愛人がいる夫を三年間泳がせた結果。~今更やり直そうと言われてももう遅いのです~
「奥さま……ほんとうによろしいのですか?」
「なにが?」
「旦那さまのことです。あのままにして、ほんとうに……」
夫と別れて自室にもどった私を待っていたのはメイド長のマーサだった。彼女とは私が子供だったときからの付き合いで、私のことを実の娘のように思ってくれている。
だからこそ立場を承知で指摘したのだろう。
夫、ジェイドから私への仕打ちについて。
「奥さまも暮らしていらっしゃるこの屋敷に愛人をひっぱりこむなど許せません!」
──そう、夫には愛人がいる。
私よりも五つ以上若い。とある劇場付きの女優で、やや幼い目のパッチリした顔とブロンドの髪、豊満な肢体はさぞ舞台映えするだろうと思わせた。
夫は私も住むこの屋敷にその愛人──ベティを連れこんでいる。
驚くことなかれ、結婚初日からだ。
もともとジェイドと私は政略結婚。貴族同士の、愛のない打算だけの結婚だ。
だから結婚初夜、若い愛人を呼びよせた彼に『僕は僕で好きにやらせてもらうから、きみも自由にするといいよ』と言われてもはいそうですかと思っただけだった。デレデレと鼻の下を伸ばしたジェイドと、私を見てくすくす笑っていたベティの顔は気に食わなかったけれど。
それからふたりの麗しき関係は三年続いている。
ただ貴族の家に生まれただけのジェイドも、ジェイドには内緒で劇場の支配人を体で垂らしこんで主役の座を得ているらしいベティも私からしたらなんの魅力もないのでよく続いたなと思っているが、まあ恋は盲目というし、口を出すのは野暮だろう。
「べつにいいわよ。あんなジャガイモ男に抱かれるなんてこっちからお断り」
「ですが──」
マーサにはなにか言いたいことがあるらしい。無言でうながすと、
「どうも……あの女は奥さまの後釜を狙っているようです」
「へえ?」
「あの女と旦那さまの会話を偶然立ち聞きしてしまったのです。あの女は……あの女は、恐ろしいことに」
──奥さまを毒殺する気なのです。
そう聞いてさすがに肌が粟立った。しかし高齢のマーサを不安にさせてはいけないと私は平静を装い、「冗談かなにかでしょう」と答える。
「ですが、万が一……!」
「大丈夫よ。……でも、そうね」
私は主人の寝室があるほうを見る。
妻である私そっちのけで楽しくおしゃべりしているであろうふたりがいるほうを。
──スカーレット、あの男はだれだ! 僕という夫がありながら浮気なんて見下げたぞ!
遠くから遊びにきた従兄に街を案内した日、偶然それを目撃したらしいジェイドにそう問いつめられたことを思いだす。
きみも自由にするといいなんて言いつつも妻が異性と歩いているだけで激怒する。自分の不倫を棚に上げて。ジェイドはそういう男だった。
──おはようございまぁす。あ、ねえ、ちょっといいですかぁ?
──なに?
──こーゆうの、あたしたちの間では『寝取られ』って言うんですよ
──……は?
──寝取られです、寝取られ妻。夫を若い愛人に取られちゃった奥さまのこと
あっ、でも奥さまは一度もジェイドさまと寝てないんでしたっけ? そりゃ取られるのも当然ですよねぇ
──夫に冷たくてぇ。女としてなーんの魅力もなくてぇ
──ジェイドさまに愛されないのもトーゼン、って感じ!
つい不快な思い出が蘇ってしまい、ふう、と私は溜め息をつく。
ジェイドがジェイドならベティもベティだ。夫と夜を過ごした翌朝、廊下で出くわした私に彼女はそうマウントを取ってきたのだった。
ベティはジェイドを愛しているわけではなく、お金と"妻がいる貴族の男をたらしこんだ"という勲章がほしいだけだというのに。
「離縁は離縁で面倒だったから泳がせておいたのだけれど……」
あの男と形だけの夫婦となって三年。もう充分だろう。
「そろそろ……思い知らせてあげましょうか」
+++
真夜中。この屋敷の主人と別れ、ベティはキッチンへと向かった。手には小瓶に入ったトリカブトの根をすりつぶしたもの。
──これを、あの女……ジェイドの妻が毎朝飲むという紅茶の缶の中に入れる
──それであの女はおしまいだ
──あたしはジェイドの妻になれる
──そしたらこの家の財産はぜんぶあたしのもの
燭台を調理台の上に置き、ベティは見つけだした紅茶の缶を開けた。かぐわしい香りがほかにだれもいないキッチンに広がる。
──これで……!
小瓶を開けてトリカブトの粉末を零そうとしたときだった。
ばたん、とキッチンの扉が開いた。
「え!?」
「あ、あなたは……!」
扉口に立っているのはこの屋敷のメイド長だった。彼女はベティを持っていたランタンで照らし、「そこでなにをしているのです!」と鋭く叫ぶ。
「くそ……っ」
あの邪魔者を消すせっかくのチャンスが。ベティは動揺し、「だれか! だれか来て──!」と大声をあげるマーサにつかみかかる。
「うるせぇんだよ、ババア! 邪魔すんな!」
「ひっ!」
「ちょうどいい、てめえにも毒を飲ませて──」
「……飲ませて、どうする気なのかしら?」
冷静な声が響きわたった。
はっとベティは声のほうを見る。
夜用のドレスを隙なく着こなしたスカーレットが立っていた。
+++
「マーサ、大丈夫?」
「は、はい……ですが奥さま、この女はやはり……!」
「そうみたいね……」
私は「でてきて」と背後の闇に呼びかける。
現れたのはランタンを持った警察官だった。今日は夫もベティもなんだかそわそわしていていかにも怪しいと思っていたので、あらかじめ呼んでおいたのだ。
「……!」
ベティはあわてて調理台の上の小瓶を隠そうとする。
だが警官のほうが速かった。彼はすばやく小瓶を手袋をはめた手で取りあげ、「これはなんだ?」とベティに問いかけた。
「…………」
「言えないようなものなのか?」
「い、いえ……それは……」
「あててあげましょうか?」
マーサをかばうように立ち、私は言う。「毒でしょう? おそらく、トリカブトの根。あなたはそれを私専用の紅茶缶の中に入れようとしたのね」
「な、なんでわかっ……」
ベティは急いで口を閉じたが遅かった。
「……本当なのか」と警官がじろりと見る。
「う、うそよ! 全部あの女のでまかせ! 夫をあたしに取られたからってあんな嘘……! あ、あたしはただ、奥さまの元気がないから薬を入れてあげようと思っただけなのに……殺人犯扱いなんて……うう」
「とりあえず、殺人未遂の現行犯扱いでいいな」
「ま、待ってよ! 殺す気なんてなかったってば!」
「……ベティ? これはなんの騒ぎだ?」
階下が騒がしいことに気づいてジェイドがやってきた。廊下に立っている私たちとキッチンの愛人と警官を見、状況を察したらしく、顔をこわばらせる。
「あっジェイド。助けて!」とベティが叫んだ。
「このひとたちがあたしを悪者にするの!」
「…………」
「ジェイド。ねえ、なんとか言ってよ!」
「……いやー、お勤めご苦労さまです」
ぺこりとジェイドは警官に頭を下げた。
「……は?」
「こんな夜遅くまでご苦労さまですな。その女がなにをしたか知りませんが、ま、どうぞ連れていってください」
「ちょっ、ちょっと! あんたなに言ってんの!?」
「どうぞどうぞ……」
「このトリカブトを買ったのはあんたでしょう!?」
「なっ! おまえ、それは──」
「…………」
「…………」
ふたりは黙り、警官を見る。
警官の判断は容赦なかった。
「ジェイド・カーマイン氏。あなたにも殺人未遂の共犯として話を聞く必要がありそうだ」
「ち、ちがうんだ……! これは……!」
「……ねえ、ベティさま」
泡を食っているジェイドとベティ。
ひとり冷静な私は彼女に向けてつぶやく。
「あなたが欲しがった男は、愛人が窮地に陥ったらかばうどころか切りすてようとする男ですよ」
「!」
「それでもほしいのならどうぞ。私は今日限りで彼とは別れますから。
嫉妬深い若い女好きの無能な男で、もしかしたらあなたがお年を召されたあとべつの若い女に乗り換えるかもしれませんが、でも、あなたはそれ込みで彼のことがお好きなのですよね?」
「う……っ」
「そうなのですよね?」
ベティはなにも言えなかった。
「ほら、行くぞ」と警官は彼女の腕をつかむ。
「あと、ベティさま──」と廊下にでてきたところで私はさらに言った。
「あなたがいる劇場、支配人がかわるそうですよ」
「は!?」
「色ボケの支配人をかえろと俳優たちが暴動を起こしたそうです。なのでこれからは実力主義になりますけれど……ああ、あなたには関係ありませんわね。いままでも実力で主演の座を射止めてきたのですもの」
「う、うそでしょ……」
「あなたの裁判が終わったら見にいきますわ。ベティさまが主演の舞台」
「……っ! このぉおおお……っ!!」
私の皮肉にベティは歯をむき出しにしてキレる。
隣にいる警官がぞっとするほどの形相だった。
「それと、あなた──」
「……えっ?」
「お聞きになったとは思いますが、今日限りであなたとはお別れです。カーマイン家への融資は今日で終わりとなりますので、どうぞご理解いただけますように」
「え? 融資……?」
ぽかんとするジェイドに私はさらりと答える。
「あら。自分の家の財政状況、ご存じなくて?
──どこかのだれかさんが若い愛人に貢ぎまくったせいで財産はもうとっくの昔に底をついています。それを私の生家、レイライン家が補填していたのですよ。私の趣味も安定してきてからは、僭越ながら私自身がださせていただいていましたが」
「しゅみ……?」
「ジュエリーデザイナーをやっておりますの。ほんの趣味で。スカーレット・レイラインと言えば上流階級の間では有名なのですが……どうやらここに上流階級の方はいらっしゃらないようですね」
「そんな……そんな……」
「のちほど借用書をお送りいたしますわ。元夫のよしみで利子は安くしてさしあげます。何年かかってもかまいませんから、私が補填していた分、おかえしいただきますよう」
「う、う、嘘だ……! 嘘をつくな! この、嘘つき女めっ!」
「……嘘ではございません」
燭台片手にやってきたのは執事長のティムだった。騒ぎに彼も起きてきたのだろう。
ティムは悲しそうに首を振る。
「旦那さまには浪費をやめてくださいますよう何度も忠言申しあげたはずなのですが……一度として聞き入れてくださったことはありませんでしたね。
我がカーマイン家の財政は困窮の一途をたどっております。スカーレットさまの助けがなければ明日のパンにも困るほどに」
「う、嘘だ! カーマイン家は百年続く名家だぞ! そんなわけがあるか!」
「たとえ何百年と続く名家であっても。家を食いつぶす白蟻がいれば、崩れ落ちるのは一瞬でございます」
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……っ!」
「お認めくださいませ。旦那さま」
「う、うううっ……!!」
ジェイドは信じられないように頭を抱える。
かと思うと突然私の足元にスライディング土下座を決めてきた。
東洋の秘術。
まさか使えるとは。
「た、頼む。スカーレット。いままでのことはすべて謝る。
だからやり直そう、な? お、おまえだって俺がいなきゃ困るだろ?」
「いえべつに」
「こ、この屋敷での暮らしをおまえだって気に入ってたじゃないか!」
「でもここよりレイライン家のほうが大きいですし……」
「頼むよぉおおお! なんでも好きなものを買ってやる! だから」
「……あの、まず私にお金を返すのが先ですよね?」
「なんでもする! なんでもするから捨てないでくれぇええ!!」
「ジェイドさま……」
私は床に額をこすりつけて懇願してくる元夫(現・他人)を見下ろした。
なんて憐れなこの姿。
「こういうとき、なんと言うかご存じですか?」
「え……?」
私はにっこり笑って言いはなった。
「『もう遅い』、ですわ」
ジェイドは床に崩れ落ちる。
「カーマインさん、行きますよ」とすっかり呆れ果てた態度で警官がその腕をつかんでひっぱりあげた。
「おれは……おれは、名家の長男なんだ……」
「女優の夢がぁあああ……」
「はいはい、続きは署で聞くから」
身も世もなくわめくふたりを連れて警官はでていく。お仕事、ご苦労さま。
「奥さま……」とマーサが私に寄りそった。
「これから……どうなさるのですか?」
「大丈夫よ、マーサは私の家にきなさい。ティムも行きたいところがあるなら口をきいてあげるわ。有力な貴族はだいたい知り合いだから」
「は。痛み入ります」
「わ、私たちのことよりも」
マーサはじっと私を見つめる。実の母親よりも愛情がこもった目で。
「奥さまは……どうなさるのですか?」
「そうね……」
私はこれからの自分を考えてみる。
再婚。趣味。交際。なにをするにしても一番大事なのは、
「自由に、好きに生きるわ。これからもね」
【完】