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 残念ながら。

 杞憂では、終わらなかった。


 滝じいこと滝祥爺(たきしょうや)講師が、一時限目が終わった休み時間に、事務所に現れた。

 授業は六時限構成で、午前が三時限、お昼休みを挟んで午後が三時限。休憩時間に講師が事務所に来ることはあまりない。なにか、特別な用事ができたらしい。


「やあ。燎火くんか、古兎さんはおるかな?」


 滝祥爺講師は気さくな人で、私にも滝じいと気軽に呼んでくれと言われたので、せめて敬称をつけて滝じいさんと呼ばせてもらっている。もっとも、これだとじいさん呼ばわりしている気がして、落ち着かないのはちょっと問題ではあった。


「おお、滝じい。なんだよ? 珍しいじゃねえか、授業の合間に事務所に来るなんざ」


「滝じいさん、なにかありましたか?」


 滝じいさんは頭髪はなく、白く伸ばしたひげがトレードマーク。波紋模様の青い着物をいつも着ている。本来は滝つぼに佇む妖怪だという。なのにMOSや日商パソコン検定など、現世のパソコン関連の資格をいくつもとっている、頼れる講師だ。


「ああ。生島さんが、ちょっとのう。なにかあったのかね、彼?」


 私と燎火は顔を見合わせて、エレベーターで三階へ向かった。

 A3教室に二つあるドアのうち、後ろ側のほうを開けて中を覗いてみる。


「……なにあれ」


 思わず、私はそうつぶやいた。

 生島さんが、椅子に座りながら、両足を上げて机に乗せている。授業用のノートパソコンは天板の端に寄せられ、今にも落ちてしまいそうだった。


 燎火が「椅子の足払って、後ろにひっくり返してやろうか」と言うのが聞こえた。

 滝じいさんも、私たちの後ろから教室の中を覗き込んでくる。


「朝からあの調子でのう。もとから態度がでかくて失礼な人じゃったが、今日は何度注意してもあの有様じゃよ」


「悪い、滝じい。おれのせいだ。昨日、生島さんが有栖にちょっかい出すもんだから冷たくあしらっちまった。それでへそ曲げたんだな」


「あっ、いえ、滝じいさん、燎火は悪くないんです。私が、たぶん、隙があったから、うまく対処できなくて」


 滝じいさんがかぶりを振った。


「いやあ、あれは隙のあるなしとか関係ないじゃろ。しかしあの態度のまま改める気がないなら、悪いが、とても授業はできんな。ほれ、これ見てくれ」


 そう言って滝じいさんが取り出したのは、少し厚手の、短冊のような紙だった。はがきよりも横幅が狭く縦に長く、その表面には枠線や小さな楕円が薄い青インクで印刷されていた。

 いわゆる、マークシートである。筆記テストでよく使われ、問題に対して、楕円部分を鉛筆やシャープペンシルで塗りつぶすことで回答する。


「これがじゃな、タイピングの後で知識問題の小テストをやったんじゃが。四肢択一の問題が十問、各問の正解だと思う番号を一つだけ塗りつぶすというもので、ほかのみんなは普通に回答しとる。けど、今日の生島さんのマークシートだけは、こうじゃよ」


 滝じいさんがぴっと一枚取り出して見せてきた、生島さんのマークシートは。

 問の一番から十番まで、縦横に並んだ回答用の小さな楕円が、ひとつ残らず塗りつぶされていた。

 こんなマークシートは、学生時代を通じても初めて見る。

 もちろん、違反回答で、採点すれば零点だ。


「わ、真っ黒ですね。なんですか……これ?」


「さあのう。本人曰く、『これがあんたたちの支配に対する、おれの抵抗の証だ』そうじゃが」


 ふう、と燎火が息をついて、背筋を伸ばした。襟元を正して、教室の中に入ろうとする。

 私もついていこうとしたら、燎火に止められた。


「燎火、どうして? 私だって当事者なんだし」


「今の生島さんはな、若い人間の女とみれば、舐めていいものだと思い込んでる。おそらく、有栖の言葉には聞く耳持たねえよ」


「私が行っても……解決の邪魔になるってこと?」


 まだ経験が浅くて、人間の、それに女だから?

 悔しいな、そういうの……。


「悪い。属性以上のものを見てもらえないって、うんざりするよな。でも、有栖の言葉だからこそ届く時も近いうちにあるさ。時と場合によっての、適材適所ってことだ。おれが今やるのは、ただの露払いだよ。なにしろ時限の間の休憩時間は十分しかない。とっとと済ませてくるぜ」


 露払いって、なんの?

 そう訊こうとした時には、燎火は足早につかつかと教室の中を歩き出し、ほどなく生島さんの隣に立った。


「お? 犬神の兄ちゃん、なんだよ。あんたたちが人の好意を無下にするなら、おれもやるからな。これ、言っとくけど自業自得だぞ? おれはやられっぱなしにはならねえ」


「ほかの生徒や講師の迷惑ですので、足を床に下ろしてください」


 燎火がにこやかに言う。けれど。


「嫌だね。あんたたちはおれを従わせようとする、組織、大勢、強き者、体制派ってことだな。おれはそれに立ち向かう孤独な抵抗者(レジスタンス)ってわけよ。体制の言いなりにはならねえぜ」


 レジスタンス。それを聞いた時、昨日の燎火の言葉が、私の頭の中によみがえった。

 反抗的な青春。

 ……って、これ……?


 隣で、滝じいさんがぽつりと言う。


「よくおるんよなあ……税金で職業訓練に通っておいて、気に入らないことがあると『おれは国と戦う』って心持ちになって反抗的になるヒト……」


「よくいるんですか……」


「ほとんどは人間じゃがな。あれだけ人間くさい化け狸じゃと、やっぱり行動も人間くさいのう」


「人間の生徒が、ああなるんですか? 職業訓練で?」


「ああ。職業訓練てのは法律でいろんなことが規定された講習じゃし、訓練校の職員もそれにのっとって働いとるしで、みんな折り目正しいからいかんのよなあ」


「折り目正しいのは、いいことなのでは……」


「いやあ、そうするとああいう生徒からは『堅苦しいが反抗しても怒られない、安心安全に立ち向かえる体制』みたいに扱われてしまうんよ。ほれ、殴られないって分かってて教師に無理にたてつく学生とかおるじゃろ?」


 ……学生返りって、そういうことか……。


「に、人間の中でも割と一部の人たちですよ、そんなのっ。それにたてつきたいなら訓練校じゃなくて、制度を作った国を相手にするとか、これから入る会社で好きなように突っ張ればいいじゃないですかっ? ……って言いたい!」


 勢いでそう言ってから、滝じいさんに嚙みついたような形になったことに気づいて頭を下げる。


「す、すみません」


「あんたが謝るようなことじゃないよ。でもな、タダで通っとる職業訓練なら最悪退校処分にされても構わんが、会社で問題行動を起こして首になったら困るじゃろう。それに訓練校の職員は優しいが、会社の上司はおっかないんじゃろ」


「そっ――」


 さらに突っ込もうとした時。

 私たちの耳に、生島さんの大声が聞こえた。


「うおおっ!? い、いてえっ! おい犬神のセンセイ、なにしやがる!?」


 燎火は生島さんのすねのあたりをむんずとつかんで、ゆっくりと片方ずつ床に足を下ろさせている。


「ははは大げさだなあ、痛くはしていませんよ。口で言っても分からないようだから、手ほどきをして差し上げてるだけですよ。ほら、足裏が地面についた、これで解決です。……おや、もう二時間目の開始時間ですね」


 滝じいさんが、「おお、本当じゃ」と教室の前に行った。

 教卓から教室内を見回して、滝じいさんは「それでは再開するぞい。三十五ページからじゃ」とテキストを開く。


 燎火は、まだ生島さんの隣に立ったままだった。そして。


「生島さん。テキストを開いてください。三十五ページです」


けれど、生島さんはテキストを閉じたまま、窓のほうを向いている。

 生島さんのノートパソコンは、一時限目からそうだったのか、なんのアプリケーションも開いておらず、デスクトップの壁紙だけが映し出されていた。

 燎火が再び声をかける。


「生島さん。授業を受ける気がないのなら、」


「受ける気はあるよ。ただおれはもうこれくらい余裕でできるから、やる必要がないってだけだよ。これじゃ意味ねえよ、だからテキスト開く意味ねえしパソコン使う意味もねえってこと。意味のある授業してくれよ。税金使ってんだろ?」


 教室内がざわついてきた。滝じいさんも、どう授業を進めていいか迷っている。


 今度は、燎火は無言だった。

 なにか言い返してくるだろうと思っていたらしい生島さんが、こころなしか得意げな顔で――燎火を言い負かしたと思ったのだろう――、燎火のほうを振り向いた。

 そして、瞬時に顔を青ざめさせた。


 私も絶句する。

 いつの間にか、燎火は首から下はそのままに、頭が人間ではなく、黒い犬のそれになっていた。

 いや、犬というには、精悍過ぎる。ほとんど狼だ、あれは。


 燎火は低いうなり声を上げてから、静かに生島さんに告げた。


「調子に乗るなよ、百歳かそこらのヒヨコが。口で言って分からなければどうなるか、まだ理解できねえか? お前の幼さは理解してやろう。だが周りに迷惑をかけるんじゃねえよ。いくら幼くても、言われたとおりに規定の授業を受けるくらいのことは、できるよな?」


 燎火の変貌ぶりに、すっかり余裕をなくした生島さんは、かくかくと小さくうなずいてから、震える手で、ノートパソコンに文書作成ソフトを立ち上げた。


「そうだ。それでいい。次はテキストだ。おっと、言いなりにはならねえんだったな。いいとも、特別サービスで、テキストはおれが開いてやろうか。三十五ページだったな」


 燎火は、生島さんのテキストをぱさりと開く。


「あ……はい。あっ」


 生島さんの肩がびくりと震える。

 目を凝らしてみると、燎火の指先の爪が、長く鋭く尖っている。カッターナイフのように鋭いその先端が、軽くテキストのページを引っかくと、あっさりと紙に切れ目が入った。


「あっ……あ」と生島さんがうめいた。


「おや、失礼。このせいでテキストが使い物にならなくなったなら、新しいものを差し上げよう。……では、授業に集中してくださいね」


 燎火が、すたすたと教室の後ろへ――私のほうへ戻ってきた。

 犬の頭が、一瞬で人間のものに戻る。そういえば、こんなことできたっけ。

 教室の中に人たちの反応は、様々だった。妖怪たちが大して驚いていないのに対して、人間の生徒は口をあんぐりと開けている人が多い。……それは、そうなるよね。


 事務所に戻ると、燎火はふうと息をついて自分の椅子に深く座った。


「ま、これで少しは大人しくなるかな。おれはあんな風なやり方もあるからいいけど、人間の職員は大変だよなー。なんの術も技も使わずに、いい歳した生徒の指導なんて。全然聞く耳持たないやつ相手だと、困難極まるだろうな」


「うん……私だったら、どうにもできなかったと思う」


 燎火がやったことは結構な力技だけど、この裏界でのやり方としては、有効なものなんだろう。

 私には、同じことはできない。

 もし生島さんの担当者が私一人だったら、あの短時間で解決できただろうか。

 できなかったら、滝じいさんやほかの生徒たちは、どんな気持ちで今日の授業を受けることになっていたんだろう。


「どうした、有栖?」


「ん? ううん、なんでもない」


「ははあ。さては、人間の自分には同じことができない、どうしよう、なんて思ってたんだろ」


 うぐっ、と息が詰まった。


「お、お見通しだね。さすが燎火。……うん、ちょっと、弱気になっちゃってたかも。いけないなあ、勤め出してすぐにこれじゃ、前途多難だよね」


「いや、勤め出してすぐだからこその不安ってものがあるだろう。自分にできないことを目の前で見て、これから先に全然不安を覚えねえような能天気のほうが困るさ」


「……気を遣ってくれるじゃん」


 席を立った燎火が、数分すると、コーヒーを二つ持ってきてくれた。

 私に、いつものミルク入りを。自分は、少し疲れたと言って砂糖を入れていた。


「なあに。そんなに気になったんなら、すぐに活躍の場がやってくるから、そこで頑張ってみな」


「活躍の場?」


「生島さんへのさっきの対応は、応急処置に過ぎない。今日の放課後、面談するぞ。有栖が」


「わ――私が。う、うん、そうだね。あのまま放っておけないもんね」


 背筋がしゃんと伸びる。

 ……あれ? 有栖()


「あの」


「なんだ」


「私()じゃなくて?」


「ふっふっふ。有栖。ちと早めだが」


「うん?」


 燎火がコーヒーを置いて私の前に立ち、私の両肩にぽんと両手を置いた。


「いい機会でもある。独り立ちの時だ」


 は――


「早くない!? い、いややるよ、やりますとも、仕事だもんね!? でも早くない!?」


 燎火は体をかがめ、目の高さを私と揃える。


「ま、案ずるより産むがやすしだ。適材適所だと言っただろ。今度はおれにはできねえ、有栖だからできることがあるだろうよ」



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