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少し長いエピローグ

<エピローグ>


 お盆が、もうすぐ目の前に控えている。

 まとまった連休は本来うれしいもののはずだけど、新しい仕事を覚えたての私としては、同じペースで平日が続いて欲しいような、不思議な気持ちだった。


 私の部屋の小さいベランダは、私が立っているだけで、人がすれ違えなくなるほどに幅が狭い。

 昼間の熱気をまだはらんでいる風が、群青色にたそがれつつある空の下で、私の頬や腕を撫でていった。

 先週買った、ピンクのボーダーのシャツは、良質な生地が柔らかいのにぴんと張っていて、部屋着以上、よそ行き未満。一方で、ややシックなフレアスカートが、ややよそ行き。

 土曜の夕方、これからもうひとにぎわいしようとする街の片隅で、私は細身のビールグラスを傾けた。


「有栖って、どのくらい飲めるんだよ?」


「ちょっとだよ、ほんとにちょっと。だからお酒強い人がいないと、小瓶のビールも空けられなくて」


 冷房の効いた部屋からベランダに出てきた燎火の手には、私と同じグラスと、小ぶりなビール瓶がある。

 燎火に、冷えたビールを飲むなら外に出たほうがおいしいのではないかと言われて試したのだけど、その通りだった。その冷たさと苦さがこの空間には必要で、冷房が効いていては味わうことのない清涼感が喉を滑り落ちていく。

 そんなに得意ではないのに、お酒として手ごろそうなのでつい買ってしまう小瓶のビールだったけど、こうした体験がお酒を好きにさせていくのかもしれない。


 部屋の中に戻ると、紅茶が入っていた。

 燎火が、「こんな名前を初めて聞いたので買ってみた」という、ヌワラエリヤだった。

 涼しい部屋の中で、穏やかに湯気を立てている。


「うわー、ありがとう。燎火のほうがお客様なんだから、座っててくれていいんだよ」


「忘れてるかもしれんが、おれはもともと犬だぞ。部屋の主のために、なにもしないほうが落ち着かねえよ」


「いや、私の飼い犬じゃないじゃない!?」


 燎火は、ローテーブルの上に手早く白いお皿を出すと、そこに、上面に装飾が彫り込まれた高そうなチョコレートを、箱から出して六粒ほど置いた。


「……犬って、チョコレート食べられるんだっけ?」


「誰が犬だ。忘れてもらっちゃ困るが、今のおれは犬神だぞ。豆と砂糖の練り物なんぞ、どうということもねえ。前から、なんでも飲むしなんでも食うだろ」


 ま、豆と砂糖の練り物。そういえば紅茶のことも、最初、枯葉の煮出し汁とか言ってたっけ。

 最初って、……もう、十年近く前のことだけど。


「ありがとう、燎火。これって、私の初仕事が完了したお祝いだよね」


「まあそうだ。どこか立派な店に連れて行こうと思ったんだが、めぼしいところがどこも予約が一杯だった。いずれの機会をくれ」


「い、いいんだよそんなの! 気後れしちゃうようなお店は、私緊張しちゃうし。……ていうか、この紅茶、かつてないほどに凄くいい香りがするんだけど……」


 ああ、と燎火がうなずく。


「もと犬として、においにはうるさいほうなんだ、おれは。紅茶は伊勢丹、菓子は柏の高島屋で買ってきたぞ。おれは人間界については疎いが、困った時はあの辺の店を頼ればいいから、分かりやすくてありがたい」


 チョコレートだけじゃなく、紅茶のほうも、思ったより高そうだ。黒い円筒形の缶の蓋がなかなか開かなくて悪戦苦闘する燎火を見るのは、少し楽しかったけど。


「それにしてもよくやった、有栖。いろいろ初めて見聞きすることが多かっただろうし、細かくて分かりにくい決まり事も多いから、大変だっただろう」


「……良くも悪くもない結果、みたいなこと言ってなかった?」


「数字上はな。だが、数字での結果がすべてなんて言ってるやつは、信用できねえ甘えん坊だ。常に、そこに至る道筋と数字の中身にこそ価値がある。人間の仕事を見ていて、おれはそう思うよ。……だからこそ、もう一度注意しておきたいんだが」


 知らず、私の背筋が伸びた。


「職業訓練の担当が、離職率の高い仕事だって話はしたな? もし有栖が本当にしんどくなった時、おれや支店長に相談してもどうにもならなくなった時は、おれに気を遣わずに堂々と辞めてくれ。それだけは、もう一度言っておく」


 うっすらとした湯気の向こうで、燎火の金の瞳が瞬く。

 辞めたければいつでも辞めろ、と言われたようなものなので、少し複雑な気持ちにはなる。

 でもそれ以上に、燎火の気持ちが伝わってきた。

 この犬神は、本当に私を大切に思ってくれている。


「ずいぶん、念を押すんだね」


「……今回の、生島さんと赤原さん、それに粕村のことなんだけどな」


「え? うん、あの人たちが?」


 燎火は一度紅茶を飲んでから、ため息のように話し出す。


「いや、生島さんや赤原さんくらいなら、多少たちは悪いがまあこんなやつもいるな、と納得はした。しかし、粕村のほうは問題だ」


「……どういうこと?」


「あんな人間が、人の社会にいるはずがないと思った。ハラスメントを受けて精神状態が普通じゃなくなったわけでも、思い責任を負わされて暴発したわけでもない。むしろ生活の保障が確保され、心身ともに限りなく負荷の乏しい状態だった。それでも、現世で片手に余る人間を離職させていて、平気な顔をしている」


 そういえば、結構凄まじい経歴だったんだよね。

 日常的に、積極的に人をけなしもしていた……なあ。


「明らかに異質な存在だ。だからおれはあいつが、前々からなんらかの妖怪にとり憑かれているんじゃないかと疑っていたんだ。人格を破綻させる怪異なんぞ、枚挙にいとまもなくいるからな」


 粕村さんが、妖怪に? 前々からということは、無辜作さん以外でということだろうけど。

 初耳だった。

 そんな様子は全然なかったと思う。


「私が見てる限りは、粕村さんに妖怪なんて……」


「そうだ、ほんのいっときの無辜作以外にはなにも憑いてなかった。やつの家になんらかの呪いがかけられてる可能性もあったから、家庭訪問の時にもそれとなく探った。……だが、妖気のよの字もなかった。あいつは、なににとり憑かれているわけでもなく、なにかでおかしくなったわけでもなく、自然な状態であれ(・・)だったんだ。妖怪なら――」


 燎火が両手のこぶしを握り、それを見下ろしながら言う。


「――妖怪なら、おれが打倒でも調伏でもすればいい。妖怪相手の運営上、許可されてるからな。だが人間相手はそうはいかねえ。どんなに常識外れの問題児でも、言葉の通じない癇癪持ちでも、力ではねじ伏せるのは禁止だ。下手すりゃ、これまで構築されてきた人と妖怪の交流が問題視されて、先人の苦労が台無しになりかねない」


 燎火は、凶暴な妖怪からさえおれが有栖を守れればいいと胸算用してたのは浅はかだった、とうなだれた。

 ……私を守ろうなんて、そんなふうに思った上で私の転職に協力してくれたんだと思うと、うれしくもなってしまうけど。


「そっか……確かに、妖怪が人を力でやっつけちゃったら、大問題になるよね」


「理性のない人間相手に、道理で言い聞かせるなんてのは至難の業だ。だが有栖にはそれが求められるだろう、同じ人間なんだからってな。それが仕事だ、そのための技術を身につけろと、無茶も言われる。心身の負担は相当重いんじゃねえのか。言葉も良識も通じない乱暴者に、言葉と良識で意思疎通しろなんてのはな……」


 燎火の頭の中ではどんな状況が展開されているのか、ほとんど暴漢に対する言いようだ。


「それは世の中、そういう人もいるだろうけど……」


 燎火はこぶしを下ろして顔を上げた。私と目が合う。


「そうなんだ。おれが今まで出会わなかっただけで、あれが普通だって人間が、いやもしかしたらそれ以上に『個性的』なやつが、これからも職業訓練に来るだろう。おれが対処する分には別に気にならなかったんだ。だが、有栖がそんなやつらの相手をするのは耐え難い」


「ど……どうも……」


 私のことを考えてのことなのは分かったので、ありがたい気持ちはある。

 でも、心配してくれているのに申し訳ないけど、さすがに反論したくなってきた。


「あのさ、燎火。別に、そういう危ない人ばっかりが申し込んでくるわけじゃ」


 求職者というと、色眼鏡で見られることもある。たとえば、「仕事をしていないということは、どこかおかしい人なんだろう」というふうに。

 けれど、世の中には、会社勤めをしていたっておかしい人は山ほどいる。

 求職者を、訓練生を悪くばかり見るのは、職業訓練の仕事に就いて数ヶ月の私でも、いい気はしない。


「そうだな。だがいずれ確実に、おかしな手合いは来る。職業訓練は、求職者なら広く利用できる制度だ。そしてそのカリキュラムは、通常三ヶ月から六ヶ月で組まれる。その間、中退させられなければ、どんな奇人であろうと延々向き合うことになるわけだ。たとえば、『個性』全開の粕村と三ヶ月……それは無理だろう」


 そう言われると、言い返しにくい。

 今回粕村さんは、事情があって大人しくしていた。それに彼がどういう性格なのか、元同僚の私たちには分かっていた。だから対処がしやすかったというのはある。

 以前の、私に詰め寄ってきた時のあの調子でいきなり、そして連日来られたら、耐えられないかもしれない。……けれど。


「燎火、思い詰め過ぎだよ。粕村さんだって私たちが知らないいいところだってあるだろうし、心のないモンスターってわけじゃないんだから」


 そう言ってから、ふと思った。

 私は、というよりほとんどの人間が、人間はある程度良心的で、共通する常識があって、言葉による意思の疎通が可能で、なんのかので「話せば分かる」と思っている。

 実際にはそうではないこともままあるけれど、全体的なイメージはそんなところのはずだ。


 そうではないのが妖怪で、良心や常識なんて持ち合わせていないのが珍しくなく、言葉は通じても中身は分かり合えない。

 凄まじい力を持つ怨霊に「命だけは助けてください」と言ったら、「分かった」と言って首をねじ切られた、なんて話もある。

 こちらも例外はあまたあるにしても、それが私たち、人間のおおまかな共通認識だろう。


 なら燎火には、……妖怪には、人間がどう見えているんだろう?

 人間が妖怪を見るのと同じように、分かり合えない、危険をはらんだ集団だと思ってる? だからこんなに、人間の訓練生を危惧しているんだろうか。

 妖怪と比べて強力な武器や能力を持たない人間を、おそらく燎火は、これまで手を焼くことはあっても脅威だとはあまり思っていなかった。

 けれど、それこそなんの武器も能力も持たない、燎火よりもずっと弱い私が、彼と同じ仕事をするとはどういうことのなのかを、彼が強力な犬神だからこそ、この何か月かで考えざるを得なかったのだ。


「おれは、……そんなことが起きうると分かってる自分の会社に、有栖を留めておいていいのか、分からねえんだ。むろん妖怪相手でも人間相手でも、めったなことがないように会社は手を打ってはあるさ、だが……有栖には、もっと負荷も危険も少ない仕事が、ほかにいくらでもある」


 燎火の肩から力が抜けて、いつもより細身に見える。

 会社内では最強クラスだという犬神が、まだ起きていない私の危機を思い浮かべただけで、打ちのめされている。

 ……私が、訓練生を悪く言われたからってむっとしてる場合じゃない。

 ごめん、燎火。


「私のことを考えてくれるのはうれしいよ。でも、誰かがやるべき仕事なんだし、それを私がやって悪いことはないでしょ? いい会社で、いい仕事じゃない。燎火、悪く考え過ぎだってば」


「……国内の同業者には、訓練生の迷惑行為から精神病を発症して辞めた事例もある。すぐ傍にいれば守れるなんて、浅はかだったかもしれねえ。おれは、有栖になにかあったら……」


 燎火の本音は、私にこの仕事を辞めて欲しいほうに傾いているんだろう。

 私が就妖社に勤め始める前には考えてもいなかったことが、今、燎火の頭の中に現実的な生々しさをもって去来している。

 だけど、私の意志も大事にしたいと思ってくれている。

 だから燎火にしては珍しく、こんなに迂遠になる。

 燎火の気持ちに、私はなんて答えればいいなろう。

 こんなふうに、人間でもなかなかないほど、私を傷つけないように、大切にしてくれる妖怪に。


「……やっぱり燎火、もっと気軽に考えたほうがいいよ。私も、裏界で妖怪を相手にしてることや、いろんな人が訓練生として来ることは、ちゃんと覚悟して対策しておく。それでも無理が出て、働けなくなるくらいつらくなりそうだったら、辞める。職業選択の自由が、私にはあるんだもんね。そしたら、働く場所は別々になるけど……職場が、別々に、な、なっても……」


 急に歯切れが悪くなった私に、燎火が怪訝な顔をした。


「そ、それでも……燎火は、ずっと私と一緒にいてくれるでしょ? そしたら、なにも心配ないじゃん」


 途中で声が裏返った。

 顔も赤くなっていたかもしれない。

 なのに燎火は、あっけらかんと言ってきた。


「ああ、もちろんだ。ずっと一緒にいるさ。すぐ隣で、有栖を見続けてるよ」


 こいつ……。


「辛気臭い話して、悪かったな。おれが今思ってることは言っておきたかったんだ。茶がぬるくなっちまったな、入れ直そう」


 燎火が立ち上がったので、私は自分のカップを持ち、中身を飲み干してから――やはり信じられないくらいいい香りがする――急いで先にキッチンへ入った。


「いいのいいの、座ってて。私がやるから。燎火、お客さんなんだからね」


 燎火からもカップを受け取り、一度流しに置いて、蛇口から水を出そうとした。

 その右手を、燎火が右手で後ろから押さえた。

 私の背中と、燎火のお腹が重なる。


「りょ……?」


 黒いシャツ越しに、燎火の少し低い体温が伝わる。

 ぬるま湯よりも一段低い、肌にとても心地いい温度。

 なのに、つかまれている私の手は熱い。燎火も、手のひらだけは熱い。


 振り向こうとしてできずにいるうちに、私の耳元で燎火がささやいた。


「本当は、有栖と同じ場所で仕事ができてうれしい」


「う……うん。私もだよ。だから、できれば辞めたくないなっていうのもあるんだからね」


「そうだ。おれも、できればやめて欲しくない。……人間と妖怪でも、竜吟虎嘯(りょうぎんこしょう)と言うのかね」


「……その言葉、今初めて聞いて字すら思い浮かばないんだけど……どういう意味?」


 ほんの少し、燎火が鼻先を私の首筋に寄せたように思う。肩が小さく震えた。


「今のような状態のことを言う」


「い、今って、どういう」


「相思相愛」


「そっ……」


 今度こそ、振り向いた。

 二人の顔の距離は、ほんの数センチ。

 私ほどじゃなくても、燎火も顔を赤らめて動揺した顔をしているだろうと思った。

 けれど、この犬神は、意外そうな顔をしてまばたきを二三度しただけだ。


「……ああ、少し違うか。悪い」


「ち……違うって、なにが!? 言葉の意味が? それとも、状況が?」


「分からんが、とにかく間違えた。ほら、そんな落ち着きのない状態じゃ、火を使うと火傷するぞ。やっぱりおれがやろう」


 だっ……誰のせいで……!


 結局押し切られて、私はすごすごとローテーブルに戻った。

 燎火がお湯を沸かしている間に、私は、ぽつりと言う。


「燎火、私、働いててかっこ悪いところたくさん見せると思うけど、愛想つかさないでよね」


「分かった。ならおれは、できるだけ格好いいところを見せられるように努力するさ」


 次の職業訓練の生徒募集は、もう始まっている。

 現世と裏界それぞれのハローワークからは、何人分かの申込書が送られてきていた。

 急にすべてを上手くはできない。

 でも一つずつ、私にできることを増やしていこう。

 大変なことは多くても、助け合える環境が就妖社にはある。

 支店長や燎火のおかげで、理不尽なことからは守られている。

 だから、自分にできることから、精いっぱい頑張っていける。


 お茶が入った。

 燎火が二つのカップを運んできてくれ、また部屋の中がいい香りで満たされる。


 今度は、熱い液体を少しずつ、チョコレートを口の中で溶かしながらゆっくりと二人で味わっていく。

 濃厚な塊が紅茶の熱でほぐれると、幸せな甘さがふくよかな香りとともに広がって、同じ味わいに包まれているのだろう燎火と、顔を見合わせて微笑んだ。


 わりあい静かで、時々にぎやかで、空気が穏やかで、だけど時々心臓に悪い。

 そんな居心地のいい空間で、私は転職一年目の夜を過ごしている。



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