6
翌週、出社して私のパソコンを立ち上げていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
椅子に座ったまま振り向くと、粕村さんが立っていた。
時刻は、朝の九時。行く先がなくても直行直帰――変な言い方だけど――を繰り返していた粕村さんを、この時間に見たのは初めてだった。
「お、おはようございます?」
「うん。燎火は?」
「あ、今講義のお手伝いで教室に行っ」
「有栖ちゃんさあ。先週末の夜、ぼくにドッキリしたでしょ」
粕村産の目が、すうっと細められていく。
「ドッキリ、ですか? なんのこと……」
線のように狭められた目が、今度はまん丸に、かっと見開かれた。
「有栖ちゃんがぼくにしたことを聞いてるんだよお!」
ただならぬ権幕に、あわただしかった事務所の音がぴたりと止む。
「したこと……って、私はなにも……」
「とぼけんなよ! ぼくはなぜか、先週の終わり、ぼくの席でうたたねしてたみたいなんだ! そこを何者かに、いきなり大声でびっくりさせられて椅子から滑り落ちたんだよ! 謝ってもらわないといけない!」
……そういえば、そんなことがあった。
でもあれば、燎火だったんだけど。
ここで、それは燎火の仕業ですとは、私の口からは言いたくなかった。
あの時燎火と粕村さんとは距離も離れていたし、耳元で大声を出すような意地悪をしたわけでもないのに、燎火が悪者にされるのは嫌だった。
それはそれとして、どうしよう。
私の個人的感情のために、真相を隠したままでいるのも申し訳ないし。
前に燎火に聞いた話を思い出す。
粕村さんは不満を直接的な行動で表すことをためらわない性格。すごい勢いで詰め寄られるから周りはたまらない。
その粕村さんが、座ったままの私に覆いかぶさるようにして、接近してきた。
荒く吐かれた息が、私の前髪を揺らす。
確かにこれを日常的にやられたら、萎縮してしまう人は少なくないだろうな……。
とりあえず、落ち着くように順を追ってやり取りしよう。
「……それは、本当に私の声でしたか?」
さすがに、燎火と私の声を聞き間違えることはないと思うんだけど。
「知らないよそんなの!」
「知らないって、そんな」
「とにかくびっくりさせられたんだよ! すげえむかついたよ! それであたりを探ってみたら、有栖ちゃんのパソコンだけシャットダウンの最中だったんだ! てことはお前がいたんだろ!? ぼく土日悔しくて寝られなかったよ!」
確かに、私がいた。それは本当だ。
だから私は、反射的にうなずいてしまった。
「ほーらね! なんでそんなことしたの!? ぼくは結構有栖ちゃんに目をかけてあげてたはずだけど!?」
粕村さんが、息を荒くして肩を揺らした。
「それは……粕村さんに、妖怪がとり憑いていたんです。それで……」
「へーえ、妖怪! なんで妖怪がとり憑いてるとぼくは意地悪されないといけないのかなあ!? それってぼくがいけないの!? 有栖ちゃん、やっぱり他責志向だね! それにこんなに怒られてんのに、絶対謝らないよねえ!」
「ぜ、絶対だなんて、そんなこと言われるほど、私、粕村さんとおつき合いがな」
「いや分かるんだよ! だって有栖ちゃん一度もぼくに謝ったことないじゃん! 有栖ちゃんそういう人だよ! ぼく大体分かるんだよ、分かっちゃうんだよねえ人のそういう本質がさあ!」
吊り上がった目と、激しい舌鋒に圧倒されて、頭が回らなくなってきた。
確かに粕村さんにしてみれば、自分ではそのつもりもなく居眠りしていたところをいきなり叩き起こされた被害者なわけで、それを思うと強く出にくい。
どうしてこんなことになっているのか、なぜこんなことを言われなくてはいけないのか、腹立たしくて悲しくて、今すぐここから逃げ出したい気持ちが首をもたげてきた。
でも、とこぶしをきゅっと握った。
燎火は私に、会社が裏界にあるせいで起こる難事からは守ってくれると言った。
でも粕村さんは人間で、私も人間だ。
このトラブルは、裏界だから起きたことじゃない。現世でも起きうることだ。
私なりに対処しなくてはいけない。
燎火のせいにしたくないのは変わらないけど、私が悪いことをしたわけではないのも事実だ。
それなのに逃げたくなるのは、弱気になっているせいだ。
気を強く持とう。
言うべきことは、言わないと。順序だてて、ちゃんと。燎火のことも、変に隠さずにちゃんと伝えよう。寝たままではいけないと思って、遠くから声をかけて起こした。それだけだと。
粕村さんを見上げる。それから、立ち上がった。
怖いものは怖い。
あまり強く反論して、逆上した粕村さんに叩かれでもしたらどうしようとも思う。
普通はそんなことはないのだろうけど、この剣幕の粕村さんならありうる……と思えてしまう。
人は人を、いつでも傷つけられる。だから万が一を想像して、怯える。
そんな心構えが必要な相手に、こっちからは真摯に向き合うなんて、理不尽だ。
それでも、伝えるべきことは伝えなくてはいけない。誤解があるのだから。
「粕村さん。初めからお話ししますから、聞いていただけま」
「うわあまーだ謝らないよ!? 噓でしょ!? こんだけ言われて! ほら絶対謝らない! ぼくの言った通りじゃーん! 責任感とかないの!? 罪悪感とかないわけ!? やばい、やばいよ有栖ちゃんは!」
粕村さんが、ばんざいするように両手を挙げた。
話せば分かるはずだという私の決意が、握りしめたこぶしと一緒に、ほろほろと崩れ落ちていきそうになる。
罪悪感で人を動かしたくないと言った燎火と、今粕村さんがしていることは、真逆だ。
粕村さんはまさに、罪悪感で人をコントロールしようとしている。
この慣れた様子からして、それがどんなに効果的なのか、充分に分かりきっているのだろう。
「粕村さん、話を」
「うわああ~っまじかよ、面と向かってこれだけはっきり言ってあげてもだめか~!」
「黙れ」
それは、私の声ではなかった。
粕村さんの後ろに、いつの間にか、黒芙蓉支店長が立っている。
よく見ると、ほかにも何人かの職員が、粕村さんの後ろに忍び寄っていた。人間も妖怪もいて、粕村さんに手を伸ばしかけている。
「粕村、おめえよう……いい加減にしろよ。調子乗りすぎだぜ」
そう言ったのは、鹿のような顔をした、「けだわれ」という妖怪の営業さんだった。首から下は人間で、スーツを着ているので、パーティグッズの被り物をしているかのように見える。
「そうよ。めちゃくちゃ言ってるわよ。それにそんな、今にも嚙みつきそうな勢いで言うことないでしょう」
これは、葵さんだ。
「え、なにみんな……ぼくのせいにしてるの?」
「誰のせいかは、話を聞かんと分からん」黒芙蓉支店長が、ため息をついて言う。「それに、原因が誰だとかどこにあるかとかは、事情の整理の材料であって、話の主題でもゴールでもないよ、お前は勘違いしている。……粕村と話していると、年端もいかない子供に言い聞かせている気分になるな」
「え、支店長、それは他責志向ですよ」粕村さんが口をとがらせる。「ぼくはここにきてから凄く自由度が高くて、今までのどの会社より楽しく働けてるんですよ。ここがぼくに向いてるんですよ。だからなにか問題が起きたら、原因はほかの人にあるってことであって」
「粕村。ここでお前が、現世よりも働き心地よく感じているのは、比較的人の話を聞いてくれるタイプの人間や妖怪を選んでうちに採用しているからだ。少し気の荒い妖怪の会社に放り込まれたら、お前なんぞ一日も持たん」
「いかないもんね、そんな会社」
「妥当だ。それともう一つ、日ごろの働きぶりを見て、誰もお前には会社の戦力として期待していないし、人材として育てようともしていない。だからお前は自由で、気ままでいられるんだ」
「……ハア?」
首だけを支店長に向けていた粕村さんが、ようやく体ごと向き直る。
おかげで私は粕村さんのプレッシャーから解放されて、緊張がゆるゆるとほどけていった。
「支店長さあ、ぼくを育てようとしてないなんて、怠慢じゃん。ちゃんと育ててくれなきゃだーめじゃん」
「職務経験のある三十男が、なにを甘えたことを言っている。仕事というのは与えられるのを待つのではなく、自ら挑み、成すものだ。……とはいえ、上司に対する態度といい、もう少しくらいは厳しく指導してもよかったのかもしれんな」
「えー、そこがぼくのいいところじゃないですか。ぼく、コミュ力あるんですよ。誰とでも仲良くなれるんです。肩書とか関係なく楽しくやれるんですよ」
「この事務所の誰とも、お前は仲良くなんかなっておらんよ。お前が楽しく働けるのは、ただ周りが我慢してやってるだけだ。嫌われているよ、むしろ」
「ハア……?」
粕村さんが周りを見回した
職員たちが、気まずそうに目を逸らしていく。
私も、目が合いそうになって、慌てて視線を伏せた。
「粕村。チャンスをやろう。これから一日に三度注意をされたら、そこでお前はクビだ。それが嫌なら、せいぜい協調性を持ち、他人に迷惑をかけずに働くのだな」
「へ……へえ。またまたあ。支店長は、ぼくをクビになんてできないでしょう。知ってるんですよ、ぼくを雇うことで、会社が霊格を上げてお金もらってるって」
知ってたんだ、と私は少し驚いた。
……なら、自分が現世でどういう評価をされているのか、粕村さんは自分で分かっているっていうこと?
粕村さんは得意げに続けた。
「裏界で人間雇うとお金もらえるってことでしょ!? いいよね~妖怪じゃなくて人間雇えばそのぶん会社はまともになるし、その上お金もらえるなんて!」
……伝わり方は、不充分だったみたい。
「構わん」
黒芙蓉支店長が静かに言う。
「は? なにが?」
「霊格や助成金なんぞ、もらえんでも構わん。今のままのお前がいることのデメリットのほうが大き過ぎる。いいか、日に三度も注意されるということは、お前がこの会社に勤める水準の人材ではないということだ。ゆめゆめ忘れるなよ」
「……ふん。いいですよ。それじゃとにかく、先の話決着つけないとね!」粕村さんは再び私のほうを向いた。「有栖ちゃん、まだ謝ってもらってないね~! ほんとに絶対謝らないのかな!? だとすると教育の問題かな! ぼくはほかの県から越してきたんだけど、千葉県民てそんな感じなの!?」
その勢いに、また体に緊張が走って、私の肩がびくりと上がる。
地元まで持ち出してそしられて、凄く嫌な気分だ。
込み上げる不快感に、呼吸が浅くなる。
けれどその時、耳元に、聞きなれた頼もしい声がささやいてきた。
「有栖、そいつの言葉を正面から受け止めるな。風や水に流されてきた布をやり過ごすイメージで、身も心も斜に向けろ。この場合、別に失礼じゃねえよ。あと千葉のほかの町は知らねえけど、少なくとも流山はいいやつばっかりだ。問題があるのはそのたこすけだよ」
え? 燎火?
でも、あたりに姿は見えない。声だけがする。
とりあえず言われたとおりに、粕村さんに真正面から対峙するのではなくて、右足を半歩引いて心持ち体を傾けてみた。
粕村さんの威勢が、私の横を通り過ぎるところを思い浮かべる。
すると、嘘のように気分が楽になった。
呼吸を落ち着けて、私のペースで口を開く。
「あの、粕村さん、ですから私の話をですね」
支店長が右手の人差し指をぴっと立てた。
「……粕村、注意一だ」
「ほらほら、早く謝らないとぼくが注意されちゃうよ~! いいの!? 有栖ちゃん、君のせいになっちゃうんだよ!? ほら謝ることが増えちゃった、早く謝りなよ腰曲げてさあ! 早くう! ほらあ!」
「粕村さん、一度落ち着いて」
支店長野中指が立ち、ピースサインのようになる。
「粕村、注意二だ」
「これだけ言ってもまだだめか~! これで分かってくれないと無理なんだけどな~! 有栖ちゃんもしかして、勉強苦手だった!?」
「べ……勉強は、普通です。それより粕村さん、」
支店長の右手が、指三本ではなく、グーになる。
「粕村、注意三だ。クビだ」
支店長が、左手の指をぱちんと鳴らした。
窓際にいた社員が、大きなガラス窓を引いて開ける。
そこから、私より体が大きいんじゃないかというくらい巨大な黒い鳥――見た目はカラスだけど、とにかく大きい――が三羽ほど事務所に飛び込んできた。
「お前をろくに教育できずに放逐するのには胸が痛まんでもないが、わたくしには、お前からほかの社員を守る義務もあるのでな。各種書類や退職金は、可及的速やかに手配するよ。ではな。やれ、大鴉たち」
巨大なカラスたちは、粕村さんのスーツの肩を、中身の肉体ごとがしっとつかんだ。
「は!? なにこれ!? ちょっと、離せよお!」
「裏界の入り口まで送らせてやる。現世に出ればすぐハローワークだ、ちょうどいいだろう。この事務所には二度と戻ってくるなよ」
「支店長、これってパワハラだよお!?」
カラスがはばたき、粕村さんの体がふわりと浮く。
「ここは現世ではないからパワハラの定義が異なるし、お前はもう社員ではない。それでも、お前が次に行く職場では、パワハラの犠牲にならないことは祈っていてやるよ」
「や……やだよ! ここが一番楽だったんだ、毎日直行直帰できて! 週に何日も仕事するなんて嫌だ! ここを辞めたら、ぼくはもう働かないぞ! それでもいいのか!?」
「そうか。よかったな、この上なく自由の身になれて。わたくしも、歩合が毎月ゼロの基本給泥棒がいなくなってくれて、WINWINだよ」
粕村さんの顔つきが変わる。驚きから、怒りの表情へと。
「は……あははは! いいよ、辞めてやるよ! ぼく、本当はお前らとなんて働きたくなかったんだから! なんだよ妖怪の会社って! お前らなんて人間社会じゃ通用しないんだよ! ほかにも言ってやりたいこといっぱいあるんだから! いいかまず――」
「分かった分かった。凄い凄い。じゃあな」
まだなにか言おうとしている粕村さんを、カラスたちが窓から連れ出していく。
その羽音が去った後、また窓際の社員がぴたりと窓を閉めた。
「お、間に合わなかったか」いつの間にか事務所の入り口に、燎火が立っている。「餞別の言葉くらいはやろうかと思ったがな」
「燎火、……さっき私に、なにか言ってくれた?」
「事務所で騒ぎが起きているのは分かったんだが、三階の教室からここに来るのに少し時間がかかりそうだったんで、声だけ飛ばしたんだ。便利だろ、鳴術」
うん、とうなずきながら、すぐ耳元でささやかれるのがくすぐったくて顔が熱くなりそうだった、という本音は言えるわけもなく隠しておく。
「そ、それなら、今からでも粕村さんにその術でお別れを言えるんじゃないの?」
「なぜおれがわざわざあいつに、そこまでしなきゃならん」
事務所の中は、みんながそれぞれ自分の仕事に戻り、営業の人たちは次々に出かけていく。妖怪はもちろん、人間もみんな。
もともと粕村さんは会社にあまり来なかったので、いなくなってもあまり影響がないのかもしれない。でも、それにしても……。
私の動揺を見て取ったらしい燎火が微笑して言う。
「有栖の目には、薄情に見えるか? だが、裏界は誰がいなくなってもこんなもんだ。良くも悪くもな」
そんなふうにして、就妖社は日常に戻った。
……少なくとも、事務所の中は。
■




