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夕方、十六時頃に三コースとも訓練が終わり、放課後になった。
私は燎火について回って、各コースの生徒への連絡事項――翌日の持ち物やカリキュラムの説明など――を燎火が伝達するのを一緒に聞いた。
「何事もなければ、こんなふうに平和なもんだ。年中こうなら、言うことないんだが」
そう言って、燎火が私のデスクに、ドリップバッグで入れたコーヒーの紙コップを置いてくれた。
「あ、ありがとう。気を遣ってくれなくていいのに」
「おれのついでだったんだよ。ほら、牛乳。ついでやろうか?」
いいよ、と笑って、私は燎火が差し出した五百ミリリットルの牛乳パックを受け取り、紙コップへ中身を注いだ。
私はコーヒーには、ミルクだけいつも入れる。長いつき合いの中で、燎火は自分でもコーヒーを飲むようになったし、私の好みも覚えてくれていた。
「コーヒーは備品だし、ミルクはおれと兼用だから、そこの冷蔵庫から好きに出して使えよ」
「え、いいの?」
「傷む前に使い切りやすくなれば、おれも助かる」
仕事の紹介以外でもなにかと私の世話を焼いてくれるのは、燎火の持ち前の性格だ。……けど、近いうちになにかの形でお礼をしよう。
などと思っていたら、事務所の引き戸ががらりと開けられた。
「どうもー」
そこにいたのは、A3教室でPCの授業を受けていた、人間風の姿の男性だった。
こうした妖怪はほとんどが人間社会に混じって生きているので、人間としての名前や設定上の年齢、それに現世での住所を持っていたりする。
生島太助さん、五十四歳。白髪交じりの短髪で、黄色いポロシャツにカーキ色のチノパンだ。身長は私より少し高くて、ずんぐりした体形をしている。元は狸の姿の妖怪らしい。
生島さんは私の顔を見つけると、おーいと手を振ってきた。そして私が立ち上がる前に、事務所の中へ入ってきてしまう。
燎火が、すっと生島さんに向かっていった。立ち止まった燎火は、軽く、立ちはだかったような格好になる。
「なんだよ、犬神のセンセイに用事があったんじゃないよ」
「おれは先生ではありませんよ。ここの職員で、燎火といいます」
「毎日のように会ってるんだから、知ってるよ。いいじゃんかよ、センセイで。人間だと敬称だよ? センセイって」
「ありがとうございます。ただ、名前を覚えるのが面倒だから適当にそう呼ぶ、という方もおられるので。その場合、敬称とは言えないですよね? おれは先生ではないんですから」
ぴり、と空気が尖った。
「……なんだよ、兄ちゃん。おれはあの新しい姉ちゃんにあいさつに来たんだよ」
「それはありがとうございます。ただ事務所の中には社外秘や個人情報もありますので、関係者以外の出入りはご遠慮いただいているんです。別の場所でよろしいですか?」
「はあ、堅苦しいねえ。おれもうかれこれ齢百歳を経ていい歳でさ、細かいこと分かんねえんだよね」
「ははは、充分にお若くていらっしゃいますよ。さ、では別室へ」
生島さんが、燎火の丁寧な圧に押されたように後ずさる。
「はいはい、分かったよ。ほら、姉ちゃんも来てよ」
生島さんが燎火の肩越しに私を見て言うので、私は速足で二人のところへ向かい、一緒に廊下に出た。
「生島さん、おれはともかく、新任の名前は覚えてやってください。姉ちゃん、ではなく古兎です」
「聞いてた聞いてた。覚えてるよ、有栖ちゃんだろ?」
「あの、」と口を開いた私を、燎火がやんわり制して、代わりに言った。
「古兎、です。弊社の職員を下の名前で呼ぶのは、この場合不適切ですからね」
燎火の物腰は丁寧だけど、毅然とした静かな迫力がある。上司には平常語なのに、生徒には敬語を使うのは意外だったけど、かえって凄味が増していた。
妙な緊張感を漂わせたまま、私たちは事務所のすぐ近くにある小会議室に入った。
「いやあ、じゃあ姉ちゃん、じゃなくて有栖ちゃん――」燎火が生島さんへの視線を少しだけ鋭くする。「――じゃなくて、古兎さんね。はいはい。生島です、よろしくね」
「はい、これからよろしくお願いします」
「今日はお近づきのしるしにさ、これあげようと思って。プレゼントだよ。駅で配ってたんだ」
そう言って生島さんが取り出したのは、現世で有名な牛丼チェーン店の割引券だった。キムチやポテトサラダなどのサイドメニューが、五十円引きになるらしい。それが四枚つづりになった、少しくたびれた紙片。
「……どう……も?」
どうしようか、一瞬迷った。にこやかにありがとうございますと言って受け取れば、この場はそれで済むだろうけど。
正直に言えば、いらない。でも角を立てずに断って突き返すのは、難しい。
この券自体はあまり貴重なものではないだろうけど、だからって、受け取ってしまっていいものだろうか。
ううん、どうも、軽はずみなことをすると後でもめるもとになる気がする。
ここは、できるだけやんわりと断ろう。
そう思った時。
また、燎火が助け舟を出してくれた。
「申し訳ありません、生島さん。職員への個人的な贈り物は、弊社ではご遠慮いただいておりまして」
「はあ? そんな大層なもんじゃないだろ? 何万もするバッグやろうってんじゃないんだ、おれの好意だよ」
ただでもらったクーポン券で大した好意だな、と燎火が口中でつぶやくのが私だけに聞こえた。
「第一なあ、犬神のセンセイよ。おれ見たことあるんだぜ、なんか菓子の包みみたいな箱を訓練生があんたに渡してんの。あんた、にこにこしながらもらってたじゃねえか。なんでおれからのプレゼントはだめなんだよ?」
いかにも、痛いところを突いてやったと言わんばかりの、いやらしい顔で生島さんが燎火をねめつけてくる。
けれど、当の燎火はあっさりと言い返した。
「先ほど申し上げたように、個人的な贈り物はご遠慮いただいております。あのお菓子は職員一同へということで、中身も事務所内で配れるものでしたので頂戴し、職員一同でいただきました。ですのでこちらの割引券も、古兎ではなく職員一同へということでしたら、ありがたく頂戴いたします」
「なっ? なんでおれが、野郎なんかにものやんなきゃ……」
「人間の女性であるからという理由で古兎へこちらをくださろうとしたのなら、やはり個人的なものになりますよね。では、謹んでお断りいたします」
生島さんがはなじらんだ。
「だからァ、おれはただ、そっちの有栖ちゃんにプレゼントあげるだけなんだよ! それで喜んでもらって、お互いどういう人なのか分かり合ってさあ、これから一緒に仲良くやっていこうやってことだよ、それをそんなにつっけんどんにしていいのかよ?」
顔が赤くなり、目の周りに狸っぽい隈取が浮き出した生島さんを見て、大騒ぎになってしまうと思い、私は前に進み出ようとした。
その瞬間、燎火が横から私に訊いてくる。生島さんの前だからだろう、私のことを有栖ではなく名字で呼んで、
「だそうだ、古兎さん。あれもらって嬉しいか?」
不意打ちの質問だったので、つい、正直な答えが、考える前に口から出た。
「え? ううん、全然」
しまった、ばっさりいき過ぎた。と思った時には遅かった。
ちっ、と私たちに聞こえるように舌打ちして、生島さんはくるりと背を向け、「やっぱ妖怪の会社なんてこんなもんかねえ。会社は現世に限るぜ」と吐き捨てて帰っていった。
自動ドアの向こうに、肩をいからせた後姿が消えていくと、はらはらしっぱなしでいる私に、燎火がぽつりと言う。
「現生の家を持ってる妖怪は、ああしてこのビルを出た後、どこかしらの裏界の門から、現世にある自宅に帰っていく。適当に気をつけていれば、危険な妖怪も跋扈する裏界とはいえ、帰途に就く程度の距離でめったなことはないからな。みんな慣れたもんで――」
「じ、じゃなくて! あんなにぴしゃりと言っちゃっていいのっ? 気の強そうな人だし、後で問題になったりしない?」
「なる、かもしれねえな。ちなみに生徒からのクレームがあると、妖怪機構に報告がいって、今後の訓練受託の審査で低評価をつけられる可能性もある。訓練生の中にはそうした仕組みにやたら詳しいやつもいて、『言うこと聞いてくれないと機構さんにクレーム入れちゃいますよ』なんて脅されたこともあるよ。ははは、参るよな」
燎火は、髪を爽やかにかき上げて笑った。
「参るんじゃん!? それで審査が不利になれば、就妖社が訓練事業が受託できないかもしれないんでしょ?」
「さすがに、妖怪機構だってそこまで単純じゃない。ちゃんと説明すれば、どちらに非があるかくらいは分かってくれるさ。こっちが毅然とした対応をしないと、むしろ訓練の運営が立ち行かなくなるもんだぜ」
……それは、なんとなく分かるけど。
「いいか、有栖。現世で暮らす職業訓練生の多くは、生徒といっても、人間としての――そして大人としての――就職経験がある妖怪も少なくないんだ。相応の能力とプライドがある。それらを再就職の意欲に生かしてくれればいいんだが、みんながみんなそうはいかねえ」
……それも、分かる。すんなりいくことばかりじゃないんだろう。
「特にキャリアの長い人だと、おれや有栖みたいな若造然とした職員のことを頭から舐めてくるやつもいる。今の生島さんは、残念ながら性格的にはまさにそーゆー人だ。……もしかしたら彼は、危険かもしれんな」
不穏な言葉が出てきて、どきりとした。
「き、危険……? 怒って、暴力を振るうかもとか?」
「いや。つまりだな、その、……職業訓練て、教室に集まって勉強して、学校みたいだろ?」
「そうだね。授業とか休み時間とか、お昼休みとか。中学とか高校みたい」
「それもあって、学生返りして反抗的な青春を送ろうとするかもしれないってことだ。人間の学校生活にあこがれる妖怪、いるんだよなー」
「反抗的……な、青春? よく分からないけど……」
「そんな気配がするってだけだ、杞憂で終われば、いいんだけどな……。しかし――」
しかし? と私は横に立つ燎火を見上げる。
「――しかし、生島さん……本気で、あんなもんで有栖の気を引けると思ったんだろうか……」
「それは……私も分からない……気を引こうと……されたのかな……?」
「されただろう、あれは……。生島さんなりに人間の行為をまねてるんだとすると、現世だと、人間ってああなんだろうか……」
人間もいろんな人がいるからね、と遠い目をして答えるのが、その日の私には精一杯だった。
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