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そうして、とうとう、パソコンコースの訓練終了日から三ヶ月が過ぎた。
その間、燎火について別のコースの運営もしていたけれど、卒業生の就職についてはずっと意識を切らさずにサポートし続けた。
ここで結果を取りまとめ、報告書にして、妖怪機構に提出すれば、ついに一つの訓練が完全に終了する。
生徒の皆さんの頑張りのおかげで、ペナルティラインよりも高い就職率が出せたので、それについてはほっとした気持ちで報告書を作成できた。職業訓練事業停止は、免れたのである。
なお過去には、本当に事業停止ぎりぎりの就職率になったこともあるそうなので、毎回が綱渡り気分だ、とは燎火の弁。
ただ、三ヶ月で就職に至らなかった生徒もいるので、手放しでは喜べない。
三ヶ月目の日の翌日、私はまた一人ずつに電話して、細かい就職状況の聞き取りをしていった。
生島さんは例のとおり就職。報告書類もすでに出してもらっている。
赤原さんは、その後就活に取り組んだけれど三ヶ月目目時点で未就職。ただ、面接のアポイントが二件ほど今月中にあるという。
甲野さんは、ある製薬会社が、流山市に新規に立ち上げる支店の事務職に就職した。
柴方さんは、今となってはどうしても事務職しかやりたくないと言っている。
本人が事務職未経験の上、ただでさえ狭き門なのに、面接では以前の仕事の手柄話ばかりをしているようで、なかなか決まらない。
事務職における自分の強みをピックアップして、具体的に伝えましょうと何度言っても、聞き入れてくれないのだ。
燎火は「ありゃ、当分あのままかもな」と言っていた。
小田さんは、三ヶ月ぎりぎりのところで、ホームセンターでのパートの仕事が決まった。「私、ゆっくりだとは言ったけど、やることはやるのよ」と小田さんが言うのを聞いて、これには燎火が「そっちはよくてもこっちは気が気じゃねえんだよ」とぼやいていた。
河童のガタロさんは、あの後、川べりの警備の仕事を私たちが見つけ、紹介したら見事にパスした。
水難事故ゼロを目指す、と張り切っている。
塗密さんは、かねてより志望していた外食のお店の、厨房に入った。やはり本人に意欲がある上に今人手不足の分野なので、妨害がなければあっさり決まる。偽の不採用通知に騙されてしまったために連絡を取っていなかった企業には、塗蜜さんと私たちが事情を説明した。
天邪鬼の邪光さんは、テレフォンオペレーターの仕事に就いた。クレーム処理も多いけれど、本人は「いろんな人間の話が聞けて面白そうだ」らしい。
垢ねぶりのわくらばさんは、まだ就職が決まっていない。
垢に触れられる仕事がいいのだけど、銭湯関連の会社からは「お客さんの垢を舐められるとイメージが悪いし、衛生上問題がある」ということで断られ続けている。
仕方がないので、垢とはまったく無関係の仕事も探していくとのことだ。
そして、粕村さんは。
その後、電話や郵便を――ほかの仕事もあるのでそうそう家庭訪問ばかりもできない――のらりくらりとかわされ、燎火の言っていた「就活の主体は就活生本人」という言葉を、私としては何度となく噛みしめることになったのだけど。
「ぼく就職したよ!」
三ヶ月目の期限がきたことを電話で告げると、彼は元気よくそう言ってきた。
「えっ!? 本当ですか!?」
思わず、意外そうな声が出てしまう(意外だったので)。
「あはは、ひどいなー有栖ちゃん! ぼくだっていつまでも無職じゃいられないよ!」
「ごめんなさいっ! で、どんなお仕事なんですか? 会社名は?」
「お母さん!」
「……え?」
「お母さんの家庭菜園を手伝って、千円もらったんだよ! 立派な報酬でしょー!」
私の横で漏れ聞こえる会話を耳にしていた燎火が、無表情でかぶりを振った。
私も、努めて冷静な声で、必要な情報だけを粛々と粕村さんに伝える。
ここで粕村さんを責めるのは、お門違いだ。
「おめでとうございます。お疲れ様でした。では、就職の報告書を本日発送していただけますか? ええそうです、お渡ししていた返信用封筒で……はい、それで大丈夫です」
話し終えると、電話のフックを指先で静かに押してから、受話器を置く。
細かいところでは、就職率の算定はただ働けばなんでもいいというものではなく「就職として扱うことが認められる要件」がある。
たとえば、週に一日数時間程度のアルバイトをしたとか、家事手伝いをしてお金をもらったとかでは、妖怪機構に就職として認められないのだ。
具体的には、人間の場合は、雇用保険に入る必要がある。雇用保険は、週二十時間以上の所定労働時間と、三十一日以上の勤務があれば、企業がその職員を加入させると決められている。
なお妖怪の場合は、時間や機関がもう少し緩和されていて、雇用保険への加入も問われない。
幸い今回の就職者――もちろん粕村さんは入らない――は、全員その要件を満たしていた。
「有栖、確か粕村にも、雇用保険に入らなけりゃ就職とはみなされないって話はしたよな?」
「二回してある。ホワイトボードに書いて、丁寧に説明したつもりだけど……ごめん」
「いや。話を聞いたってのと理解したってのは、また別の話だ。一パーセントも理解してなくても、『分かりましたか?』って訊かれりゃ条件反射で『はい』って答えるやつは多い。第一、そこまでしっかり分からせなきゃならん話でもねえし。この辺はあくまで、こっちの事情だからな」
「うん。私たちが職業訓練事業停止になるかどうかは、訓練生とは関係もないことだもんね」
その後の数日で、三々五々、卒業生たちの就職状況報告書が届いた。
就職した人は、その就職の内容。未就職の人はその通りに、「未就職」の欄に丸をつけて出してくる。
粕村さんは「就職」に丸をつけて出してきたけど、妖怪機構に説明して、未就職として扱われることで決着した。少し、粕村さんに悪いな、と思った。燎火には「気にするな悪いのはあいつだ」と言われたけど。
粕村さんには、パソコンソフトの知識は短期間でかなり滝じいさんが教え込み、小テストのたびに燎火からも見直し指導をしていたので、今や彼はワープロソフトと表計算については相当詳しくなっている。
でも、結局就職させることはできなかった。
「とはいえ、粕村はもう少し社会勉強を積んでから再就職したほうがいいかもしれんから、急がなくて結果的にはよかったんじゃねえかな。今度こそ編入じゃなく頭から、適当な職業訓練を受けて、社会性を身に着けられりゃいいんだが」
「そうだね。職業訓練のカリキュラムって、最初のほうにビジネスマナーとか指導のコマが入ってるもんね」
「あいつ三十路過ぎてるから、四五十になるころには、ちっとはまともになってるんじゃねえか。いや、六十までかかるかな」
「それじゃ、すぐに定年だよ……」
そうして、報告書の束をクリアフォルダに入れながら、燎火が息をついて言った。
「よし、全員分揃ったな。これがまた、面倒くさがって出してこないやつが毎年いるんだ。返信用封筒まで渡してるのにな。今回はそういう意味じゃ、完璧に上手くいった。少なからず、有栖のおかげだな。よくこまごまと対応してくれた」
「そ、そんなことないけど。でも報告書が送られてこない時は、やっぱり卒業生の自宅に取りに行くの?」
「そうだ。こっちも行きたくて行くわけじゃねえのに、露骨に迷惑そうな顔して『暇なんだな』なんて嫌味言われたり――あれ暇なやつほど言うよな――、塩まかれた担当者もいる。普通に利用してりゃ特に問題ねえはずなのに、利用者によっては、随所で摩擦が起こるのが職業訓練って制度だ」
普通に利用。
そう言われれば簡単そうな響きだけど、それこそが難しいのかもしれない。
人はいろいろ。妖怪だっている。それぞれに事情と都合がある。
「私、……恵まれた職場に来たんだね、きっと」
「あん?」
「前に燎火が言ってたでしょ、職場の不理解があると、相談もできなくなって取り返しのつかないことになるって」
言ったが、それが? と燎火が首をかしげる。
「燎火や支店長と働いていて、私、一度もそんなふうに思ったことないもの」
「……そりゃどうも。これからも、そうありたいもんだな」
今回のパソコンコースの就職率は、十分の六人就職で、六十パーセント。
この数字を、規定の様式が定められたデータファイルに記入し、メールで妖怪機構に提出する。
「燎火、六十パーセントの就職率って会社的にはどうなの?」
「んー。まあよくはないが悪くなはい、ってところかな。おれたちとしては、やはり十割就職を目指したい」
それはそうだ。
目標は高く持たないと。
それに、職業訓練に来る生徒は、就職を目的として来るんだから。
百パーセント就職させて当たり前、くらいに思ってていないといけない。
「へえ、大きく出たな。目指すどころか、百で当たり前か」
「えっ!? 今、口に出てた!?」
「出てた。いいじゃねえか、仕事熱心で」
「……からかってるでしょう」
その日のうちに、必要な報告はすべて妖怪機構に送ることができた。
その後しばらくして、就職率に応じた付加奨励金が、会社に振り込まれた。
これがそれなりにまとまった額だったので、峰内さんが照れくさそうに「結構いい仕事したみたいじゃんよ」と言ってきた。
それを燎火が「前からしてるんだよ。今までなに見てたんだ?」と混ぜっ返し、危うくけんかになりそうなのを、私と支店長で止めた。
でも峰内さんだけじゃなく、このごろは、職業訓練に対する社内の他部署からの見方がいいほうに変わってきているらしい。
それはもちろん、燎火が頑張ってきた成果ではあるんだけど。
私も、少しずつ役に立てていると思っていいのかな。
ともあれ、私が始めて仕事で関わった職業訓練は、こうして終わった。
……はずだったんだけど。
黒芙蓉支店長が、
「終わる前に、これだけはけりをつけておかないといけないだろうね。本人のために、なによりもわたくしたちの精神の健康のために」
と言って、事務所の電話でどこかへ連絡を入れた。
ややあって、相手が出たらしく、受話器からわずかに漏れた声が私や燎火の耳にも届く。
あの声は……
「やあ、もしもし。黒芙蓉ですが、粕村くんかね」
やっぱり。
そして支店長は、粕村さんがなにか話している最中に、マイペースでゆっくりと告げた。
「君の今後のために、これだけは教えておいてあげよう。他責志向だったか、君の得意文句。誰が見ても、わたくしたちの生活範囲の中で、最も他責志向なのは君だ。適切に謝れないのも、プライドばかり高くて実力が伴わないのも、不相応に上から目線なのも、ぜーんぶ君だ」
「し、支店長?」と歩み寄りそうになった私を、燎火が止める。
「言わせてやれ。黒芙蓉支店長なりに、今までぐーっと我慢してきたんだろうからな。もう面倒を見なくていいとなれば、言ってやりたいことの一つや二つあるだろう」
冷や汗をかいている私たちをよそに、支店長の言葉は続く。
「いつだったか、君は褒められて伸びるタイプだと自分で言ったな? 周りが頑張って褒めてきて、結果全然伸びなかったが、どういうことだ? わたくしたちを騙したのかな? まあ叱っても特に伸びなかったかもしれないが。……その、ハアッ? っていうののたびに、口から知恵が逃げているようだぞ」
電話の向こうでは、はっきりとは聞き取れないものの、粕村さんの声が大きくなっている。
でも、支店長はお構いなしだった。
「君に比べれば、うちに来ていた訓練生たちのほうが百倍立派だ。二度とその顔見せるな、給料泥棒が。職業訓練にまた通うならそれ以前に、幼稚園から社会をやり直すんだな。せめて口の利き方くらいはね。君はそこからてんでだめだから。不愉快と不幸をまき散らすことしかできない人間め。じゃあ会社の電話は君の番号を着信拒否しておくから、できることなら永遠にさようなら」
支店長が受話器を置いた。
拍手こそなかったものの、事務所の中は、支店長を称える空気が漂っている。
「ふん。暴言にならないマイルドな言葉しか使えなかったな。あれではわたくしの労苦が、十分の一も伝わっているまい」
「いえ……充分な言いようだったと思います……」
私がそう言うと、支店長は心底驚いたように「えっ!?」と目を剥いた。
燎火が苦笑しながら、支店長にお疲れ様と言い、後は何事もなかったように、事務所はいつも通りにみんなが仕事に戻っていった。
これで、黒芙蓉支店長なりに、この訓練にけりがついた……らしい。
よかった、かな?
さらに、訓練生のことではないので、余談ながら。
あの怠け神が、なんと就職したらしい。
社長がどれだけ注意しても社員にやる気があり過ぎてオーバーワークをしてしまう、活気はあるんだけど困りものの工場で、残業が増えたところで社員の気力を奪ってしまうという仕事に就いたという。
労務と健康の管理がしやすくなって、社長は大喜びしていると聞いた。
改めて、能力って生かしどころが大事なんだな、と思うのだった。




