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翌日。
A3教室では朝礼が行われており、燎火から一日のカリキュラム予定の説明や注意が伝えられる。
この時「これも授業なので、静かに聞いてください」と燎火が言っただけで、逆に騒ぎ出した生徒がいた。天邪鬼だ。心得たもので、燎火が「あなただけは騒いでいいです」と言うと天邪鬼はぴたりと静かになる。
「えー、では続けます。今日はパソコンだけでなくタブレットを使うコマがありますが、前回、爪が鋭すぎてタップの時画面にひびを入れた人がいました。強く突かずに、優しく扱ってください。というか訓練の期間中だけでも爪を切ってくれ」
すると何人かから、「高圧的だ」「爪なんぞ切らされる筋合いはない」と文句が上がったけど、燎火が
「今度やったら弁償ですよ」
と言うとぴたりと収まった。
朝礼の終わりには、燎火が、授業中のスマホ使用について生徒たちに厳重に注意した。……といっても、もうこの注意も何度目かだ。
何度授業中の使用を禁止しても、机の下でこっそりとスマホを開くのをやめられない人はいる。完全にスマホ中毒だけど、これは人間でも妖怪でも珍しくないらしい。
燎火が半眼で、教室をにらみ回して言う。
「どうしてもそこまでしてスマホが見たいなら、訓練は中退して、家で好きなだけ見るように。ここは今日の場です、ルールを守ってけじめをつけましょう。以上」
私も同じ内容の注意をしたことがあるけれど、迫力には雲泥の差がある。
授業が始まったので燎火と一緒に事務所へ戻る途中、燎火にそう言うと、
「それでもなあ、何十分かすると見るやつはまたスマホ見出すんだよな」
と頭をかいた。
似たようなことは私の高校時代にもあったので、職業訓練は本当に学校みたいなところがある。
事務所に着くと、私は燎火に、例の中途退校者への連絡方法について、考えたところを話した。
「なるほどな、有栖のアイディアはいいかもしれん。どうもおれは、直情的でいけないな」
「アイディアってほどのものじゃないけど、昨日燎火が『脅すようなことはしたくない』って言ってたのがヒントになったんだよ」
中途退校して連絡が取れなかった二人には、内容証明や簡易書留の前に、退校届と記入例を入れた普通郵便を送ることにした。
返信用封筒も入れてある。
それだけなら珍しくないけど、今回は、今までよりも丁寧な添え状を入れることにした。
差出人の名義は、燎火と私と支店長。文面はパソコンで打ち出したけど、それぞれの署名は手書きにしてある。
内容は、出すと約束したはずの書類が出ていない、というような詰問ふうの文言は避けた。今の状況を知りたいということ、書類は必要なものなのでできるだけ労力をかけずに作成できるよう協力すること、とにかく一度連絡をして欲しいことなどを書き綴ってある。
このくらいでは書類の催促として生ぬるいのかもしれないけど、少なくとも、私や支店長の名前が入ることで、今までとは違った変化はつけられると思う。
これで返信が来ればよし、なければ次のアプローチを考えるだけだ。
「この仕事何年もしてる燎火から見たら、弱腰過ぎる的なこと言われるかと思ってた」
「何年もやってるからこそ、知らず知らずのうちに自分の中で最適解を一つだけ持つようになるのもよくねえんだ。人間も妖怪も千差万別だからな、効果的な手段も一様じゃねえ。今回はどうしていくか、ひとまずこいつを出して、段階を踏んでいくとしようぜ」
うん、とうなずいた時、しぱーんと軽く鋭い音が事務所の中に響いた。同時に、「電話が鳴ったら出ないか!」と凛とした声も聞こえてくる。
「あっ、い、痛い~! 支店長それパワハラですよ、パワハラ!」
「それは現世の話だろ? ここは裏界だ。第一、こんな紙のハリセンで肩叩いただけで、痛いわけあるか。木製じゃないだけありがたいと思うがいいよ」
今日は朝から、黒芙蓉支店長が粕村さんにつきっきりになっている。
「会社でパワハラがあるってばれたら霊格落ちますよ! ぼくタレ込んじゃおうかな~!」
「好きにしろ。わたくしはお前の脅迫には屈しない。叩かれたくないなら指導に従うんだな。いいか、自分の課あての電話が鳴っていたら取れ。三コール以上鳴ってから取った時は『大変お待たせいたしました』をつけろ。そら、また鳴ってるぞ」
でも、粕村さんは取ろうとしない。
仕方なく、はす向かいにいた別の妖怪――胴体や足は人間だけど、手がとても長い――が受話器を持ち上げた。
「すまんな、長腕。粕村、わたくしはな、お前に取れと言っているんだよ」
「い、家電が鳴った時は、うちではお母さんが出る係で」
「お母さんはここにはいないッ! 電話に出るのも仕事の内だ、給料もらってる身の義務として出ろ! ええいなんでお前くらいの歳のやつに、こんな新入社員用みたいな指導しなきゃならんのだ!?」
「あーあー歳のこと言った! ハラスメントだー! 訴えようっと!」
「好きにするがいい。中途採用というのは、新卒よりある程度のビジネスマナーが身についていることを期待して取るというのに、お前新卒より手がかかるじゃないか」
私は燎火に耳打ちした。
「気にしないようにはしてるんだけど、目についちゃうね……あれだけマンツーマンだと」
「あんな態度の正社員もいれば、懸命に求職活動をしてもなかなか思い通りの就職ができない訓練生もいる。世の中って、ままならねえよな」
気を散らすのはそこまでにして、私たちは自分の仕事に再度集中した。
内勤の仕事というのは、机にさえ向かっていれば集中して片づけられそうなイメージを持たれがちだけど、実際には顧客や取引先、あるいは車内からもたらされるイレギュラーによって何度も業務を寸断される。
もちろんそれも仕事のうちなので、突発的に起こる大小のトラブルに対応しながら、ルーチンワークを締め切りまでに一定以上の質で終わらせるのが、内勤者の腕の見せどころになるのだ。
……などともっともらしいことを胸の中で唱えながらも、就業時間を過ぎても書類の取りまとめが終わらず、この日も私は残業になっていた。
職業訓練は、公式に提示されているマニュアル――プリントアウトするとちょっとした紙束になる――のほかにも細かい確認事項が多く、不慣れな私は一つ一つの作業にまだまだ時間がかかる。
残業が好きな人はあまりいないと思うけど、この日の私はとりわけ憂鬱だった。
事務所には人影がまばらで、支店長は定時に帰ったし、燎火もハローワーク周りをして直帰することになっているので、気心知れた職員はもうほぼいない。
受付の葵さんとは、お菓子の交換をしたりたまにお昼を一緒に食べるくらいに仲良くなったけど、受付という仕事上残業はほぼないので、もちろん定時を過ぎれば帰ってしまう。
決して、仲のいい人がいないのが嫌だなんてことではないんだけど、ただ。
この日は珍しく、粕村さんがまだデスクにいた。ほかにあまり人がいないと、どうしても、この前の失礼な言い方が思い出されて気になってしまう。
相変わらず彼の机上には書類が積み上がっていたけど、それと格闘する様子もなく、スマホの画面をすいすいと指で撫でている。どうやら仕事ではなく、ゲームかなにかをしているようだ。
あまり気にしないことにして、私は自分の仕事に取り掛かる。
内勤の仕事は、途中で寸断されるからはかどらないのが悩みの種だ。
逆に言えば、就業時間後は予期せぬトラブルが持ち込まれる可能性が極端に低くなるので、とてもはかどる。
なんだか悲しいけれど、それは事実だった。
おかげで、昼間は遅々として進まなかった入力の煩雑なデータが、あっという間にまとまっていく。
よし、これで後は確認だけだ、と心の中で息をついた時。
事務所の奥から、その声は響いた。
「有栖ちゃんさあ、支店長のことどう思ってるう?」
驚いて振り向くと、事務所にはもう、粕村さんしか残っていなかった。
粕村さんは私に横顔を向け、スマホでのゲームを続けながら、声だけをかけてくる。
その様子から、私という人間が、粕村さんにすごくぞんざいに扱われているのが分かる。
でも、腹立たしいのと同時に、いちいち抗議してもきりがないんだろうな……と、あきらめの気持ちも込み上げてきた。
声をかけられているのに、無視するわけにもいかないし。
「……どうって、なにがですか?」
せめてもの抵抗として、私も横を向いたままで返事をした。
「ぼくさあ、担当してる登録者の近況確認を今日中にしろって言われたわけ。でも心のやる気ボタンが押されてなくてさあ、終わらないまま残業になっちゃってるんだよねー」
「……そう、ですか」
なにを求められているのかが分からなくて、そんな答えになる。
「ねえ、有栖ちゃんはどう思う?」
「連絡を早く終わらせるか、今日はもう無理そうなら明日にするとか――」
「有栖ちゃんはあ、黒芙蓉支店長をお、どう思ってますかあ?」
私の言葉をさえぎって、粕村さんが大きな声を出した。
そういえば最初の質問はそれだっけ。
ただ、私のほうを見もせずにスマホを見つめたまま繰り返されたその質問は、とても失礼に聞こえた。私に対しても、支店長に対しても。
そのせいで、言葉が出てこない。
たぶん、支店長の悪口が聞きたいんだろう。それを察したせいで、なおさら答えたくなかった。
「……さあ、どうでしょうか……」
どうにか、それだけ口にした。
思わぬところで寸断された業務を再開する。
幸い、粕村さんの質問は繰り返されては来なかった。
今のうちに早く仕上げてしまおう。
そうして、ほんの数分集中しただけで、予定していた作業は完了した。
今度は心の中ではなく、実際に深く息を吐き出した。
時計を見ると、就業時間を三十分ほど過ぎたところ。
大した残業にならなくて、よかった。
データを保存して、立ち合がる。
椅子をデスクにしまって振り向いた時、私は絶句した。
いつの間にか、すぐ目の前に、粕村さんが立っている。
「お、つ……かれ様、です」
粕村さんが目を見開いていた。前にも見せた、あのらんらんとした丸い目になっている。
「あ、あの……?」
「ずいぶん、かわいがられているようだよねえー……」
「え?」
「ぼくが、君に代わって、かわいがられてあげよう」
「粕村さん?」
後ずさりした私に、粕村さんが手を伸ばしてくる。
その指先が私に触れようとした時、静電気のようにばちっと音を立てて、粕村さんの手が火花に包まれた。
「きゃあっ!? な、なに!?」
ばたんと、事務所のドアが開いた。
そこにいたのは、
「有栖、粕村から離れろ」
「燎火!? 今のなに!?」
私が駆け寄ると、燎火が私の体を腕でかばい、前に出た。
「今有栖を守った火花は、支店長が施した防御のまじないだ。裏界には、現世にはない類の危険もあるからな、社員には一通り施されてる。そしてあいつは、――」
燎火が、腕を抑えてうずくまっている粕村さんを一瞥する。
「――あいつは、粕村じゃないな。いや、外身は粕村だが、中身は別物だ」
「べ、別物? どうしてそんなこと分かるの?」
「見ろ」
燎火が、粕村さんのデスクを指さす。
「椅子が、デスクに収まっているだろう」
「……それが? 普通のことじゃない」
「いいや。粕村は、引いた椅子は戻さないし、開けたドアは閉めない。菓子のゴミは自分で捨てないし、自分用のマグも洗わない。どれも、徹底して自分では絶対にやらずにいれば、必ず誰かがやってくれるからだ。家では親、ここなら社員がな」
「……あ、そう……」
緊迫した状況には似つかわしくない声が、私の口から漏れた。
「だが今、やつは自分の使った椅子をちゃんとデスクにしまっている。ということは中身は粕村ではありえない。なにかにとり憑かれているんだ。心当たりがあるぞ。お前、……泥兵衛の無辜作だな?」
その妖怪の名前には聞き覚えがあった。
燎火が教えてくれたのだ。
泥兵衛というのは怠け者の妖怪で、そのくせ人にちょっかいをだして構ってもらいたがる。時折、自分と同じように怠け者の人間がいるととり憑いてしまう。
なぜ私がそんなことを教えてもらったかというと、泥兵衛の無辜作というのは、まさに今、就職で中退したけど連絡が取れなくて困っていた妖怪だからだった。
「さすがだね、犬神……燎火、だったね。通学中は世話になったよねえ」
「とにかく一度顔見せろって呼べど招けど全然音沙汰がなかったってのに、ずいぶんな顔の見せ方じゃねえか? ……どうやら害意はねえようだが、いたずらにしちゃ趣味が悪いぜ」
「あんまりにも書類出せ出せうるさいからさあ、社員に化けてちょっと嫌がらせしてやろうと思ったんだよ……」
燎火がぎらりと眼光を放つ。
「なら、直接おれにしろよ。有栖になにかあったら、ただじゃ済まさねえところだったぞ」
「だって、燎火がいなくて、待つのも探すのも面倒だったからあ……」
「こらえ性のないやつだな、本当に」
「そうだよう。ぼくがとり憑けるのも面倒くさがりの甘えん坊だけだから、ちょうどいい社員がいなければあきらめようかと思ったんだけどねえ……」
はっ、と私は息をのむ。
「もしかして、粕村さんがあまりといえばあまりな感じだったのは、あなたがとり憑いていたせいなんですか!?」
けれど、無辜作さんだけでなく燎火もふるふるとかぶりを振った。
「有栖、残念だが、粕村はもともとああだった。こいつがとり憑くことで、多少ましになるほどだ」
「そうだよお。それにぼくがこいつにとり憑いたのは、ついさっきだもの。就業時間中なのにずーっと外の喫煙所でタバコ吸ってて仕事しようとしないから、これはいいカモだと思って。実際、逸材だよお」
「ああ。そいつ、とり憑きやすかっただろ」
「過去イチだねえ。さっき支店長さんのこと聞いたのは、今日一日怒られっぱなしだったせいでいたく自尊心が傷ついたみたいで、こいつの頭の中に強くその怨念が渦巻いてたからだよお。支店長さんがどんな人なのか、気になってねえ」
ふん、と燎火が肩をすくめる。
さっきまでの迫力は鳴りを潜め、視線はすっかり穏やかになっていた。
「残念ながら、お前は有栖にはとり憑けねえぞ。粕村とはわけが違う。ちょっとでも気が晴れたんならちょうどいいや、書いてもらいたい書類すぐ出せるから、今書いちまえば面倒がないだろ? なに、名前書いてなん箇所かマルつければそれで終わりだよ」
「ふうん……じゃあ、それくらいやってあげようかあ」
燎火がたくみに、無辜作さんの面倒くささのハードルを下げ、書類をささっと取り出す。
連絡が取れなかった本人が来てくれたのだから、訓練校とすれば、中途退校書類を提出してもらう、願ってもないチャンスだ。
これを逃す燎火ではなかった。
燎火が無辜作さん――見た目は粕村さんだけど――に書類とペンを渡し、不備がないよう横で確認しながら、記入個所を埋めてもらっていく。
書き込む内容自体は簡単なものなので、二三分もすると書類は完成した。
ペンを返してもらいながら、燎火が書面をチェックする。
「よし、抜けも不備もなし。細かいところならおれたちの加筆修正で済むから、これでもううちから連絡がいくこともねえよ。催促の郵便が着いちまうかもしれねえけど、入れ違いってことで許してくれ」
「はあい……あのさあ、燎火よう」
「なんだよ?」
「パソコン習ったの、……かなり助かったよ。ぼく、面倒くさがりだからさ、自筆でなにか書いたりするの、苦手で。キーボードってやつ、すごく便利だね。カットとペーストで文章修正とかできるの、夢みたい」
はは、と燎火が笑う。
「確かに便利だけど、それを使えるようになったのはお前の努力だろ。それこそ、面倒くさいからって練習しなければできやしねえんだから」
「うん……もっといろいろ覚えれば、どんどん仕事が楽になりそう……ぼく、頑張るよ」
「ああ。訓練が役に立ったらおれたちもうれしいよ。じゃあ、達者でな」
無辜作さんは、一度へらっと笑うと、粕村さんの席に戻った。椅子を引いて、座る。かくん、とその首が折れた。
ぐったりした粕村さんの頭上に、半透明の気体のようなものがあらわれ、不定形に揺れながら事務所の――会社の外に出ていく。あれが、無辜作さんなのだろう。
「さて、有栖。仕事が終わってるなら帰ろうぜ」
「え、うん」私はパソコンをシャットダウンしつつ、「……粕村さん、あのままで大丈夫かな」
「別にどうってことねえだろ。おれは、寝起きのあいつの相手するのも、有栖にさせるのもごめんだ」
そう言って、燎火は私のかばんを持ってくれた。
「い、いいって自分で持つよ。……そういえば、支店長の防御のまじないって、粕村さんにはやってあげてないのかな?」
「いや、そんなことはねえよ。ただ粕村が隙だらけなのと、今回は粕村と無辜作の相性が良すぎて、まじないで弾けなかったってところだな。ある意味大した才能だ」
凄いのかなんなのか、よく分からない話だけど。
とりあえず、事務所から二人で出る時に、一応燎火が「わ!」と大声を出して、粕村さんを起こしてあげた(がたんがたんと、人が椅子から転げ落ちる音が聞こえた)。
裏界は、昼でも薄暗い代わりに、夜は真っ暗な時だけではなく薄明かりが灯っていることもある。
この日は後者だった。
ハローワークにある裏界の入り口と就妖社の間の道は、速足なら五分くらいの道のりだけど、その七割くらいが林の中だ。道幅は五メートルくらいあってだいぶ開けているものの、あまり落ち着かない。
それでもこの道は裏界の中ではかなり治安がいいらしいけれど、一人で歩くのはやっぱり少し怖かった。
前にそう燎火に言ったら、
「ああ、そうだ、言い忘れてた。この辺りはおれの眷属の犬どもが巡回してるから、そうそう滅多なことはできんぞ。でなければ、有栖を裏界で働かせねえよ」
と言って、何匹かの犬――どれも黒くてやや大型で、迫力がある――を紹介してくれた。
もともと、現世から裏界に来る職員を眷属でボディガードするのは、燎火の役目らしい。支店長から、そのぶんの手当も支給されているそうだ。
だから普段は見えないけど、私の行き帰りも危険なことがないように、林の中から犬たちが見守ってくれている。
今日は明るい上に隣に燎火がいるので、さらに安心できた。
空間にたゆたうような穏やかな光にぼんやりと照らされた燎火の横顔を見ながら、並んで歩く。
かばんをまだ燎火が持ってくれているので、普段よりずっと歩きやすい。




