二万円の少女
お手紙ありがとうございます。こうしてご連絡のいただけたこと嬉しく思っております。私の手元にあなたのお手紙が無事届くことができた巡り合わせは、この上ない幸運であります。最近の慌ただしく寒々しい毎日の中、忘れてしまっていた彼女との日々をふと思い出すことができ、雪の降るような空に一陣の暖かな風が吹いたような心地がいたしました。
あなたのお手紙をお読みするところによると、あなたは彼女に私との日々をある程度お聞きしたものと存じます。そして、私と彼女の関係や、彼女と私が過ごした僅かな日々の様子を、もう一人の当事者である私から聞き出そうとお考えなのでしょう。あるいは、内容次第では相応の処分をお考えなのでしょう。
しかし、私はあなたのお手紙で初めてそのことを知りました。私たちが共に過ごしたのはひと月程でございましたが、その間そのような素振りは全く見られませんでした。嘘だとお思いになるかも知れませんが、私には彼女が何を考えていたのかは、少なくともその間に窺い知ることはできなかったのです。
その日、私は財布に田舎から送られてきた二万円を詰め込んで街を歩いておりました。その頃は今のように毎日の仕事に追われておらず、かといって心安らかに休む時間もなく、つまりは代わり映えのない退屈な日々を送っておりました。その二万円はそのひと月に最低必要な金額を除いた、いわゆる小遣いでありまして、その日はそれをぱっと使ってしまって、退屈な日々にせめてもの抵抗をしようと考えていたのであります。
しかし、ひと月に二万円も小遣いができるような、もとよりあまりお金を思い切って使える方ではありませんでした。一日でぱっと手元から無くしてしまう方法と言えば、銀行に預けて通帳にその事を書き込まずにいるような、そんな阿呆なことばかり思いつく始末でした。
そうして、私は二万円もの大金を懐に忍ばせたまま、街を歩き回っておりました。飲食店に入るでもなく、何を買うでもなく、ただ二万円は減らずにおりました。その時、ふと通りがかった公園に一人の少女がおりました。お察しの通り、それが彼女であります。彼女は平日の昼下がり、子どもも老人もいない寂れた公園のベンチに座っておりました。おや、とまず思いました。彼女の歳の頃は私より僅かに下、その時私は大学の二年でありましたから、彼女は制服を着ておりませんでしたが、おそらく高校生であると見えました。平日の午後に公園のベンチに座っている。それは女子学生ではほぼ有り得ないことでありますし、若い女性が一人そんなところでただ時間を潰すようなことをするわけがありませんでした。
彼女がそこにいるだけで十分興味深いことではありましたが、他にまた目を引く理由がありました。彼女はただベンチに座っているのではなく、時折顔を上げ、空を見ておりました。しばらくじっと眺めていたかと思うと、次の瞬間にはふっと顔を下げまた足下を見つめているのです。そうしたことを何度も何度も繰り返しておりました。私も彼女の見る空の先を眺めてみましたが、取り立てて何があるわけでもなく、白い雲がやけに速く流れ、日の光は彼女の背中を強く照らしておりました。それは夏の初めのよく晴れた日のことでした。
その様子が私にはどこか壊れかけた人形のように見え、目が離せなくなっておりました。「何かを探しているのですか」と声を掛けようかと思いました。しかし、どう考えても何かを探しているようには見えませんでした。彼女の見つめる先、空にも公園の土の上にも、何もありはしないのは遠くからでもはっきりと解ったからです。かといって「何をしているのですか」と不躾に聞く勇気はその時の私にはありませんでした。
思い悩んだ末、私は近くの自販機で二本の缶ジュースを買い、それを手に彼女に近づいていきました。その時彼女は丁度顔を下げたところでした。私も何度も繰り返したように彼女の視線の先を追いました。そこではっとしました。彼女は影を見ている。地面と空を見比べていたのではなく、彼女は自分の影と空とを交互にその目に映していたのであります。
「影送りですか」
私はそう声を掛けました。
私が近寄ると、彼女は恥ずかしそうに顔を逸らし、また空を眺めました。その先に私は青い空以外何も見ることはできませんでしたが、彼女にはきっと見えていたのだと思います。
「なんでもないんです」
澄んだ美しい、なにより優しい声でした。そこで初めて私は彼女の顔を見ました。頬が僅かに染まり、口元には微かな笑みが漂っておりました。
彼女の隣に座り、二人で缶ジュースを開けました。彼女はまた同じように影を見、空を見上げては影を送っておりました。私も同じようにしてみました。確かにそうすると、空に自分の姿を見出すことができました。しかし、その影は酷く不格好で、人と言うよりも何処か達磨のような、気味の悪いものに見えました。彼女は何も話してはくれませんでした。
ジュースが空になる頃、ふいに彼女のお腹が可愛い音を立てました。また彼女は恥ずかしそうに俯きました。私たちは近くの定食屋へ入りました。私も丁度食べようかと思っていたところでしたので、二人で定食を食べながら話していると、彼女は帰る場所がないことを知りました。
私は大変困りました。そのまま彼女を放り出すことなど到底できませんでした。しかしまた私は田舎からの仕送りで日々を過ごしている身であります。人を一人家に住まわせるという決断も容易なことではありませんでした。家の場所や布団ならば余りがあります。問題はやはりお金であります。数日、数週間ならまだしも、全く行く当てのない人を養うようなことはできるはずがありませんでした。彼女は何も言いませんでした。しかし、目の前の皿が空になっても、一向に立ち上がることもなく熱いお茶を注いでは一口一口啜るように飲んでおりました。熱さに鈍感になっているのか、時折慌てて口を離しておりました。その時にふいに出る小さな舌を見ている内に、私は彼女を家に連れて帰ることに決めていました。彼女は拒みませんでした。ただ小さく「はい」と答えたばかりでありました。
一日や二日は学校に行くのも心配でした。もし彼女が質の悪い盗人であって、私が居ないうちによからぬことをしたり、突然いなくなったりはしないものかと、思っていたのであります。しかし、何日か彼女と過ごしている内にそれが大変失礼な妄想であることが解りました。彼女の目は深く澄んでおりました。彼女はその歳にして母親のような優しさ、暖かさに溢れておりました。彼女の仕草は時折幼さを感じさせましたが、しかし器用に家の仕事をこなしてくれました。これは私の勝手な推測でありますが、彼女は私との生活を喜んでいるように思えました。
彼女はとても勉強家でありました。私が学校で聞いてきた講義を戯れに話すと、非常に興味を示してくれました。私の所属柄、教育の話と文学の話が中心でありました。そして、彼女はそれを決して忘れないのであります。一度話したことを私が忘れてもう一度口にすると、すぐさま唇に指を当てて何も言わずに微笑むのです。私の家には授業で使った教科書や参考書、私の趣味の小説や論文などが僅かばかり置いてありましたが、彼女はそれを一冊残らず読んでしまいました。そしてまた、その内容について私と議論を交わすのです。彼女は私にとって最初の生徒だったのであります。
私が学校から帰ると、彼女はよく空を見ておりました。私の部屋は二階にありましたから、幾分周りの屋根より高く空が見えました。しかしそれは、地面が、自分の影が見えないということでもありました。部屋の中から見上げているのですから、それは当たり前のことであります。しかし彼女はよく空を見ていました。
「何をしているのですか」
幾度と無く聞きました。その度に彼女は、
「なんでもないんです」
と答えるのでした。
彼女はよく早起きをしました。彼女が来てから私の就寝時間は三時間以上早くなりましたが、それ以上に彼女は早く起きるのが日課でありました。そして何をしているのかと思えば、やはり窓を開けて空を眺めているのです。夜から朝になるその穏やかな時間は、特に彼女のお気に入りの時間のようで、絶えずにこにことした微笑みを絶やしませんでした。彼女はまた夕暮れも気に入っておりました。陽が沈む頃になると毎日窓辺に肘をついて、じっと空を見渡しているのです。
私も傍で同じように空を眺めていたことがあります。すると彼女がすっと空のある一点を指さしました。その先には小さく光る星がありました。一番星です。彼女は一番星を見つけるのが大変上手でした。何度か私も彼女に挑みましたが、結局一度も勝つことができませんでした。その度に彼女は本当に嬉しそうに笑うので、私も釣られて嬉しい気持ちになりました。
ある晩のことでした。私は学校の用事が遅くなり、外が暗くなってから家に帰りました。連絡するのをすっかり忘れていて、彼女は夕飯の支度をしてただ一人静かに食卓の前に座っていたのでした。彼女は寂しげに俯いておりました。その顔はあの公園で、私が声を掛ける前によく似ておりました。しかし、その深い影はあの時以上でありました。
「夜は苦手ですか」
彼女はこくりと頷きました。
「夜空は眺めないのですか」
「夜は暗いから嫌いです」
「暗いから星がたくさん見えるのではありませんか」
「たくさん見えるから、嫌なのです」
彼女は静かに泣き出してしまいました。私は彼女の傍で泣きやむのを待つしかありませんでした。あまりにも静かな夜でした。彼女のすすり泣く声が、窓から遠く何処までも聞こえてしまうような、そんな不安が過ぎりました。それがとても恥ずかしいことのように思え、私は窓を閉め、カーテンを引きました。
次の日は学校が休みでありましたから、昨日のお詫びにと私は彼女を連れ出しました。彼女は大層喜んでくれました。あの日と同じ定食屋で食事をし、あの日の公園へとやってきました。同じベンチに二人腰掛け空を眺めました。
「あの時、影送りとあなたは言いましたね」
「ええ、言いました」
「確かに、私は影を空に送っていたのかも知れません。しかし、本当はそうではないんです」
彼女がすっと空を指さしました。私はその先をじっと見ましたが、何も見えませんでした。しかし彼女の横顔は強く意志に溢れていて、確かに何かを彼女は見つけたのでありました。それはきっと、他の誰も知ることのできない、彼女だけのものでした。
その次の日、学校から帰ると彼女がいませんでした。彼女が一人で出掛けることはありませんでしたから、私は大変取り乱しました。思わず何か無くなっているものがないか探してしまいました。すると、彼女のために使っていたお金の残りが無くなっていることに気がつきました。あの日持ち歩いて、結局一円も使わなかった二万円の残りです。その代わりに、食卓に用意された夕飯の傍に、短い書き置きが残されておりました。
幸薄きたまとなりにしこの身にも月よ花よと降れる白雪
それはたった二万円の担保としては、あまりに大きすぎる約束でありました。
そうして彼女は私の傍からいなくなったのであります。もう二年も前の暑い夏の日のことであります。彼女と過ごしたのはひと月程で、その間何の間違いも起こらなかったことをここに誓わせていただきます。
それからしばらく私は考えておりました。彼女は既に私の生活の一部になっておりましたから、数日の間は呆然としていたので、その空いた頭で彼女が何故空を眺めていたのかを考えておりました。
一週間ほどして、また私はあの日の公園へと向かいました。彼女の座っていたベンチに座り、同じように影を見、そして空を見上げました。その時にようやく解ったのです。彼女は影を空に送っていたのではありません。影は一つの手段に過ぎませんでした。彼女はだから日の出や夕暮れを好んだのであります。
彼女は星を探していたのであります。それも、他の誰も見えないような、自分だけの星を探していたのです。夜では駄目なのです。星が多くありすぎてどれが自分の物かちっとも解らないからです。私は昼間の公園のベンチから、自分の影の中に一点の光を見つけることができました。
あの書き置きはまだ私の手元にあります。二万円の代わりに財布の中に入っております。彼女さえよければ、二万円に利子を付けて私の元へ返すようお伝え下さい。必ず、本人が直接来るようお伝え下さい。それまで、私はこの家を動きません。
優しい雪の降る日を楽しみにしております。
現存する話で書いたのが一番古いと思われるもの。
当時はまだ近代小説を読んでいたのでそれっぽい書き方で堅苦しく、ドラマ感がある。
発想は単に「二万円で少女を拾う」という何の理由もないもので、たまたまその時樋口一葉「雪の日」を知ったので終盤にそれが使われている。手紙の形になった理由はもう忘れてしまった。