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放課後。
「なんですかねえ、話って。おれも忙しいんですがねえ」
ぶすっとした顔の生島さんと、机を挟んで向かい合いながら――ただし真正面ではなく少しずらして――、私は努めて笑顔を作っていた。
相談室と名づけられた小部屋は、部屋の中央にテーブルと椅子が置かれている以外は、スチール棚が二つと窓があるだけの簡素な作りだ。
そこへ、お茶の入った湯飲みをお盆に乗せて、燎火が入ってきた。
目に見えて、生島さんがたじろぐ。
「な、なんだよ。古兎さんだけかと思ったら、犬神のセンセイも一緒かよ」
「いえいえ、おれはただのお茶係ですよ。すぐに出ていくのでご心配なく」
「はん。今も言ったけどな、おれも忙しいんだよ。なんの話だか知らんけど、ちゃっちゃと終わりにして欲しいね」
それを聞いて、燎火の目がきらりと光った。
「ほう、お忙しい。まだ訓練の終了日までは二ヶ月ほどあるのに、もう求職活動をしておいでなのですか!」
職業訓練は、カリキュラムによって長さが違うけれど、就妖社ではおおよそ三ヶ月から五ヶ月の日程で組むことが多かった。生島さんのPCコースは三ヶ月コースで、もうすぐ一ヶ月目が終わろうとしている。
「あ? そ、そんなのまだなにもしてねえよ」
「ん? なにもしてない? では、なにでそんなに忙しいんです?」
い、意地悪だなあ燎火。
訓練の開講日は、月曜から金曜までの週五日で、土日祝日は休講だった。
つまり平日は毎日授業があるので、忙しいといえば忙しいんだけど、志望先の企業を選定したり、履歴書の試作をする程度の求職活動を同時進行するのには問題ないはずではある。
それをなにもしていないというのは、少し困る、かもしれない。
職業訓練にかまけていたせいで就職がままなりません、では本末転倒だからだ。
「そ……そりゃあいろいろだよ」
「なるほど、いろいろ。おれたちも、仕事中ですから忙しいのは同じですよ。お互いに有意義な時間にしてくださいね。それと、生島さん。求職活動は実施しましょうね」
「や、やるよそのうち。でもほら、やっぱり目の前の授業に集中しねえとさ」
燎火の目が、さらにぎらぎらと光る。
またきついことを言う前にやんわりと止めようとしたけど、間に合わなかった。
「やっぱりとは? 入校される時に言いましたよね、在学中はたゆまずに求職活動を行い、最低でも情報収集をするようにと。最低でもですよ?誓約書も書いてもらっている。誓約というのは人間には無効なのでしょうか? 成約した最低限のこともしないでいるのですかね? 授業に集中するのは訓練生として当たり前です、なのに求職活動を怠ける言い訳に授業を持ち出すのは――」
「りょ、燎火さんストップ! その辺で!」
生徒の前で本人を呼ぶ時は、燎火にさんづけをしている。
「燎火さん、後は私が聞きますから。……それと、お茶は別の誰かに入れ直してもらってください」
燎火が、背を反らし、大げさに半眼になる。
「なぜです、古兎さん? なにかおれに落ち度でも?」
「落ち度は関係なくて、そんなこと言われて出されたお茶なんて飲む気しないでしょうって言ってるんですっ」
了解しました、と燎火が出ていく。
新しいお茶は、受付の葵さんが持ってきてくれた。指の先まで青い肌が、不思議なほどに、煎茶の鮮やかな緑に似合っている。少なくとも燎火に脅されながら出されたお茶よりは、ずっとおいしそうに見えるはずだ。
「ふ、ふん、コーヒーくらい出したらどうなんだ」
葵さんが退室してからそう悪態をつく生島さんの様子は、もう完全に虚勢にしか見えない。
あの燎火の態度の悪さは、私のために、生島さんを調子に乗らせないよう意気をくじくのが目的だったんだろう。……それにしても、少し言い過ぎだけど。
今度は私が、もう少し話しやすくしてあげないと。
「え、お茶よくないですか? 私好きなんですよね。うち、いいお茶っ葉使ってるんですよ」
それは本当のことで、黒芙蓉支店長の意向でお茶代は奮発している。
実際、そう言われて春めいたさわやかな香りをかいだ生島さんの表情は、明らかに和らいだ。思ったよりもずっといい香りで、驚いたんだろう。
「ま、まあ、いけなかねえけどさ。で、なんだよ話って」
「それはもう、今日、授業で生島さんが、こう、極端な態度に出られた理由を伺えればと思いまして。燎火はああいう風ですから、言いにくいこともあるかと思って外してもらいました」
これは本音だった。少なくとも、私は生島さんからは恐れられてはいない。良くも悪くも。
「理由って……そりゃ、おれの好意があんたに断られたからで……あんなの、失礼じゃねえか」
「社規があるものですから、すみません。そのお気持ちは、ぜひ授業内容の習得と、就職の成功で表していただければ!」
わざとらしく明るい声を出すと、生島さんに残っていた毒気が、目に見えて抜けていく。
「……はは。上手いこと言うなあ。やっぱり、学校の人だもんなあ」
「そうですとも」
「悪びれねえな」
「本当のことですから。燎火だって、私だってまだ初日ですけど、生島さんにこの訓練を役立ててもらうために、毎日の運営をしていきます。だから、ちゃんと受けてちゃんと修了して欲しいんですよ」
生島さんが目を伏せた。
「ああ、そうだな……いや、分かるよ、あの犬神……燎火サンが正しいってのはさ。理詰めで言い負かされたみたいで、意地になっちまったのかな、おれ」
……なんだか、思っていたよりも穏便に話が運んでいる気がする。
ここで面談を始める前、燎火が私に耳打ちしてきたことを思い出した。
――生島さんはあれで意外と素直なところあるからな。一度やりたい放題したのがガス抜きになっただろうし、その後おれに気圧されて調子に乗りきる前に抑えられた。こっちが偉そうに接さず、説教然としないように話せば、それだけで上手くいきそうだぜ。
その通りに進んでいる。さすが、燎火先輩。
「今にしてみりゃ、自分がなんであんな子供じみたことしたんだか分からねえよ。変な歳の取り方しちまったな。ガキの頃から成長できてねえんかもな」
確かに、机に足を乗せるというのは、昔ながらの不良っぽいイメージがある。直には見たことがないけど、漫画とかではそういうキャラクターがいたような。
「生島さん、失礼ですが、現世での生活って結構不良っぽかったんですか?」
「いや、どっちかっつうと大人しいほうだったかな。棲み処の近くに人間の工務店があって、そこで人間の子供の姿でいたずらしてやっちゃ、李さんに捕まって叱られたな」
「李さん?」
「おれが狸だって、気づいてたんだかなかったんだか。普段無口なんだけど怒ると怖くてよ。説教の後に、よく、オーギョーチやパイナップルケーキくれたっけな。外国から来たらしくて自分も大変だったはずなのに、おれがちょっかい出すたびに面倒見てくれて、……」
そこで、生島さんが私をじっと見た。
昨日割引券を渡してきた時のような、どこか侮りを含んだ目とは違う。
私の後ろ、ずっと向こうまで見つめるような視線。
「……あの頃、李さんから見ればおれは小汚いくそがきで、当然力も李さんほどには強くなかった。……古兎さんは大人ではあるけどよ、李さんとは逆に、歳も腕力も今のおれより下だ。なのに、おれだけが昔も今も叱られる側か……。変な歳の取り方どころか、くそがきのままかね……」
「あっ? あの、私は叱ってなんて」
つんのめる私に、生島さんが、ああいやと首を振った。
「分かってるよ、おれの問題なんだ。すまねえな。……いや、すみませんでした、古兎さん。ばかやって、目が覚めました。明日から、ちゃんと受講します」
生島さんが深々とお辞儀した。
「あ、あの、生島さん、もしかして」
「はい?」
「燎火が今日生島さんの足つかんだのが凄く痛くて、それで弱気になられてるとかでは、ないです……よね?」
生島さんが吹き出した。
「いやあ、全然。あの時は驚いただけで、全然痛くなんかなかったですわ。……そう、ちいとも痛くなんかねえ。……いっそ痛めつけてくれりゃ、もっと早く目が覚めたかも知れねえのにね、あの人、そうはしねえんだね……。そんなことにも、気づかんところだったか……」
生島さんの目が、またここではないどこかを見ている。
これは、もう、今日のところは私から言うことはないだろう。
面談を終えて、何度も頭を下げてから就妖社を後にする生島さんを見送った。
デスクに戻ると、燎火がコーヒーを入れてくれていた。
事務所の中は、ほかにほとんど人がいなかった。
営業からまだ戻っていないか、課によっては会議室に集められているらしい。
「お疲れ」
「ありがとう。……あんな感じでよかったのかな」
「あの様子見てる限りじゃ、分かってくれたと思うけどな。後は明日からも経過観察を続けて、またまずくなるようなら軌道修正。その繰り返しだよ」
「でも、上手くいったっていっても、私大したことしてないよ。むしろ、燎火が全部下準備してくれていて、その敷かれたレール通りに収まったって感じ」
「言ったろ、露払いするって。ま、確かに多少の種まきはしたが、最後の締め方がなにより大事なんだよ。営業の契約と同じさ。おれは結構、かっとなって後先考えずに暴れちまうこともあるからな。今日のは有栖の手柄で間違いねえよ」
顔面を黒い犬に変えた燎火を思い出した。あれで詰め寄られたら、よほど気の強い人でなければけんかにもならない気がするけど。
「おれが、この仕事を有栖がやりたいって言った時に止めなかったのは、今日みたいな場合のことを考えたからなんだ」
「? どういうこと?」
「言葉で説得して、納得させるんじゃない。相手への態度、気遣い、姿勢、心構え。有栖のそうした一つ一つの要素があって、初めてあの生島さんの素直さがすぐに引き出せたからだ。おれじゃああはいかねえ」
……なんだか褒められてるっぽい、けど。
「それは……燎火があんなに威圧的に接してたからなのでは……」
「おれは仕事というものを始めるまでに、あまたの妖怪と丁々発止の戦いを繰り返してきた。人間の退魔師なんかもいたな。それらを潜り抜けてきたおれには、言下の威圧感とか、赫々たる迫力とか、そういったものが染みついている。悪いことだとは思わねえよ。意外に役に立つからな」
自分を表現するのになかなか立派な言葉を並べるあたりが、自尊心の強い燎火らしいけれど。
確かに、それがなければ、生島さんはどこまでも増長していたかもしれない。
「でもだからこそ、おれにはできねえんだよ、有栖みたいには。問題のある訓練生を力で脅して、形だけ言うことを聞かせるのは簡単だ。一番手っ取り早いだろう。だができることなら、生徒のほうから自分を省みて改心して欲しい。その機会を与えて、自ら叶えて欲しい。有栖にはそれができる。少なくともおれよりはな」
「わ、私に? 今日は、たまたま、それも燎火の手助けがあったからよかったけど、いつもそうなるとは」
燎火がふっと微笑む。そしてコーヒーの入った紙コップを軽く横に揺らした。
「そりゃ、経験はいるさ。人の助けもいるだろう。けど、……脅してきたやつの入れた茶なんて飲めないだろう、か。おれにはまったくない発想だった。茶は茶だろ?」
「あ……うん。あれは、生島さんにしてみたらそうかなって」
「あの時、生島さんと対峙している格好だったおれの横で、有栖は生島さんと同じ立ち位置からの目線でものを見ていた。かなわないと思ったよ」
自分がなにげなく思って言ったことを後からこういう風に取り沙汰されるのは、それが褒められているんであっても、なんだかとても気恥ずかしくなる。
「い、いや、だから、そんなのそれこそたまたまで」
「おれは妖怪だ。人間とは違う。だが人間と妖怪だけでなく、妖怪同士、人間同士であっても、気持ちが通じて分かり合うというのは、ごく小規模ながら奇跡と呼べるものだと思ってる。それくらい、貴重で価値のあるものなんだと」
急に、燎火の声の調子が変わった。
今までは昔なじみならではの軽妙さがあったけれど、今は真剣そのものの、低く抑揚を抑えた声。視線も床に向いている。深刻な話をするときの、燎火の癖だ。
私も、緩みかけていた顔を引き締め、真面目にうなずいた。
「人と直接接し、手助けする仕事をしていれば、それが本当はいかに難しいかということを何度も思い知らされる。現世で働いてた時、おれはそうだった。ここに来るまでも、いや、来てからも。助けても無視され、裏切られ、責められることも少なくない。だが、有栖がこの仕事を続けているうちは――」
燎火が視線を上げた。
じっと燎火を見つめていた私と、正面から目と目が合って、心臓が跳ねた。
「――その間は、君がその小さな奇跡を起こすのを隣で見ていたい。だから、有栖がここに来てくれて、おれは凄くうれしいよ」
真剣な、けれど燎火特有の鋭い眼光を含まない、今までに見たことのない目。
「なっ……」
燎火とは、今まで数えきれないくらいに軽口を叩き合ってきた。
お互いを冗談めかしながら讃えたり、あるいは、プレゼントを贈り合ってからかしこまってお礼を言い合ったことも何度もある。
でも、こんなに真面目な顔で、私がいてうれしいなんて言われたのは初めてだった。
どうしよう。なんて答えればいいんだろう。
笑いながら、軽口っぽく返せばいいのかな。
でも、燎火は目元は穏やかに微笑んでいるけど、表情そのものはふざけていない。
ここは、きっちり言うべきなのかもしれない。
私も、燎火の傍で、燎火と助け合いながら働けるのなら、とてもうれしいと。
で、でも、そんなことを真顔で口にしたら。
今まで冗談を言い合いながら隠してきた、私の、本当の気持ちまで、もしかしたら、燎火に。
ああ、でも、なにか言わないと。無言でいるわけにはいかない。
なにか。
なにかを。
「りょ……燎火。私――」
自分でもなにを口走ってしまうのか分からないまま、口を開いた瞬間。
「おおー燎火に古兎さん! どうだったね今日の面談は! まったく職業訓練は問題児の発生にいとまがなくて、眼鏡が小鼻まで下がりそうだよねえ!」
そう言って支店長室から躍り出てきたのは、その部屋の主、黒芙蓉支店長。
燎火が、半眼で言う。
「支店長の眼鏡はどういう仕組みなんだ? あと今のは問題発言なんで、今後もう言わんでくれよな。裏界はもちろん現世の会社にだって、勤め人の問題児がいくらでもいるだろうに」
それを、当の支店長は聞いているのかいないのか。
「んん!? どうしたね古兎さん、顔が赤いぞ! 熱かな!? それとも失礼な生徒のせいで怒り心頭かな!? まさかセクハラ受けたんじゃなかろうね!?」
「う、受けてませんそんなものっ! 生島さんは、明日からちゃんと受講してくれるそうですっ! そ、それじゃ私は教室の片づけがありますのでっ!」
私はコーヒーの残りをぐいーっとあおって、デスクを後にした。
事務所を出る時ちらりと振り向くと、支店長がにやにやしながら燎火の肩をぽんぽんと叩き、それを燎火が顔をしかめて振り払うのが見えた。なんの話をしているんだろう。
いけないいけない、燎火のことでうつつを抜かしている場合じゃない。
一緒に仕事できるのがうれしいのは本当だけど、それで浮かれているわけにはいかない。
頑張って、早く一人前になろう。
私は廊下を歩きながら、掃除が行き届いた清潔な学び舎の空気を深く吸い込んだ。
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