最強級に強いから、正面切って言われないだけで、そういう空気は確実にあった。心配しなくても、今はもう有栖をそんな目には遭わせねえから……なんだよ、目つきが怖いぞ」
「あっ、なっ、なんでもない。私のことなんて、別にいいんだけど」
燎火の腕っぷしが強いから、嘲笑や陰口で済んでいた。……それでも、充分たちが悪い。じゃあ、燎火が強くなかったら?
それを思うと、燎火が――妖怪が強さにこだわる理由も少し分かる。私が思う以上に、裏界では、強さの差が生きやすさの違いに直結しているのかもしれない。
……それにしたって、仕事の内容の違いで、燎火を社内の人が見下すとか見下されるとか、そんなの……。
「心配するな古兎さん! わたくしがいる限り、内だろうが外だろうが不遜な真似は許さん! 我が斬鉄丸は、常に血に飢えておるわ!」
「……斬鉄丸……?」
半眼で木製ハリセンを見る私に、燎火が耳打ちした。
「今のところ、実際にあれが振るわれたことはない。こだわりの能登ヒバでできてるから、そんなもんでなにかをぶっ叩くなんてことそうそうしねえよ。小学生が木の棒振り回して髭切の太刀だーとか言ってるのと変わらん」
「あ……そう……」
ヒゲキリノタチなんてものを掲げる小学生は見たことないな、などと考えていたせいで気の抜けた返事をする私に、燎火は、支店長の前だというのに堂々と言ってきた。
「有栖、一応言っておくぞ。やりがいや楽しさを見出すことはあっても、たかが一つの仕事だ。辞めたくなったらいつでも辞めろ。無理に耐えれば、有栖のほうがおかしくなる。ただでさえ人とじかに接する仕事は、ストレスの逃げ場がねえんだ。おれや支店長に遠慮せずに、すっぱり決断しろよな」
「あはは、なにそれ。心配しなくても、そんなにつらくなったら退職するよ」
「どうだかな。今さっきだって、自分の心配より先に、おれがどんな目に遭ってきたかを考えて怒ってたろ?」
うっ!?
「な、なんで燎火にそんなことが分かるの」
「さあて、なんででしょうねえ。とにかく、そういうところが心配なんだよ。自分の優先順位が低そうで」
自分の優先順位が低い……自分では、そう思えないけど。
「き……気をつけます」
「ぜひ。自分はいつでもほかに行ける場所がある、追い詰められてはいない、と思うだけでも、だいぶ違うぜ」
燎火が横顔で笑う。
うっとりとハリセンを見つめている支店長をよそに、私は、お茶の入った紙コップを手に取る。
湯温は、ちょうど人肌くらいになっていた。
鮮やかな香りと、心地よい深い味わいが、にぎやかながら穏やかな昼休みに似合っていた。